アンデルセンは笑っている   作:小千小掘

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「おい、何があったんだ?」

 

 険悪なムードに臆さず踏み込み、堀北の胸倉を掴む須藤を宥めるようにしながら綾小路は問うた。

 突然現れた友人に一瞬動揺するも、すぐにギラリとした目付きになって須藤は言った。

 

「コイツ、人を愚鈍とか言って罵った挙句俺のバスケを侮辱しやがったんだ」

「私は……事実を言ったまでよ」

 

 語気の荒れている彼とは対照的に、堀北の口調はやけに大人しめだった。心なしか俯いているようにも見える。

 

「勉強ができないから何だってんだよ。頭良いだけで偉そうな口叩いてんじゃねえ」

「あなたたちを無知無能だと貶しているわけじゃないわ。それを直すための勉強会だもの。ただ、何度も何度も集中力を欠いてばかりでやる気を感じられないことに呆れているだけよ」

「ハッ、大体勉強なんざ何の役にも立たねえんだよ」

「バスケに明け暮れるよりかは余程堅実なことだと思うけど」

「そりゃ進学とか就職とかの話だろうが。バスケでプロ目指してる俺には関係ねぇよ」

「そんなに簡単な世界だと思っているの? 日頃の本分すらまっとうできない今のあなたが将来そんな大それた選手になれるだなんてとても思えないわ」

 

 まるで水と油。根本から価値観の違う二人が仲良くできるわけがない。割って入った綾小路そっちのけでヒートアップしていた。

 

「どうせバスケットの練習も上手く行かないことがあったらすぐに逃げていたんでしょう。そんな人間がプロになるだなんて幼稚な夢物語を実現できるわけが……」

 

 ついに堀北が須藤のバスケへの想いにまで中傷しようとする。――が、そこまで口にしたところであっと何かに気付いた様子を見せ、上げたはずの顔を再び俯かせてしまった。

 

「い、いえ。それとこれとは話が別ね……」

「あ? 何が言いたいんだよお前は」

「現実を見なさいということよ。あなたの好きなバスケットも赤点一つでできなくなるかもしれない。退学という二文字の重さをあなたは本当に理解しているの?」

 

 間を置かずに元の威勢に戻ったのはさすが堀北といったところだろう。飛び出た正論を前に須藤とてたじろぐ他なかった。

 至極真剣な表情で彼女は言った。

 

「誰のためでもない、自分のためよ。あなたのバスケのために、今は苦汁を飲み込んで精進しなさい」

 

 どこか冷静さを取り戻したような毅然とした態度での発言だったが、相手はそういうわけにもいかなかった。

 完全に頭に血が上ってしまっていた須藤は舌打ちをし、不機嫌な態度を隠さず乱暴な手つきで荷物を持ち上げて去って行く。

 

「お前の施しなんざ受けてらんねぇ。部活も惜しんできたってのにイライラさせやがって、時間の無駄なんだよ」

 

 吐き捨てながら退出しようとする須藤だが、それを黙って見届けるわけにはいかない男がこの場にいた。

 

「須藤」

「……っ、綾小路……」

 

 ハッと目が覚めたかのように動揺する須藤と目が合う。

 

「いいのか? 本当に。鈴音の言ったことはあながち嘘というわけでも……」

「……わりぃ、じゃあな」

 

 歯がゆさから背を向けるようにして、須藤は一目散に出て行ってしまった。

 それに倣うようにして、池と山内も席を立つ。

 

「俺もやめよ。確かに勉強できない俺らも悪いけどさ、みんながみんな堀北さんみたいに頭良いわけじゃないんだよ」

「参考書まで買ってくれたのは嬉しかったけど、そんな上から目線な物言いされちゃ勉強する気もなくなるってもんだぜ」

 

 ぞろぞろと、二人も出口の方へ歩いて行く。

 

「ふ、二人共、本当に良いの?」

 

 彼らをこの場に引き留める役目を負っていた櫛田が不安げに聞くが、既に事は手遅れなようだ。

 

「ごめんな櫛田ちゃん。――沖谷も、早く行こうぜ」

 

 おどおどしていた沖谷は山内からの呼びかけに迷う素振りを見せる。

 

「えっと、僕は……」

 

 彼は無言のままでいる堀北と綾小路をそれぞれ一瞥し、小さな声で答えた。

 

「……僕、もうちょっとだけここにいるよ」

「お、おう、そっか。じゃあ先に行ってるわ」

 

 予想外の返答だったのか少し歯切れの悪いセリフを吐いて、二人一緒に去って行った。

 

「ねえ、堀北さん。どうしてあんなことを……」

 

