ゴールデンウィークが明け、綾小路は早速、池、山内、須藤の三人に堀北から勉強会のお達しがあることを伝えに行くことにした。しかし……
「やだ」
「無理」
池と山内からは即刻拒否されてしまった。げんなりしつつも最後の望みである須藤の下へと顔を出す。
「須藤」
「あ? おう、綾小路じゃねえか。どうしたんだ?」
「その、鈴音が勉強会を開くらしくてな。須藤は確か、小テストかなりヤバかったよな? だから、オレと一緒に参加してみないかと思って」
そう言うと、須藤は「あぁ……」とあからさまに渋った表情を見せた。これは三連敗かと綾小路は落胆する。
「正直嫌だな。誰かに教えを乞うってこと自体性に合わねえし、相手がよく知らねえ女じゃ尚更だ」
「まあ、そうかもしれないけど……鈴音の勉学の腕は小テストの結果を見る限り確かだろう?」
「そりゃそうだけどよ……てか、小テストって言やぁ浅川はどうなんだよ? アイツ0点だったろ」
「恭介は名前を書き忘れてしまったらしいんだ。確認してみたら、平均より上の点数だったぞ」
「ま、マジかよ。あいつ勉強できたんだな……」
咄嗟に嘘を吐いたが、疑うこともなく信じてくれた須藤は心底意外そうな表情をしていた。
「他に参加者はいねえのか?」
「い、いや、池と山内にも声を掛けてみたんだが、真っ先に断られてしまった……」
「……そうか」
綾小路は内心疑問に思っていた。勿論須藤が参加してくれれば嬉しいのは事実だが、恐れていた程彼は勉強会に否定的ではなかった。最悪聞く耳持たずにその場を去るかどつかれるかするかもしれないと予感していた綾小路からすれば些か拍子抜けだった。
「……意外だな。頼んだ身で言うのもあれだが、お前はもっと嫌がるかと思っていた」
ここで正直な感想を伝えてしまうあたり、彼も他人への気遣いはまだまだなのだが、それを何度か目の当たりにしていたからか須藤は一瞬眉をひそめるだけで憤慨することはなかった。
「他でもない綾小路だから即答しなかっただけだぜ。普通だったら掴みかかってたかもしれねぇ」
やはり自分の懸念は間違っていなかった。あの時彼と仲良くなっていてよかったと、胸を撫でおろす。
「自分でもわかっていないわけじゃねぇんだ。赤点取れば退学。俺はその予備軍ってことだろ。けどよ、今まで一夜漬けとかで何とかしてきた身分からすりゃぁ勉強会つってもあんまピンと来ねぇんだ。――何より、俺はバスケを蔑ろにしたくねえ」
悩んだように頭を掻く須藤を見て、綾小路は言葉に詰まってしまった。
自分がどうするべきかはわかっている。が、したいことがあるために迷ってしまう。似たような苦悩を以前にし、かつ最終的にしたい『意志』を優先した彼には、掛ける言葉が見つからなかったのだ。
代わりに、別の角度から須藤を説得できないかを模索する。
「……須藤。お前さっき、他に参加者がいないか聞いたよな?」
「お、おう」
「もし他に参加者がいれば――例えば、池と山内が参加してくれたら、お前も来てくれるのか?」
先刻須藤は迷っている最中で別の参加者がいないかを尋ねてきた。それに対して現段階でゼロだと答えたために彼は黙ってしまったが、あそこで是と答えることができていたら、もう少し前向きに考えてくれたかもしれない。
「できんのか? 断られたんだろ?」
「何とかしてみせるさ。お前がそれで参加してくれるのなら、お安い御用だ」
本当のところ、最終的な目標は赤点予備軍の三人全員の参加であるため、どうせなら三人の参加条件ができるだけ一遍に達成できるようにしたいという軽い下心に基づいたものだった。
苦肉の策ではあったが、一応効果はあったようで、須藤は渋々ながらも応えてくれた。
「……わかった。二人が参加するってなったら、俺も参加してやるよ」
「須藤……ありがとう」
「そこまで懇願されちゃ断れねえって」
いつしか浅川が言っていた通りだ。彼は殊友情に関しては少し脆くなる。今回はそれを利用するような形になってしまい申し訳ない気持ちになるが、これで首の皮一枚繋がった。
「また今度連絡する」一つの達成感を覚えながら別れようとする綾小路だが――須藤がそれを呼び止めた。「綾小路」
「どうした?」
