逆算すれば、この物語が何年の出来事なのかわかるかもしれませんよ? まあさすがにそこまで調べようと思う人はいないと思うので、自分のちょっとした遊び心って感じなんですけどね。
「じゃあ、また後で」
「ああ、後でな」
短いやり取りを終え、通話を切る。
恐らく彼はまだ校舎内にいる。向こうが焦って全力疾走でもしない限り、指定の場所にたどり着くのはこちらの方が早いだろう。
ゆっくりと歩き出し、のどかな景色を通り過ぎていく。はためく風はあの時と同じように背中を撫でるが、もうそんなものに縋りつく自分ではない。
これから起こる展開はあまりに予想がつかない。しかし、たった一つの確信に従って、躊躇うことなくその足を進めていく。
俯く日々は過ぎ去った。悔恨も罪も形を変えることはないけれど、これからは薄汚れた泥ではなく煌びやかな星を見て行こう。
今なら、そんな昏い空の中でも見失わずにいられると思うから。
大丈夫。次はきっと上手くいく。
「『僕』はもう、大丈夫だ」
一か月前に口にした時とは明らかに違う前向きな感情を乗せ、僕は晴れやかな表情で呟いた。
二人の囚人が鉄格子から外を眺めた。 一人は泥を見た。一人は星を見た。
Two men look out through the same bars: one sees the mud, and one the stars.
フレデリック・ラングブリッジ
『不滅の詩』
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
一週間前。
連休明けの放課後は、初仕事を終えた解放感と同じ日があと四日も続く倦怠感がせめぎ合う時間帯だ。とは言え先のことを憂えていても仕方ないので、頭を空っぽにして帰路を黙々と進む。
清隆はどうやら明日から始まる勉強会の下準備をしなければならないようだ。大方、赤点候補の三人を訪ねているのだろう。健は兎も角、あとの二人を上手く誘えるのか少し不安なところだが、ボクの関与する余地のあることではない。
五日ぶりの孤独感。日に日にこの感覚を経験することが増えてきたなと寂寥感を抱いていると、端末からメールの受信音が鳴った。
手慣れた動作で内容を確認すると、椎名からだった。
「この後、そちらにお伺いしてもよろしいですか?」
相変わらず堅い口調だ。普段の彼女に慣れていなければ大分距離を感じてしまうことだろう。
「ほん?」
「今日は勉強でもしようかと思いまして」
なるほど。先日話していたことを早速実行に移してくれるようだ。今までのように本を読んでいるだけなら、無理してこちらに来ずともお気に入りの図書館で過ごして構わないと言うつもりだったが、これは断りたくない案件だ。
「まつ」
二文字だけ送信し、すぐに端末をしまう――ことはせず、そのまま別の画面を開いた。
「今日いい?」
程なくして返信が来た。
「今日からやるなら俺も行こう。場所は?」
「うち」
「了解。この後行く」
メールの相手は隆二だ。つい昨日、一之瀬に相談した結果ボクらの勉強会に参加することにしたらしい。椎名が今日からと言いだしたのでたった今急遽誘ってみたが、快諾してくれた。
そういえば、一之瀬って下の名前何なんだろうな。結構呼びにくいから、場合によっては呼び方を変えたいのだが。後で隆二に聞いてみようか。
あと数十分もすれば多少身の回りは賑やかになる。独りでいることには慣れっこのつもりだったが、頬が緩んでしまうあたり、結局自分は他人を求めずにはいられないのだろうか。
まあある意味、自分の性を考えれば必然なのかもしれない。
己の脆弱さを嗤いながら、ほんのりと黄色が差した空の下をくぐって行った。
それから椎名がボクの部屋の呼び鈴を鳴らしたのは、ちょうど三十分後のことだった。
「いらっしゃあい」
「お邪魔します」
数回繰り返されているやり取りだ。さすがの彼女もここまでくれば遠慮せず気軽に過ごしてくれるようになった。