 消え入りそうな声で櫛田が聞いた。蓄積されていたものがダムの決壊の如く一気に溢れ出たために、突然の出来事だったのだろう。綾小路は危惧していた事態が訪れてしまったことに落胆する。()()()()()()()()()()()()()()()、彼は先刻の呼び出しに乗り気でなかったのだ。

 一番痛かったのは土日を挟んでいたことだ。勉強会のない二日間で三人の意欲は逆戻りしてしまっていた。そこに綾小路への呼び出しイベントが重なり、堀北を宥める役割を熟していた彼がいなくなったことが決め手になった。堀北自身に精神的な限界がきていたことも、懸念要素の一つだったのだ。

 自分が席を外した際の池と山内の阿鼻叫喚な様子からして、大方あの後も自分と自分に声を掛けてきた少女のことにばかり意識を削がれていたのだろう。言い争う中で出てきた堀北の発言からもその一面を窺うことができた。一概に彼女を責めるというのも、正当ではないように思える。

 櫛田の問いかけに対し、彼女はいつまでも俯いたまま何も言わない。ただ、その拳が固く握りしめられているのが、綾小路からは見えた。

 答えるつもりがないことを察したのか、櫛田は彼女に背を向け、赤点候補の三人の後を追おうとする。

 

「……私が何とかして見せるよ。こんなに早く友達とお別れになるなんて嫌だし、何より綾小路君に頼まれたことだから」

 

 その背中には哀愁が見え隠れしているようだったが、堀北は彼女の言葉に違和感を覚えたようだ。

 

「櫛田さん。あなたは、本気でそう思っているの?」

「クラスの仲間を助けたいって思うことがそんなに変?」

「その心意気を疑っているのよ。あなたが本心から彼らを救おうとしているようには思えない」

「何それ……意味わかんないよ。どうしてそんな酷いことが言えるの? ……じゃあね、三人共。私、今から須藤君たちのこと探してくる」

 

 穏やかではないやり取りを終え、櫛田は図書館から姿を消した。

 次にやってくるのは当然、深い静寂だ。何をすればいいのか、何を言えばいいのかわからない。そんな時間が引き伸ばされていく。

 居心地の悪くなるような沈黙を破ったのは――紙の擦れる音だった。

 

「沖谷は、どうして残ったんだ?」

 

 きっかけを得た綾小路は、音の主である少年に声を掛けた。

 

「今までの僕だったら、きっと流されて池君たちと帰っちゃってたと思う。でも、偶にはそういうの、やめたいなって」

 

 彼は周りに流されてしまう自分の性格を、コンプレックスとまではいかないが気にしていた。かつての自分のことが脳裏に浮かび、思いとどまらせたのだろう。

 

「綾小路君と浅川君のおかげで、ちょっとは変わりたいって思えたんだ。例え須藤君たちが勉強をやめちゃっても、僕はやるべきだと思うからやる。もしかしたら、僕が勉強しているのを見て焦って戻ってきてくれるかもしれないからさ」

 

 間違いなくその言葉は、彼の成長を裏付けるものだった。

 そしてそれは、綾小路と、その盟友である彼の行動によって始まった変化……。

 

「……お前は、強くなったな」

「あはは、そうかな。だったら嬉しいかも」

 

 短い会話ではあったが多少はざわついていた心が落ち着きを取り戻した。綾小路は再び堀北と向かい合う。

 

「……鈴音」

「……何かしら」

「それが、お前の下した決断か?」

 

 先週末に彼は「選択しろ」と念を押した。その結果がこれなのかと、純粋に問いただした。

 

「……違うわ」

 

 しかし彼女は、肯定しなかった。

 綾小路は言葉の続きを待つ。

 

「いつもの私だったら、とっくに投げ出していたわ。それをここまで粘っただけでも褒めて欲しいくらいね」

 

 普段通りの高飛車なセリフだが、その声は若干震えているように聞こえる。

 

「でも、自分が切り捨てようとしているものが正しいのか、確信を持てなかった。あなたの、言う通りだった……」

 

 垂れた髪で見えづらいが、彼女は唇を噛んだ表情で語っていた。

 

「迷いながらやってきた。思えば、自分の葛藤を誤魔化そうとしていたのかもしれない。そして結局どっちつかずのまま、気が付けば抑えていたものが全部溢れ出ていた」

 

 すると彼女は、一転して自分に失望するかのように脱力する。

 

「とんだお笑い種ね。私は最後まで何も選べず、納得のできる結果を臨むことができなかった……」

 

 そこにあったのは、今の彼女の弱さだった。誰かに頼る方法を知らなかった彼女は、自己解決する手段を見出せない中、それでも独りで足掻いていた。その事実を軽く見てしまっていた三日前の自分を、綾小路は恨んだ。