「浅川の名前で思い出したんだが――俺たち四人、あれから一度も集まってないだろ?」
「……っ、そうだな」
五連休の初日以降、『トップ4』は一度も集まっていない。スケジュールが合わなかったわけでもないし、早起きがなおざりになっていたわけでもないのだが……理由は何となく感じ取っていた。
「お前と浅川のおかげで、早起きもだいぶ板についてきた。そこんとこ結構感謝してんのは勿論だけどよ。それだけじゃねえ、やっぱ四人で運動すんのは独りでやるより気持ち良いんだ。だから、またやろうぜ。楽しみにしてっから」
晴れやかにそう語る須藤は決して原因ではない。問題なのは……。
「…………おう、またの機会にな」
純粋な須藤の眩しさに追いやられ、罪悪感から逃げるように綾小路は去って行く。
……今は、池と山内を参加させる方法を考えなくては。
その意気込みがただの使命感なのか、大事なことから目を背けようとしているだけなのか、徐々に曖昧になっていくのを綾小路は人知れず感じていた。
昼休み。綾小路は堀北を誘い食堂で食事を取っていた。
「櫛田さんの力を借りる?」
「えんぼうぼえばあいえんあぼおぼっえいう」
「あなた一人では力不足だと言いたいの?」
「おあえぼわばっべいうはぶあ。……池と山内にやる気を出してもらうには、櫛田の呼びかけが一番効く」
矛盾が生じてしまうため表向きには話さなかったが、浅川も先日堀北に『いれかえ』の話をしている。それを忘れていないのなら、適材適所に則り二人の説得を櫛田に依頼するのが最も効率的だと堀北も理解しているはずだ。
案の定、彼女は一概に否定せず悩む素振りを見せる。
正直綾小路からすればこの策が認められなければお手上げなので、呑気に唐揚げを頬張りながら彼女の回答を待つ。
「けど、それって櫛田さんも勉強会に参加することになるわよね?」
「え、どうしてそうなる?」
「櫛田さんに釣られて顔を出して、いざ彼女が来ないと知ったら絶対とんぼ返りするでしょう。そんなことになれば、二度と彼らは顔を見せなくなるわ」
――バレたか……。
そこに関しては綾小路も理解していた。簡単な話、誘った人物がそのイベントと無関係でいること自体不自然なのだ。社会一般的な会合でも同じことが言えるあたり、その意見は尤もだった。
かてて加えて、櫛田も何かしらの要望を持ち出してくる可能性があることも考慮していた。事情を話す上で、堀北の名前を出すことは避けられない。となれば、この機を見逃さず彼女に近づけるような条件を提示してくるかもしれない。例えば、自分も堀北の勉強会に参加させてくれ、といった具合だ。
もう一つ唐揚げを口に放り込みながら、綾小路は応える。
「そのほおいあが……あいにうほがいふあんはあいほ」
「ちゃんと飲み込んでから喋りなさい……。全く、こういう時は使えないのね……いえ、この場合はその二人があまりに愚かなのかしら」
櫛田を混ぜなければならないかもしれないという事実に辟易する堀北を傍目に、口の中を空にしてから話を続ける。
「……本当は事前に言おうかは迷ったんだけどな。後々文句を垂れられるのはごめん蒙るからこうしたが、その様子を見る限り正解だったみたいだ」
「当然よ。事後報告だったらただでは置かなかったわ」
おお恐いとおののく傍ら、厨房を眺めているとヨシエさんと目が合った。向こうが小さく手を振ってきたのでこちらも会釈する。
「それで、どうなんだ。他の手を考えるとなると、今すぐには厳しいぞ」
眉間に皺を寄せ、堀北は数十秒沈黙する。
やがて――
「…………甚だ遺憾だけど、仕方ないわね」
苦虫を嚙み潰したような表情で了承した。
「料理が口に合わなかったか?」
「気が合わないだけよ。わかってるくせに」
「なんだ、もらってやろうと思っていたのに」
調子を戻してもらおうと敢えて揶揄ってやると、堀北はムッとした表情になる。
「絶対嫌よ。寧ろ奢ってもらいたいくらいね」
「は? 何で」
「譲歩してあげた私には何の見返りもないのかしら?」
「……今回きりな」
金輪際いかなる理由があろうと彼女を煽るなんて愚行は犯さない。
綾小路は密かにそう決心するのだった。
放課後。