「隆二も参加してくれるみたいだけど、大丈夫だったか?」
「え、そうなんですか? まあ、いいですけど……」
あれ、予想していた反応と違う。彼女は青みの薄い心を持っているのもあって性別どうこうよりも人柄で判断することが多い。隆二のことを煩わしく思っているようには見えなかったから問題ないだろうと高を括っていたが、さすがに心の準備ができていなかったか。
まさかボクと二人きりじゃないから残念がっているなんてこともないだろうし、もう少しデリカシーというものを考えるべきだったのかもしれない。何とも合点いかん話だ。
「あー、すまん。事前に聞いておくべきだったなあ」
「あ、いえ。そういうことではなくて」
「え、違うの?」
答え辛そうに口を噤む彼女だったが、そのまま不安そうな顔で室内を見回す。
「このある意味異様な空間を前にして、どんな反応をされるのかと」
「……まあ、なんとかなるっしょ」
ほら、こういう時のためにボクらで完成させたペーパーゾディアックが威風堂々と並べられているわけで……。
言いたいことはわかるが、そこは何とかくみ取ってもらう他ないだろう。
「やはり何かしら買っておいた方が良かったんじゃないですか?」
「そうは言うけどねキミ、生憎ボクは人並な物欲を持ち合わせてなどいないのだよ。それこそ、生きてるだけで丸儲けなんて真顔で言い切れるくらいにね」
暫し困り顔をするも、何を言っても無駄だと判断したようだ。軽く溜息を吐いて、椎名はバッグを開けた。
「目標は何点だい?」
「うーん、九十点くらいでしょうか」
「ほう、そりゃすごい。それだけ取れればクラス一位は間違いなしだなあ」
「どうでしょうね。一応勉強のできそうな人はいそうでしたけど。浅川君は?」
「ボクは、まあ、適当に?」
中身のない返答をするが、正味絶賛尻込み中だ。変にクラスで浮かないためには手を抜くのもいいが、別に周りの目を気にする質でもないしそれは本来の『僕』にそぐわない行為だ。安易に選ぶ手段としては抵抗がある。
あるいは……いや、やめておこう。
「ま、お互いクラスのことも退学のことも考えるような身分じゃないし、ユルークやろうぜえ」
「はい。もしわからないことがあれば聞きますね」
「勿論。ボクもそうするつもりだよ」
そのまま自然とボクらは各々のタスクに取り掛かり始め、すぐに無言な空間が生まれた。
Dクラスであるボクに躊躇うことなく「勉強を教えてもらう」可能性を考えているのは、思慮深さ故なのか天然さ故なのか。いずれにせよ、それが前々から思い知らされている彼女の美徳の最たる表れだろう。
暫く会話のない時間が続くが、ボクは時折今自分が身を置いている状況を噛み締めていた。
オーナメントに欠けた部屋は確かにロマンスを感じるには惜しいが、風情まで欠けているとは思わない。何かを共有する相手がいる時、色の濃い背景はその人と見つめ合い触れ合う上で邪魔になる。
こういう何もない真っ白な部屋では、思わずその場にいる他人のことや自分のことに思考を巡らしてしまうもの。持論ではあるが、ボクはそういう時間が好きだ。
だからこうして、決して下心によるものではなく、ただ自分が今していることに対して感慨に耽る目的で、目の前の少女を盗み見る。ノートと向き合っている彼女の真面目な顔つきからは、ボクらが出会ってた日の待ちぼうけを喰らっていた時と似た大人びた印象が見受けられた。
そんな風に思っていると、不意に椎名が顔を上げ、机を挟んで目が合った。
「……? どうしました?」
「ん。こういう時間は、きっといつまで経っても愛おしく感じるものなんだろうなって」
彼女は目を瞬かせ、頬を緩ませた。
「確かに、どんなものかと思っていましたけど、存外心地良いものですね」
「うん、そうだね……」
ボクが深い余韻に浸るのを彼女は微笑まし気に見つめ、少しして自分の手元へと視線を戻していった。