 そして同時に、()()()()()()()()()()()()()()を理解した。

 慰めの言葉はいらないだろう。かと言って、叱責など己の中で完結しているはずだ。

 今綾小路が、目の前の少女に言ってやれることは決まっていた。

 

「……つまり、お前はまだ勉強会をやめると決めたわけじゃないんだな?」

「え……?」

「どうなんだ」

「…………決めてはいないわ」

 

 「わかった」その言葉が聞ければ十分だ。自分の荷物を携え図書館を出て行こうとする。

 

「何をするつもり……?」

「櫛田を探してくる。あいつ一人では三人見つけるのに時間がかかるだろうからな」

 

 行為は正直に、目的は嘘を吐いて答えた。

 彼は勉強会に纏わる一連の出来事を経て、一つの可能性に至った。これからの行動はその布石となるはずだ。それも、主に自分のことに関して。

 

「ま、待って。私は――」

「お前はここにいろ」

 

 戸惑いながら呼び止めようとする堀北を制し、彼女を見る。

 

「自分の責務を果たせ。今日の勉強会は、まだ終わる時間じゃないだろう?」

 

 彼女はハッと息を呑み目線を下げる。

 そう、まだこの場に生徒は残っている。沖谷は梃子摺りながらも黙々と参考書を頼りに勉強を進めていた。

 今の彼女は意識を向ける先があまりに曖昧だ。当てのない未来に翻弄されているよりかは、目の前の現実に対応させるべきだろう。彼はそう判断した。

 

「…………わかったわ。――沖谷君、勉強会の続きをしましょう」

「うん、お願い。堀北さん」

 

 彼女は沖谷の隣の席に腰を下ろし、指導を再開した。

 それを見届け、綾小路は廊下へと出て行く。

 ――大丈夫だぞ、鈴音。お前はちゃんと進めている。

 彼は決して先刻の堀北を咎めようとも、まして嘲ろうとも思わなかった。

 勿論ここまで何とか勉強会を続けられたことは立派だが、それだけではない。

 彼女は苛立ちに身を任せ、須藤のバスケ――大切な夢を馬鹿にしようとした。しかし、すんでのところで気が付いたのだろう。()()()()()()()()()()()()()()()と。

 『Aクラスを目指す』。その言葉を聞いて、今のDクラスでどれだけの人が嗤いださずにいられるだろうか。

 茶柱も言っていた。今年のDクラスは本校初のゼロポイントスタートを決めた愚か者たちだと。そんな集団が今まで一度もなかったとされる一大下剋上を達成するなど、夢物語もいいとこだ。

 それこそ、堀北が須藤のプロ選手という夢に対して過った思いと同じように。

 何かに盲目になっているとき、人は案外自分のことがわかりにくくなるものだ。にも関わらず他人に指摘されるよりも前に自分の過ちに気づき律することができた。その時点で、堀北が何も成せなかったなど、あるわけがない。それが、綾小路の考えだった。

 それを言葉にせずに彼女の前から去ってしまったのは、彼の不器用さ故だろうか。あるいは、彼女はいつかそのことを自覚するはずだという過信からだろうか。

 いずれにせよ、今の綾小路はその思考を程々に打ち切り、脳裏に浮かんでいる一つの可能性を確かものとするべく校内を駆け回っていた。

 五分程小走りで櫛田を探したが、彼女の姿はどこにもない。電話は通じず、GPSも人気者の彼女が位置情報をオンにしているわけがなかった。

 あと探していない場所は……。

 彼は次に屋上を探そうと階段へ向かう。すると――

 

「あれ、綾小路君?」

 

 対象と鉢合わせになった。

 

「……屋上まで探しに行っていたのか?」

「うん。なかなか見つからなかったから。でもダメ、屋上にもいなかったよ」

「……そうか。じゃあもう帰ってしまったのかもしれないな」

 

 怪しい、とうのが正直な感想だった。

 本当に三人を探すためだけに屋上へ行っていたのだろうか。密会やら憂さ晴らしやら、表向き天使な彼女が後ろめたいと感じるものは多く挙がる。

 無論詮索することは憚られるが、そもそも今の綾小路にとってそんなことはどうでもよかった。

 

「綾小路君も、須藤君たちを探しに来たの?」

「いや、オレが探していたのは桔梗、お前だ」

「え、私?」

 

 キョトンとする彼女だったが、すぐに心当たりが浮かんだのか合点のいった顔になる。

 

「あ、もしかして……」

「相談したいことがあるんだ」

 

 予想通りだったようで、彼女は躊躇わずに快く頷いた。

 