予定通り綾小路は櫛田と話をするべく呼び出した。
場所は四月のあの時と同じ校庭のベンチだ。
「何かな? 話って」
「実は、どうしてもお前に頼みたいことがあるんだ」
何だか告白みたいな雰囲気だなんて場違いな感想を抱きながら、綾小路は切り出す。
「池と山内と須藤が、中間テストで赤点を取りそうだっていうのは知っているよな?」
「うん。酷い話だよね……一度でも赤点を取ったら退学だなんて」
「ああ。そこで、鈴音が主催して勉強会を開く予定なんだ」
「え、堀北さんが?」
堀北自身はもっと自分本位な目的なのだろうが、櫛田に乗り気になってもらうためにクラスメイトを助けるためというニュアンスを含める。
狙い通り彼女は身を乗り出して反応した。
「すごいなあ、堀北さん。クラスの人たちのためにそこまで頑張るなんて」
「桔梗も負けてはいないと思うぞ。うちのクラスの活気は、お前に影響されている部分が大きい」
「え! そ、そうかなぁ?」
謙遜するも満更ではなさそうにする櫛田。これから彼女にお願いをする時はまず煽てるところから始めようかと思いつつ、綾小路は本題に入る。
「それに、お前にも今からクラスのために尽力してもらいたいと思っている」
「頼みがあるって言ってたよね?」
「オレみたいな陰者が誘っても、三人は来てくれそうになくてな。人望の厚い桔梗も参加するとなれば、もしかしたらと思ったんだ」
厳密には池と山内だけに限った話なのだが、ややこしくなるので須藤も一辺倒に扱うことにした。
彼の提案に、櫛田は暫し迷う素振りを見せてから笑顔で答えた。
「わかったよ、ぜひ協力させて!」
「ありがとな。前の時といい、桔梗には助けられてばかりだ」
「ううん、友達のピンチなんだもん。私にできることなら何でも協力するよ」
実に勿体ない言葉だ。彼女の頼みに対し大したこともできずに見返りを考えていた自分と比べると月とすっぽん程の違いがある。
しかも、追い打ちを掛けるように櫛田は言葉を重ねた。
「綾小路君も、遠慮しなくていいんだよ? 困った時はいつでも相談して。力になるから」
「……そうか。ありがたく頼らせてもらうよ」
現在進行形でとある悩みを抱えている綾小路にとって、彼女の寄り添うような言葉は一つの小さな光に感じられた。
たとえ、それが純粋な善意ではなく堀北へ向けた感情からくるものなのだとわかっていても。
今の彼は、自分の苦悩に少しでも理解を示してくれる言葉に対して、あまりに弱かった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
翌日の放課後。
あの後無事に池と山内は櫛田になびかれ、そのことを伝えると須藤は渋々参加の意思を表明してくれた。
片や下心、片や乗り気ではないという状況。未だ上手くいくか不安を拭えない綾小路は嘆息を漏らす。
「行くわよ。綾小路君」
「そう急かすな。言われなくてもそのつもりだから」
同じ魂胆の生徒が多いと予想されるため、早く図書館にたどり着くことが望ましい。席が確保できなければ勉強会以前の問題だ。
参加者を連れて目的の場所へ向かう。
「沖谷も参加するんだな」
「うん。平田君のグループの方には参加しづらそうだなって思ってたんだけど、ちょうど綾小路君たちが別で勉強会をやるって聞いたから」
どうやら偶々情報を耳に入れた沖谷も参加してくれるようだ。奇しくも『トップ4』の三人が居合わせるという事態に小さな喜びを感じる一方、一名だけ欠けていることに対する寂寥感が過る。
館内は思っていた程混んでいなかった。そういえば以前、浅川が図書館の
「確か沖谷君もあまり点数が良くなかったわね。参加を許可するわ」
「ありがとう、堀北さん」
「ただし、やるからには真面目にやってもらうから、覚悟しておきなさい」
「うん、勿論だよ。頑張るね」
堀北の厳格な態度に、沖谷も闘魂を注入されたようだ。四人でのトレーニングの件から、こういった場面で彼は少しやる気を強く見せるようになった。善い変化だろう。
「櫛田さんも……参加するのよね?」
「うん。私もうろ覚えになっちゃってるところとかあるから、堀北さんに見てもらいたくて」