やはり四方を染める鮮やかな純白は、ゆったりとボクの心を包み、安らぎと喜びに敏感にさせてくれる。今、ここは一つの幸せな空間と言えるのかもしれない。それを形作る人間が後に一人か二人増えるのだから、少しは惚けてしまっても罰は当たらないだろう。
……真っ白、か。
「……
「何ですか? それ」
「いやあ、ここに名前を付けるならそんな感じかなって」
「確かに、寧ろそれしか名付けようがないくらいですものね」
苦笑する椎名を前にボクも似た感情を乗せて薄く笑う。全くもってその通りだ。
それから数分経ち、再び音質の悪い呼び鈴が鳴った。
「お、来た来た」
ボクは足早に玄関へ向かい扉を開ける。
「いらっしゃあい」
「こんにちは、浅川」
「上がって上がって。さっき始めたばっかだぞー」
隆二は遠慮がちに中へ入り、脱いだ靴を揃える。
「これ、手土産だ。よかったら召し上がってくれ」
「ふぇ? おお、律儀なやつだなあ。そこまでしなくてもよかろうに」
「まあそう言うな。この前のお礼も含めている」
「なるほどなあ。じゃ、大事にするよ」
「ちゃんと食べてくれよ……」
まあ食べざるを得ないだろうね。無料商品以外を口にする貴重な機会だ。
軽いやり取りを交わしながら二人で椎名の座るリビングへ移動する。
「こんにちは、神崎君。今日はよろしくお願いします」
「こんにちは椎名。こちらこそ、よろしく頼む」
手早く挨拶を済ませると、案の定彼はキョロキョロと室内を見回す。
「言っていいものかわからないが、だいぶ殺風景な部屋なんだな」
「落ち着けるいいところだろう? さっき椎名とホワイトルームって命名したところなんだ」
「何もないのはかえって落ち着かない気もするが……名前は結構的を射ているな」
それなりに気に入ってくれたようだ。よしよし、これからボクらがここに集まる時はそう呼ぶことにしようか。
その後唯一と言ってもいいインテリアである折り干支にも触れ、程なくして隆二もノートを開き始めた。
「――小説で登場人物の気持ちを答えなさいってナンセンスだと思わない?」
「微妙なところですね。人それぞれで解釈が分かれるような場面を問題にするのはどうかと思いますけど、基本は作者が明確な答えを示唆させることだってありますし」
「ああ、確かに。時々解説とか見るとどこどこの部分が手がかりになって下線部の心情がわかるって書かれていることもあるけど、実際その通りに狙って作られているもんなのかねえ。だとしたらすげえやあ」
「そう考えると、小説も案外論理的な要素が絡んで奥深いな」
「そういう角度から読むとまた違った楽しさを感じられるかもなあ。あ、論理的ってなると、数学なんかとも重なるなあ」
なんていう他愛もない会話を時折咲かせながら、それでも着実に各々のタスクが進んでいく。この二人、やはり学力も知性も事足りているようだ。ボクも普段以上に勉強が捗っているような気がしてくる。
「そういえば、もう一人誘っているんじゃなかったか?」
「ん、まだ迷ってるみたいだなあ」
不意に挙がった話題だが、何のことを言っているかはすぐにわかった。
「名前を聞いてもピンとこなかったが、知り合いだったのか?」
「いや、キミと出会ったその日に知り合った」
「数日しか経ってないじゃないか。よくもまあ軽く誘えたものだ」
「まあねえ。
ボクの返しに首を傾げる隆二。そりゃ
「まあそっちの方は次回までには自ずと結果がわかるだろうさ。そんなことより、Bクラスはどうなんだい? 勉強会でもするの?」
「それは……」
何の気なしな問いのつもりだったが、彼は口を噤んでしまった。ボッチで殊更内情を把握していない、というわけでもなさそうだ。
「あー、言えないんだったら別にいいよ。変に探っているって思われたくない」
「……いや、問題ない。うちは一之瀬を中心にして全体で勉強会をやる予定だ」
「よかったのかい? 言ってしまって」
「まあ、テスト勉強の進捗どうこうを明かしたところで、他クラスが干渉するのはほとんど無理だろう」