「うん、いいよ。聞かせて」

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 話はそのまま屋上ですることにした。

 これまでとは違う場所であることに若干馴染みのない感覚がする。

 隣に座る少女を見て、女性は風にたなびく髪を鬱陶しく感じないのだろうかと疑問に感じながらも切り出した。

 

「勉強会、散々なことになってしまったようだな。すまない」

「綾小路君が謝ることじゃないよ。寧ろ私の方こそ、綾小路君がいない間にこんなことになっちゃって……力になるとか言っておいて、ごめんね」

 

 客観的に物申すなら、誰が悪いというわけでもないだろう。櫛田はその場にいるだけで池と山内の引き留め役になっていたのは確かだったし、綾小路もさすがに自分の居ぬ間に事態が動いてしまったら手の施しようもなかった。

 

「これからどうなっちゃうのかな。このままじゃ三人共退学になっちゃうよ……」

「一応勉強会は再開を考えているらしいぞ」

「そうなの? じゃあ尚更みんなを説得しないといけないね」

「ああ、そうだな。……実は、相談というのはそのことについてなんだ」

 

 「え?」櫛田は目を剥いてこちらを向く。

 

「用件は主に二つだ」

 

 二本指を立てて、綾小路は問いかけた。

 

「まず、池と山内の説得に協力してくれないか?」

「それはいいけど、どうして二人だけなの?」

「順を追って説明する」

 

 彼は襟を正し、櫛田に詳細を語り始めた。

 

「池と山内は、須藤に便乗する形であの場を投げただけだ。須藤が勉強会に復帰すると言い出すだけで考えを改めてもおかしくはない。参考書のおかげで多少鈴音に対する印象は和らいだようだし、やり方を考えればお前に協力してもらうことで引き戻すことは難しくないだろう」

「そこまでは理解したよ。でも、須藤君は違うってこと?」

 

 綾小路は無言で頷いた。

 

「あいつのヘイトは鈴音自身に強く向いている。彼女が開く勉強会であること自体が苦痛になってしまっているんだ。しかもあいつは我が強く、女子になびかれる質でもない。池と山内が戻ると言っても意固地になって聞かないかもしれないし、お前の説得による効果も薄いだろうな」

 

 参考書を持ち出した際に他の二人とは違ってあまり好感を示さなかったのも、須藤への説得が一筋縄ではいかないことを予感させる原因の一つだ。事前に馬が合わなそうだと思われていた堀北とここまで険悪な関係になってしまったために、連れ戻すのは困難を極めるだろう。

 

「確かに、須藤君はあまりそういうところを見せない人かも。じゃあ、一体どうやって須藤君を説得するの?」

「それは……」

 

 綾小路が至った一つの可能性。今までの軌跡を辿れば必然だった。

 

「オレは、()()()()()()()()()()()()と思っている」

「浅川君? でも、浅川君は堀北さんの勉強会に一度も参加していないんだよ?」

 

 櫛田の言う通り、彼はこれまでの経緯に全くと言っていい程関与していない人物だ。

 しかし、綾小路はこれが最善の手段だと言う。

 

「そもそも、須藤が良好な関係を築いている相手はかなり限られている。池と山内は論外として、バスケ部の先輩を除くとオレ、沖谷、そして恭介の三人くらいだ」

 

 『トップ4』というこの場においてはそぐわない単語は伏せて事実を述べた。

 

「それに、あいつは恭介に助けられた経験がある」

 

 水泳の授業日、賭け事に忌避感を抱いていた彼に恩を売った過去が浅川にはある。一応男子のグループチャットに入れてもらうという形で恩返しはされているが、須藤が人知れず浅川に恩義を感じている可能性は高い。

 

「他の誰かが試すよりも、恭介が動いた方が見込みはある」

 

 そう断言した綾小路だが、この考えに従うことにしたのはついさっきのことだ。

 勉強会残留を宣言した沖谷の心の変化。そこに彼は、再び浅川の持つ可能性を見たのだ。

 

「綾小路君は、浅川君のことを信頼しているんだね」

「……まあな。言っておくが、勿論オレも一緒に説得するからな?」

 

 こればかりはそういう感情的な部分よりは本当に合理性を考慮した上での意見だったのだが、話を合わせておくことにした。

 どちらかと言うと、感情的な部分があるのは『もう一つの理由』の方だ。

 

「……何だか羨ましいなあ」

 

 すると、何かを思い起こしたかのような、ポツリとした呟きが虚空に放たれた。

 隣を見ると、櫛田はどこかアンニュイな雰囲気を纏い、温もりの欠けた目で空を仰いでいた。

 