「……あくまで赤点候補の三人を優先するつもりだから、そこは弁えておいてちょうだい。場合によってはあなたにも教える側に回ってもらうわ」
綾小路が記憶している限り、櫛田の小テストの点数は他のメンバーと比べてもほとんど問題はないはずだが……今は須藤たちをこの場に留まらせるストッパーであるからして、咎めることでもない。
「てかさ、浅川のやつはいいの? 0点だったよな?」
「仲良いからって贔屓して強制しないのはひでえんじゃね?」
池と山内の双方から、何も知らなければ至極真っ当であろう疑問が飛ぶ。綾小路は須藤にしたのと同じ回答を伝えた。
「なんだよぉ。てっきりアイツも俺らと同じ苦労人なのかと思ってたのに」
「でも名前書き忘れるあたり、見た目通り抜けてんだな。本番でやったらヤベエじゃん」
実際茶柱からの呼び出しがあるまでは、綾小路も堀北も浅川の学力を平均前後と見積もっていたため、腑抜けた印象を与えやすい彼に対して無意識に仲間意識を抱く彼らの認識は決してズレているわけではなかった。
「他人のことをとやかく言う暇があるならまず自分の心配をしなさい。あなたたちには最低でも50点は取れるようになってもらうんだから」
「えっ、は? 50点!? 50点って、半分ってことか?」
「嘘だろ……俺そんな点数取ったことねえぜ」
唐突に発表された最終目標に三人は阿鼻叫喚といった様子だ。
「ボーダー越えれば十分じゃねえのかよ。確か、31点未満だったよな?」
「いいえ、正確な赤点の条件は明言されていないはずよ」
「え? でも先生は、今回は31点未満は退学だったって……」
「『今回は』でしょう? 点数を基準にするなら少し中途半端だし、赤点ラインは変動する可能性もあるかもしれない。ギリギリで満足するのは危険よ」
これに関しては堀北の言う通りだ。全てを小テストと同じ基準で考えるのは短絡的過ぎる。
しかし――50点は高すぎはしないか、というのが正直な感想。安牌を提示するにしても、今の彼らの学力を考慮すると40点くらいでもいいはずだ。目標は本人が現実的だと思えてこその目標。やる気を出せるものでなければ意味が薄れてしまう。
「早速始めるわよ」
そんなこんなでヌルッと始まった勉強会。不満そうな顔で道具を取り出す三人に不安を掻き立てられながらも、綾小路はノートを広げた。
彼の案じた通り、堀北の厳しい物言いを前に三人はものの数十分程度で集中を切らしてしまった。
「そういえば綾小路、お前買ったの? アレ」
「え、アレ?」
「アレって言ったらアレだよ。ドラクエだよ」
「ああそうじゃん、ドラ焼きクエスト! この前興味深々に色々聞いてきてたよなぁ。戦闘のしかたとかさ」
「あー……ポイントが勿体無くて買えてないな」
ご飯の話、ゲームの話、男女仲の浮いた話。学習とは無縁な会話へ何度も脱線し、隣に座る堀北の表情は徐々に険しいものとなっていく。段々といつも綾小路たちの前で見せる――いや、それ以上かもしれない無愛想さが露わになり始めた。
その上、彼女の心労に気付いているのは綾小路だけのようで、彼女の琴線に触れる言動は留まることを知らない。
堀北の顔色を窺いながら、綾小路は三人に勉強へ意識を戻してもらうよう促す。
「それよりできたのか? ここの問題は」
「うっ、メンドイなぁ」
「そもそも連立方程式って何なんだよ」
「普通の方程式だって怪しいのにな俺たち」
基礎さえあやふやな彼らには、何を教えようとしても別の土台が出来上がっていないために伝わらないという悪循環が生じていた。
こういう時、一番困ってしまうのは勉強が比較的出来る者だ。所謂『何がわからないのかわからない』というもの。堀北は頭を抱えるようにして酷く思い悩む。
「……駄目だ。やってらんねえよ。やっぱ俺らには無理だぜ」
須藤がそう吐き捨てるのに合わせて、池と山内もペンを机の上に放り捨てる。
それを見た堀北は溜息を吐き目を閉じた。
さすがに櫛田と沖谷も雰囲気の悪さを察したのか、不安そうに彼女の様子を見つめる。
だが、この場で一人、未だ状況を見限っていない男がいた。
――まだ、踏ん張れるな。
「……諦めては駄目よ」
その呟きは、自分に言い聞かせているようにも感じられた。