「だなあ」同感だ。そもそもこの質問を世間話の如く繰り出したこと自体、その考えがあったからなのだ。問題を作り合うだとか点数をクラス対抗で競うだとか、直接対決となる要因でもなければ今回限りの方針を知ったところで無益に等しい。
「そっちはどうなんだ?」
「うちはユーモアに欠けるやつが多いからなあ。小人数で分かれて色々やるっぽいけど、上手くいくのかどうかって感じ」
「ユーモアが基準なのか」
「ふっ、知性なくしてユーモアの真髄には触れられないのさあ」
決して冗談やおふざけではない。対応は称賛だったり便乗だったり受け流しだったりで十人十色だが、どれもある程度どこにユニークさが秘められているかを理解した上でできることだ。健なんかにやってみろ。馬の耳に念仏を唱えた方がまだいい反応が返ってくるぜ。
「そんなに危機的な状況なら、お前も教えに行ってやったほうがいいんじゃないか? 見たところ、できる方だろう」
「そいつぁできない相談だなあ。ボク、クラスでは学力底辺で通ってるから」
「底辺? ……もしかして、創立以来初の抜き打ち小テストで0点を取った生徒って、お前のことか?」
「あれ、言ってなかった?」
「それ、私も初耳ですよ」
椎名もか。
言われてみれば、Dクラスに0点が出たという情報が出回ったとして、それがボクだということまで知れ渡る可能性は低いか。
「何か事情があったんですか? 少なくとも、絶対に本気ではなかったですよね?」
椎名が甚だ疑問だと言わんばかりに身を乗り出してくる。隆二も興味深げにボクの答えを待っている。
「……二人共、肝に銘じておくといいさあ。どうやら『頓智』はこの学校で言う実力には入らないらしい」
「とんち?」
「んでもって、一休さんは決して賢人ではなかったんだと」
「一休さん?」
なおも頭上にクエスチョンマークを漂わせる二人にボクはうんうんと頷く。
ボクの言葉を噛み砕き、双方が口を開いた。
「……つまり、悪ふざけをしてしまったと?」
「悪意はなかったんだけどね」
「肝が据わっているんだな。俺にはとてもそんな度胸はない」
「至って真面目だったんだけどね」
二人して酷い言い草だな。強いて言えば頭のお堅い教師陣と感性が合わなかったというだけの話なのに。
しかし、次には柔らかな目付きをこちらに向けてきた。
「ですが、それでこそ浅川君だと思えてしまうのが不思議なところです」
「出会って間もないが、俺も何となくお前らしいなと思ったぞ」
ボクらしい、か。貶されているのか褒められているのか怪しいが、表情を見るにそこまで悪い意味を込めているわけではないのだろう。
「あっはは、そりゃどうも」
だから、軽くお礼だけ言って、再び机の上に意識を戻すことにした。
「よし。そろそろ今日はお開きにしますかあ」
二時間程経過し、大きく伸びをしながら言った。
今日は主に小説文の読解を中心に練習したが、想像以上に捗ったな。
「そうですね。私もキリがいいところなので、これくらいにしておきます」
「集中していると時間が経つのも早く感じるものだな。明日もやるのか?」
「んー、いや、明後日にしよう。各々のプライベートもあるだろうし、新参者が来る前に回数を重ねてしまうのも悪いだろうからなあ」
あの後一件の連絡が入った。どうやら保留中だった彼女も次回から参加してくれるようだ。ただ、明日は先約があるため明後日からにさせて欲しいとのことだったので、そうしてくれるよう二人にも折り入って頼むことにしたのだ。
二人も新メンバーを心待ちにしてくれているようで、快諾してくれた。椎名に至っては「そもそも私はプライベートからして暇なんですけどね」なんて自虐を放ち少し心配したが、そこまで卑屈そうには見えなかったし淡々と事実だけを述べたつもりなのだろう。
「それじゃあ、俺はお暇させてもらおう。また明後日な、二人共」
「はい。また明後日」
「ん、鼻歌鳴らして待ってるよ」
入って来た時よりもどこか力の緩んだ動作で、隆二は玄関のドアを開けて出て行った。