「羨ましい?」

「うん。そこまで気を許せる相手がいるんだなって思うと、綾小路君には勿論、信頼してくれる人がいる浅川君にも嫉妬しちゃうかも」

「そうは言うが、お前にだってたくさん友達がいるじゃないか」

「あはは、そうなんだけどね。ただの友達ってだけじゃ、話せないこともあるんだよ。他のみんなも、きっとそうなんじゃないかな」

 

 尻つぼみな発言からは、不安は感じられない。どちらかと言うと、哀しい摂理を悟り諦めを抱いている。そんな口調だった。

 

「それはまあ……オレにだってある」

 

 「あはは、でしょ?」いつもと変わらないはずの笑い声は、少し乾いて聞こえた。

 今の綾小路には、彼女に何と返すべきかわからなかった。返せないと直感したというべきかもしれない。櫛田の胸の内を熟知しているわけでもなければ、自分自身いまだ感受性に欠ける。同意するので精一杯だ。

 だから、きっと彼女が求めている言葉は――救いとなる言葉は、そんなものではないのだろう。

 向き合うとは決めたものの、こういう時に上手いことを言ってやれない自分を歯がゆく思い、無力感を誤魔化すように、櫛田を真似て頭上を眺めた。

 傷心的になっていた彼は、今にもこの真っ青な空に吸い込まれてしまうのではないかという錯覚に陥る。

 

「そしてね、いつしかわかりあえないものや嫌なものばかりが浮き彫りになって、理想の形を取り戻せなくなっちゃうの」

 

 「変な話だよね」と困り顔で話す櫛田の声を聞き、もしかしたら隣の少女は密かにそれを望んでいるのかもしれないと思えた。

 人と人とが繋がるのは些細なきっかけから、というのはこの短い期間で何度か思い知らされてきたことだ。ただ、そうして始まった関係は終わりまでもが突然で、まるで複雑に絡み合う歯車のように途端にぎこちなくなる。コミュニケーションの機会に恵まれている彼女はとりわけそれを痛感しているのだろう。

 

「……無理を、しているのか?」

 

 自嘲気味な発言をする彼女のことを考える内に、そんな言葉が出る。予想だにしていなかった彼女は一瞬目を見開き、先程と同じ笑顔を見せた。

 

「ううん、全然。ただ、それくらい脆い年頃なのに、何度掛け違えても元の形を取り戻そうとする綾小路君たちはきっと強いし、だからこそ幸せを掴めるんだろうなって思ったんだ」

「……幸せ、か」

 

 そう言われると、幸せとは何だろう、なんて哲学的な問いが頭の中で浮かぶ。考えたところで誰も具体的な答えは出せないのだろうが、一度は漫然と考えてしまうものなのではなかろうか。実際綾小路も、ぼんやりと意識を天に預けたまま思いを巡らせていた。

 『青』からイメージされるものには『幸福』、『冷静』、『正義』、『悲哀』、『安寧』などがある。もしも自分が一つだけ選ぶとするならば、それは『解放』もしくは『純粋』だ。

 ちょうど彼が抱いていた外の世界の理想像――憧憬は、今まさに自分たちを覆う雲一つない青空のようなものだった。

 決して無色ではなく、翳りもない、どこまでも高く遠くを見渡せる世界。期待とまではいかずとも強い興味があったことは事実だ。

 この一か月でそんな生活にも少しは慣れてきたが、同時に現実はそこまで綺麗なものではないと知った。

 澄んだものが自然界にばかり溢れているのは、人の生きる場所にはそういうものが宿らない表れ。そんな気がしてならなかった。

 晴れ時々曇り、あるいは雷雨や雪化粧。コロコロと浮き沈みや揺れ動きを起こす人間関係は、寧ろ余計に気まぐれな空模様と重なるが、きっと自分たちはあんな高いところまでたどり着けないのだという諦観を抱く。

 それこそ、イカロスに勇気と慢心を与えた翼を以てしても、存在するはずの幸せすら掴めないということなのかもしれない。

 だとすれば、自分は決して幸せを運ぶ鳥にもなれないのだろうか。そう考えると、自分の幸せも他人の幸せも、アプローチについては大差ないように思える。

 幸福を知らなければ、誰かに幸福を与える資格も術もない、といったところか。

 故に、彼女に言ってやれなかった。坂柳との会話で改めて立志できたはずの「変わる」ということの可能性を、示してやることができなかった。

 櫛田の抱えている闇の片鱗を垣間見ることで再び不安に還ってしまった彼には、とても堂々とそれを説く勇気が湧かなかったのだ。

 

「……今はまだ、わからないな」

 