綾小路の意識に呼応するように、澄んだ目を開けた堀北は三人を鼓舞する。
「もう一度最初から教え直すわ。一旦手を止めてよく聞きなさい。一通り説明した後に質問は受け付けるから」
「うげ、最初からかよ。やる気でねぇ」
「まあやってやらねえこともないけどさぁ」
何の変化もない彼女であれば、既に憤慨を爆発させ、須藤あたりと衝突していたことだろう。しかし綾小路は、彼女の人との関わり方における心の持ちように変化が生じている証拠を
強張っていた空気が、元の適度な緊張事態に戻る。何とか勉強会は続行だ。
……ただ、いつまで持つか、だな。
しかしこのギリギリな状況も、そう長くは続かないだろう。
綾小路はそんな予感にもまた、確信に近いものを抱いていた。
その後水曜を挟み三日目に突入したが、進展具合は決して芳しいとは言えなかった。
昨日も三人は堀北の指導に付いていけず、微力ながら櫛田と綾小路、沖谷までもがアシストをし、堀北本人にも綾小路からフォローを入れることがしばしば。勉強会と称するにはその他の点で気に掛けなければならないことが多すぎた。
「……今日はここまでね」
「はー終わった終わった。とっとと飯行こうぜー山内」
「おーう。はぁ、ポイントないと真面なものも食べらんないな。須藤のやつ、今日は部活でいないけどどうやって食事済ませてんだろうなぁ」
終了の合図早々、呑気にこの後の予定について話しながら図書館を出て行く池と山内からは、とても退学が懸かっているとは思えない程危機感に欠けていた。
「堀北さん……」
「綾小路君……」
櫛田は堀北を、沖谷は綾小路を心配そうな目で見る。
綾小路自身はその場の雰囲気に合わせて神妙な表情を作っていただけだが、彼が堀北の精神状態を憂慮していることは事実だった。
彼女はやがて俯きがちだった顔を上げると、徐にこちらを向いた。
「……綾小路君。私は……」
胸焼けを誘うあの五月の始まりを彷彿とさせる、どこか縋るような瞳だった。
ここが一つの頃合いだろう。彼はそう判断した。
「――鈴音。気分転換でもしようか」
「え?」
突然の提案に彼女は目を丸くする。
綾小路はそれに構うことなく、櫛田と沖谷にも声を掛ける。
「良ければお前たちもどうだ?」
「え、私もいいの?」
「綾小路君がいいなら……」
ようやく我を取り戻した堀北は真っ先に彼に反論する。
「ちょ、ちょっと綾小路君。今はそんな気の抜けたことをしている余裕は……」
「息抜きも大事だぞ。今あれこれ言ったところであの三人がいない以上不毛だ。寧ろお前には余裕が無さすぎるんだよ」
一応彼の言い分は尤もなのだと理解してくれたのか、彼女は押し黙り目線を外した。
「ケヤキモールの方へ行こう。今まで足を運んだことがなかったから楽しみにしていたんだ」
思惑はあった。堀北のメンタルケアやら、この後行う予定の啓示やら仕込みやら――だがそれ以上に、自身の好奇心が彼をそこへ引き寄せた。
そして、彼のそういった探求的な行動に、三人も付き添いがいてくれるのは何とも喜ばしいことだった。
ここが、カフェ……。
イメージよりも騒々しい。店内に足を踏み入れた最初の感想はそれだった。
「ねえ綾小路君。ホントにいいの? 奢ってもらっちゃって」
「ああ。お高いスイーツばかりを選りすぐったりしない限りはな」
「も、もう。そんなことしないよぉ」
同じDクラスであるからして、なけなしのポイントで無理をしていると思い心配してくれたのだろう。遠慮がちに櫛田が聞くが、浪費ゼロかつ浅川から譲り受けた五万弱のポイントのおかげもあり、こういった体験のための必要経費ということで綾小路は割り切った。
殊の外女子グループや男女混合グループが多かったため、偶然とは言えこの組み合わせで来て正解だったかもしれないと安堵を覚えながら、綾小路と沖谷、堀北と櫛田が向かい合う形で丸机を囲む。
「……それで、どういうつもり?」
カフェラテを一口ストローで吸い、いかにも不服そうな顔で堀北が問う。カチンコチンに角ばった氷がプラスチックカップに敷き詰められているのを見て、飲みにくくないのだろうかと疑問に思いながらも彼は応じた。
「別に裏なんてない。頭を冷やすにはここがいいと思っただけだ。ほら、空調もちょうどいい具合に効いているだろう」