進んでああ言ってくれたあたり、感触はよかったみたいだな。ちょっと安心。
「椎名はまだ帰らない?」
「どうしましょうね。どうせ自室に戻っても一人惰眠を貪ることくらいしかできませんし……」
考え込む様子を見せる椎名だが、ボクは少し訝しく感じた。彼女が悩んでいるのはこれからのことではなくもっと別のことのような気がしたのだ。
そう、まるで自分の思っていることを打ち明けるべきか躊躇っているような――。
「……浅川君」
「……なんだい?」
弱々しく名前を呼ばれ、ボクも静かに応答する。
「一つ聞いてもいいですか? 勉強会のことです」
何となく、ただ何となく聞きたくない気がしたが、今の時点で無下に断る選択をするのは憚れたので、耳を貸すことにした。
「今回のは、あなたが本当にしたかったことなんですよね?」
「……前にも言ったろう。ボクはこういうのに憧れて――」
「あなたは、本当に『私たち』と勉強会をしたかったんですよね?」
思わず息を呑んだ。
瞳を震わせながらもこちらを真っ直ぐに見つめようとする彼女と目が合う。怯えるような眼差しに耐えられず、すぐに視線を逸らしてしまった。
「……親しい友人と、とも言ったはずだぞ? キミのことをよく思っているからこそ、ボクは一緒に時間を過ごしているんだ」
きっと彼女はこう咎めたいのだろう。ボクは『勉強会そのもの』に憧れているだけで、相手は誰でもよかったのではないか、と。
その点についてははっきりと「そんなことない」と答えられる。例えば相手が櫛田や有栖だとしたら、胃を焼かれるような思いになってしまうはずだ。椎名と隆二だったから、ゆったりと楽しめたとは本気で思っている。
ただ、それにも関わらず困ってしまっているのは、
この勉強会の最大の目的は、決して『ボクの憧れのため』ではない。それはあくまで主目的に付随する価値、言わばおまけのようなもの。
本来の目的まで見透かされていなかったことには安堵したものの、僅かに尻尾を覗かせ、彼女にさせたくない表情をさせてしまったという事実が、ボクの心を強く苦しめた。
「そう、ですか……」椎名はいまだ素直に言葉を飲み込むことができなかったのか、俯きがちに言って玄関の方へと向かって行く。
「帰るのか?」
「はい。今日はありがとうございました。また明後日」
「うん、明後日」
ガチャン。
扉の締まる音が、胸の中に重く響いた。
そこでようやく一つ、溜息が零れた。人前では見せない、真に嘆きや疲れを乗せた吐息だ。
抱えきれないような矛盾をはらんだ行動に精神を尽くすことほど、自分を見失い虚しさに苛まれることはない。
だが、それでもやめるわけにはいかない。もう既に賽は投げてしまった。
精々一、二か月の辛抱だ。そうすれば、楽になれる。
その頃には、
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
少し休息を取り多少の落ち着きを取り戻したボクは、朧気な足取りで箪笥まで歩く。
そして一番上の右側の引き出しを開け、『ある物』を取り出した。
それの表面をボクは別珍を使い優しい手つきで拭き、時に息を吹きかけて掃除をし始めた。
別にあの二人がいる時にやってもよかったのだが、勉強会という趣旨には関係ないし、信頼度が足りない人間にはちょっと見られたくない。清隆にはギリギリ見せられないくらいだ。
「廻るー、廻るー。弧線を右にー」
オーディエンスのいない箱の中を、アルトボイスの波が充満する。
「希望を奏でる秒針はー、まだ見ぬ未来をとーもーすー」
ゆったりとした曲調は自然と手の動きを鈍らせる。
「あーなーたーとの
目を閉じ歌詞を噛み砕きながら口ずさむ。
「それはーまさーしくー、私のー色ー」
瞼に映るのは過去にして憧憬。もう戻れない、輝かしい景色。
「なーりたーいー自分があるー。今しかできない、ことがあーる」
ついに手を止め、意識が完全に回想と歌唱のみに向いた。
「形にーしたーくーてー、だから手ーを、伸ばしつーづけたんだー。信じていたんーだー」