 苦悶に近い表情で、答えを返す。

 

「あと、オレは別に強くなんかなっていない。寧ろ弱くなったとまで思う」

「そうなの?」

「何となくだけどな。ほんの少し寂しがり屋になってしまった気がする」

「ふふ、何それ。でも、それって弱さって言うのかな。ただ単に、他人のことが好きになったっていうような気もするけど」

 

 彼女の内面に触れるのを恐れるかのように、自分のことを曖昧に語る。

 そもそも、答えなんてどこにも存在しない難題ばかり。人付き合いに関して天下の櫛田でさえわからないことがあるのだ。まだ自分は十分な領域にまで至っていないのだろう。そう何とか割り切ることで、綾小路は気力を保つ。

 しんみりとした空気と終わりの見えない議論を察したのか、櫛田は気を取り直して本題に戻るよう促した。「そういえば、二つ目の相談って?」

 

「話が逸れたな。実は、恭介は既に一度鈴音の勉強会に関わることを拒んでいるんだ」

「え!? じゃあ浅川君に頼めないってこと?」

「まあ、そうなる……」

 

 ボトルネックとなるのがそこだ。浅川は既に保留の段階を過ぎてしまっている。堀北に啖呵を切ってしまったあたり、彼をこちら側に引き寄せるのは容易ではないだろう。

 例え浅川がまだ迷っていたとしても、責任やケジメについて重く捉えている彼にとって、気安く戻ることには抵抗を覚えるはずだ。

 その点について一応の『解』は見出せてはいるものの、綾小路が求めているのは別の視点だった。

 

「だが、この状況で何もしないわけにはいかない。あいつを説得するのに適任なのは、その……多分オレだ」

 

 自分で言うのが照れ臭かったためにしどろもどろな言い方になってしまった。さすがにおかしかったのか、櫛田はクスリと笑う。

 

「つまり、綾小路君の二つ目の相談事は、浅川君を説得するアドバイスをして欲しいってことだね?」

「そういうことだ。少々任が重いかもしれないが、大丈夫か?」

「うん、大丈夫。でも、前の時と同じで上手く答えられないかもしれないよ?」

 

 前、というのは、入学翌日の時のことだろう。あの時はSシステムのことを伏せたためにほとんど情報を開示することができなかった。故に彼女は回答に困ってしまっていたが、今回は違う。

 

「必要なことは話す。だから頼む」

 

 話したくないことまで話す気はないが、最低限のことを語るだけでも、今の自分よりはマシな考えが出るかもしれない。あの時とは異なり小さな期待を胸に、彼女にお願いした。

 

「……うん、わかった」

 

 それから語ったことのほとんどは五月を跨ぐ前後のことだ。浅川がどんなことを言っていたのか。それに対して自分はどんな言動を取ったのか。内容を選びながら、慎重に伝えた。

 一通り説明し終えると、暫く櫛田は思い悩んだ表情で、何を言おうか考えているようだった。

 次に彼女が口を開いたのは、数十秒後のことだった。

 

「……綾小路君は、浅川君にも一緒に協力して欲しかったんだよね?」

「そうだ」

 

 彼は一度、浅川に「お前にも参加して欲しい」という趣旨の発言をしている。確かその時彼は「ありがとう」とだけ言っていたはずだが……。

 

「でも、綾小路君のその思いって、本当にちゃんと伝わっていたのかな?」

「……どういうことだ?」

 

 意外な指摘に思わず目を丸くする。

 

「うーんと、例えば……」

 

 彼が要領を得られずにいると、櫛田は顎に指を当てて考えてから彼に体を向けた。

 

「私は、綾小路君のことが好きです」

「……え?」

 

 あまりに唐突な発言に、どう反応すればいいものかわからず何も言えなかった。

 

「今の言葉を聞いて、綾小路君はどう思った?」

「えっと……それは、友達として良く思っている、という意味だよな?」

「ふふ、綾小路君はそう思ったんだ」

「違うのか?」

「どうかな。もしかしたら、『違う意味』で好きなのかもしれないよ?」

 

 イタズラな笑みを浮かべる彼女からは、先程とは打って変わり――教室でも見せるような――年相応のガーリーな印象が見受けられた。

 

「私がどういう思いで好きって言ったのか、はっきり言わなかったから綾小路君は解釈に困っちゃったんだよね。それは、今の二人にも言えることなんじゃないのかな?」

「……解釈違い、ということか」

 

 ここ数日、彼は浅川と真面な会話を一度もできていなかった。そこには不快感の混ざった気まずさが見え隠れしているような気がしていたが、今の状況はそうした歯車のズレが重なった結果なのかもしれない。

 