頭の中のBGMが一瞬壮大なものとなり、反動の如く水を打ったような調子に変わる。
「でーもー、いつしか思ーい出ーす」
この背を見つめる瞳が存在していたとしたら、そこには悲壮感が映っていたことだろう。あるいは、突然歌いだしたボクをおかしな人を見る目で眺めているかもしれない。
「空ー、にはー、届ーかーないと」
だけど、そんなことを気に掛ける思考はすぐに霧散した。この歌を歌う時は、決まって途中で止めることが憚れた。
「つーいーぞー手を下ろしてしまったー」
一体、いつからこびり付いているのだろうか。
「心だけ止ーまるー。愚ーかなー、私。深く深く、おーちーるー」
ただ、それ程までに、これはボクにとってかけがえの思い出で――、
「何をー嘆いてもー、仕方ーなくー。何度ー悔いーてもー、繰り返すー」
怠ってはならない、『鎮魂歌』。
「ああ、あまりーにー、あまりーにー無慈悲にー」
ついに、終盤を迎える。
「廻るー廻るー。弧線を右にー」
それからは暫く、何の音も生まれなかった。自分のいるこの部屋が外から隔離されたような錯覚を覚え、頬に手を当てると、生温い湿った感触があった。
ボクはあの日以来、乾いた顔のままこの歌を終えられたことがない。忘れないために、思い出すためにこうして唱えているが、毎度毎度気持ちが還り、感傷に浸ってしまう。
その度に、自分はあの人たちのことを今も想っているのだと実感する一方、他の人たちに対してこれといった情緒を向けられていないという事実も共に突き付けられるのだ。
ゆっくりと、目を開ける。真っ暗だった視界は少しチラチラと歪んでいたが、次第に順応しいつも通りになった。
この詩が生まれた時、あの人は何と言っていただろうか。忘れたくない、本来忘れらないことであるはずなのに、曖昧な記憶からは思い出すことができなかった。
辛うじて覚えているのは、この詩で紡がれる言葉には何か『秘密』があるということ。
しかし、考えても考えても、その正体はわからない。
だからいつしか、いつまでもわかりっこないことを悩んでも仕方がないと諦めてしまった。
以降この詩は、ただただ自分の後悔や罪悪感を形に残しておくための十字架のような役割を持つようになった。
それが酷く悲しく思える時期もあったが、今となってはそれくらいがボクにはお似合いだと自嘲している。
針の動かない『懐中時計』。それはまるで、自分の心を写しているようだった。
元に戻せたらいいのに、と何度叶わない願いを抱いたことだろう。
当たり前なことだ。人生は時計のように定まった円を描くことなんてないのだから。
浮いては沈んでひん曲がって、最終的に出来上がるのは名前のない非幾何学的模様。
だから敢えて、ボクはやけくそのように強引に――。
自分の幸福なんて顧みず、この手で針を進めることにだけ意を注ぐ。
いつも通り、流した涙は拭かなかった。
念のため言っておきますと、オリ主が歌っていた歌は完全にオリジナルです。現実には存在しませんので、ガイドラインもクソもございません。
歌詞を改めて載せておきます。
廻る廻る 弧線を右に
希望を奏でる秒針は まだ見ぬ未来を灯す
あなたとの記憶(とき)が 教えてくれた
それはまさしく 私の色
なりたい自分がある 今しかできないことがある
形にしたくて だから 手を伸ばし続けたんだ 信じていたんだ
でも いつしか思い出す 空には届かないと
終ぞ手を下ろしてしまった
心だけ止まる 愚かな私 深く深く 堕ちる
何を嘆いても仕方なく 何度悔いても繰り返す
嗚呼あまりに あまりに無慈悲に
廻る廻る 弧線を右に
オリ主の過去話について(どれになっても他の小話もやるよ)
-
止まるんじゃねぞ(予定通り,10話超)
-
ちょっと立ち止まって(せめて10話以内)
-
止まれ止まれ止まれ…!(オリだけ約5話)
-
ちょ待てよ(オリキャラだけ,3話)
-
ムーリー(前後編以内でまとめて)