「以心伝心な関係ってとても素敵だと思うよ。でもね、通じ合っているって信じてばかりだと、小さな掛け違いに気付かないことがあるの。だからどれだけ仲良くなれても、『言葉』には価値があるんだ」

 

 彼女は真っ直ぐにこちらを見つめる。大事な事を教えようとしていることが、よく伝わって来た。

 

「言葉ってね、魔法みたいなものなの。間違った使い方を恐れがちになることもあるけど、どうしてもって時にはきっと頼れる力になる」

 

 自分は、多くを語らずとも彼は自分の思いを察してくれる。それだけ自分たちの仲は深まっているのだという、言わばレスイズモアの精神を貫いていた。

 否、そのつもりになっていただけだった。

 

「言わなきゃわからないことは勿論、言わなくてもわかることだって、言った方が絶対に伝わる。どれだけ拙い言葉だったとしても、話す時の仕草や表情が、ちゃんと足りないものを届けてくれるから」

 

 胸が高鳴る時、息が詰まるように苦しい時、浅川や鈴音と一緒にいる時――これまで何度も、未知の感覚が自分の中を駆け巡った。心地いいと安心することもあったし、不快感で俯いてしまうこともあった。

 そんな時、自分は一体どうしていただろうか。その不思議な感情と、上手く向き合えていただろうか。

 

「二人がどれだけ互いのことを信頼し合っているか、私にはわからないけど――もう一度、今度はしっかりと伝えるべきなんじゃないかな? 綾小路君がどう思っているかを」

 

 「ありきたりなアドバイスかもしれないけどさ」と言って微笑む櫛田に呆然としつつ、綾小路はいつしか聞いた盟友の言葉を思い返す。

 

『自分のことを自分の言葉で語ろうとしない奴は、きっとどこまでも生きづらいんだ』

 

 自分は、怯えていたのだ。自分の中で完結することなら、妥協せずに時間をかけてでも見つめ直すことができた。しかし、もし自分が願いを零すことで、それが彼の惑いを悪化させる元凶になってしまったらと思うと、途端に不安が押し寄せてきた。だからこそ、あの時胸中を中途半端に明かすだけに留まり「お前の意見を尊重する」という口実で逃げ道を作ってしまっていたのだ。

 他人に直接影響を与える時に限って、自分の想いから目を背けた。その結果がこの有り様だ。現に今の生活に対して、綾小路はどこか窮屈さを感じている。

 

「綾小路君がそこまで信じているんだもん。真っ直ぐに伝えることができれば、浅川君も応えてくれるんじゃないかな?」

 

 ――自分が、思っていること。

 自分は彼に、何を望んでいるのだろう。どうして彼を求めているのだろう。その答えが、まさしく自分が伝えたい、伝えるべきことだ。

 今はまだ朧気で、正体を掴むことはできていない。しかし、それでも向き合い、どうにかして自分なりに表現するべきだ。櫛田の助言を聞き、そう思い直す。

 

「そう、だな。もう一度だ。もう一度、あいつと互いの本当で語り合ってみるよ」

 

 彼の脳裏には、坂柳との会話の一部も過っていた。

 もし自分と相対する盟友が何らかの仮面を被っていたとしても、全てが偽物というわけではないはずだ。

 彼が小さな願いを託した時――あの時の目は確かに真っ直ぐで、彼の心の中にある淡い光を映していたように見えた。それこそが、自分たちが歩み寄り前進するための鍵に違いない。

 

「ありがとう、桔梗。おかげで少し吹っ切れた」

「今度こそ力になれたかな?」

「勿論だ。こういう時、一番頼りになるのはお前かもしれないな」

「や、やだなぁ。ちょっと照れちゃうよ」

 

 素直な賛辞に櫛田は頬に手を添えこそばゆいといった反応を見せる。

 彼女の言葉は間違いなく綾小路の中に大きな兆しを与えてくれた。最近の自分の変化を喜ぶ彼が、そのことについて感謝しない道理などあるわけがなかった。

 

「ところで、浅川君とはいつ話すの?」

「善は急げだ。できれば今日にでも連絡を……」

 

 そう言って端末を取り出した時だった。シリアスな雰囲気に全く似合わない単調な着信音が鳴り響く。

 

「あれ、浅川君から?」

 

 あまりにタイムリーな出来事に一瞬困惑するも、意を決して応答する。

 

「……もしもし」

「…………清隆」

 

 普段の気の抜けた態度とは少し違う、真面目な声音だった。

 

「この後、時間あるか? 話があるんだ」

「……ああ、構わない。オレもちょうどお前に話ができたところだったんだ」

「それは、その……奇遇だな」

 

 彼の声をしっかり聞くのは久しぶりかもしれない。一週間も経っていないが、ここまで二人の間に会話がなかったのは初めてだったため、妙な緊張感が漂っていた。

 

「いつどこで会う?」

「できるだけすぐに。場所は……」

 

 浅川が指定した場所を記憶し、別れの挨拶と共に通話を切った。

 

「……悪い。急用ができた」

「うん。頑張ってね、綾小路君」

「ああ、行ってくる」

 

 彼はゆっくりと立ち上がり、階段へ繋がる重い扉を開けた。

 しかし――出て行く寸前で振り返る。視線に気づいた櫛田は小首を傾げ、愛らしい仕草で彼の言葉を待っていた。

 恩返しと言うには浅はかなのかもしれない。もしかしたら、全くの見当違いでお節介なことなのかもしれない。それでも、途中で見せた昏い瞳とそれを写した『言葉』は、奥底に眠る何かの存在を示しているような気がした。

 だから彼は、早速()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――桔梗。人は、変われるぞ」

 

 今はまだこれだけ。これだけしか表すことができない希望だけれど、いつか、もっとちゃんと伝えるために。せめてもの布石になってくれるよう、祈りの込めた言葉だった。

 この一言で櫛田の中身にどれ程の変化を与えられるかは想像もつかないが、足りないのだとしたら、これから少しずつ重ねていけばいい。

 そうして全てを届け終わった時、何を思い何をするかは彼女次第だ。

 ただ、その選択に自分の言葉が僅かでも響いていればいいなと、密かに願う。

 自惚れでなければ、彼女の告白は相手が自分だからしてくれたのだと思うから。

 いたたまれない思いが芽生えるより前に、綾小路はその場を後にした。

 ステップを踏むように階段を駆けて降りていく。

 電話越しの態度から察するに、浅川の方でも何かあったのだろう。随分とはっきりした口調だった。

 いずれにせよ僥倖。心の準備は整った。やるべきことをやるだけだ。

 これから始まるであろう任務に思いを馳せる。

 前へ前へと動かす足は、思いの外軽かった。

 




さて、不定期開催、解説パートのお時間です。パンパカパーン。

まずは勉強会崩壊の場面について。ここは原作通り一度潰れる予定ではあったんですが、堀北さんいいやつになりすぎると、須藤たちが帰らないor支離滅裂なことだけ言って勉強やめるヤベエやつになってしまうんですね。原作では一応彼女のキツイ性格のおかげで彼らの言い分も一理あったわけですから、地味に塩梅を付けるのが難しかったです。結果、正当な理由(やる気がねえ!ってやつ)とはいえ抑えていた憤慨が爆発してしまった、という展開に改変。その上で執拗な罵倒はやめさせました。原作程一方的な物言いになっていないのは十分伝わっていると思います。因みに、そもそも彼女がどうしてここまで勉強会を頑張れたのかは近々明かされます。
多少須藤たちのワガママ感が大きくなっているのは、まあここまでで須藤がいいやつ感出し過ぎていた帳尻合わせだとでも思ってください。そこまで酷い行動とはなっていないと思いますし。

次に櫛田とのパート。ここで悩んだのも、彼にどこまで言葉を紡がせるかでした。言い方を変えるなら、成長をどこまで発揮するかです。
正直、彼女の闇には今後も踏み込んでいく予定があるので、ここで全部彼が言ってしまうと、もうそれ以上のことを伝えられなくなくなってしまうんですよね。
なので、最終的に彼が彼女に伝える内容の土台を提示するというところまでで抑えました。ちょうどまだ感情的な部分を彼は学習できていない段階にあるので、これからだぜって感じで。あとの心情変化は本文でこれでもかと描かれているんで、態々説明するまでもないでしょう。
あ、因みに櫛田がどうしてあんなんなったかというのは――かなり先になると思いますが――彼女視点やら何やらで描写できたらなと思っています。

さて、体感長らく綾小路清隆視点でこの作品の主人公は一体誰なんだって感じになってきていますが、次回ようやくオリ主視点です。君最近出番無さすぎ。何やってんのさ。
まあ今話の最後で察せる通り、彼も壮大な一週間を送っていたので、顛末を楽しみにしていてください。
え、四十話も使って一か月半しか進んでないの?(今更)

オリ主の過去話について(どれになっても他の小話もやるよ)

  • 止まるんじゃねぞ(予定通り,10話超)
  • ちょっと立ち止まって(せめて10話以内)
  • 止まれ止まれ止まれ…!(オリだけ約5話)
  • ちょ待てよ(オリキャラだけ,3話)
  • ムーリー(前後編以内でまとめて)

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