「勉強会の話とかをするわけじゃないの?」
「今ここですることじゃないな。周りの生徒のように、のんびり雑談にでも興じようじゃないか」
彼が本心からそう言っていることを理解し、櫛田と沖谷は表情を緩ませた。しかし、堀北はジト目になって一層強くこちらを睨む。
「……あなた、浅川君みたいなことを言うのね」
「え、そうか?」
「意味があるのかないのかわからないことを胡散臭く語る態度がまさしくそれよ。口達者二人に絡まれるなんて、頭の痛い話だわ」
愚痴を零す堀北だが、友人に似てきたと揶揄われるのは何だか相性が良いと言われているような気がして悪い気はしなかった。
綾小路は皮肉の応酬はせずに素直な返しをする。
「おべおぼばおいえうべおっおぶお」
「ケーキを飲み込んでから喋りなさい……」
つい先日と同じやり取りに、堀北は心底呆れた様子を見せた。
その様子を眺めていた櫛田が、不意に堀北へ問いかける。
「ねえ堀北さん。堀北さんって、どうして綾小路君と浅川君とそんなに仲良しなの?」
「……どういうこと?」
「えっとね、他の子とは全然関わらないのに、二人とは嫌がってても何だかんだ一緒にいるから、ちょっと不思議だなって思って」
「確かに。僕も少し気になってたよ」
沖谷も櫛田の考えに賛成なようだ。
堀北はその美貌故に男女問わず何度かお誘いを受けることがあった。しかしその全てを彼女は断固拒否。入学後間もなく声を掛けられなくなった。
その中で――席が近いとはいえ――綾小路と浅川に対してだけは、邪険に扱うことが多いのに変わりはないものの、学食や部活動説明会に同伴したり会話に応じたりすることが少なくなかった。
Dクラスは男女の交流が少ない、と平田は言っていた。櫛田の目からも、三人の関わりは稀有なものとして映っていたようだ。
「そ、それは……」
上手い答えが見つからなかったのだろう。彼女は珍しく言葉に詰まる。
しかし、綾小路はその答えに一応の目星は付いていた。
「――わからないからだろう?」
そう、わからない。堀北が心情を表現できていないこと自体が答えなのだと彼は推測した。
「オレはあいつにあやかる形だったから微妙なところだが、恭介のようなやつと接するのは少なくとも初めてだったはずだ」
堀北に話しかけてきた他の生徒と浅川との違い。その違いはあまりに単純なものだが、確かなものだった。
「お前の一方的な言葉にすらすらと言い返す。拒絶されてもペースを乱すことなくめげずに関わってくる。そんな恭介とどう向き合えばいいのかわからなくなっている内に、気付けば会話が重なっていた。そんなところだろう」
「え、そんな理由なの……?」
「オレは鈴音じゃないから正解かは知らないけどな。そもそも人は皆結構類型的なんだし、ほんの些細なきっかけで大きく変わることなんてざらにあるさ」
ただ、ほとんど正解に近いだろうという自信はあった。
例えば二人の初対面。他人との馴れあいは必要ないと言い切った彼女を前にした際、彼はそれに対して黙ることも不機嫌になって否定することもなく「やってみなきゃわからない」と返した。
ある時は、独りで食事をしようといていた彼女を、お試しにと言って彼は食堂へと連れ出した。
またある時は、料理大会において誰かと共に暮らすことの価値を彼女に説いた。
人によってはありふれた日常の一ページなのかもしれないが、それとは縁のない世界に身を置いていた彼女にああも飄々と関わり続ける浅川の姿勢は、誰にでも取れるものではない。
そしてそれは、綾小路にも同じようなことが言えた。
堀北と最初に出会ったときにも感じていたが、彼女と自分は他人との関わり方においてそういう部分は似通っていた。だからこそ、少しは彼女の気持ちが理解できる気がしたのだ。いつしか浅川はそれを『シンパシー』と呼んでいたが、案外馬鹿にできる質のものではない。
堀北も否定も肯定もしないということは、多少の心当たりはあるのだろう。
暫しの沈黙を以て、彼女は口を開いた。
「もしそれを言うのだとしたら、あなたも大概よ」
「オレも?」
「ええ。前にも言ったでしょう? 私が困っている時はいつも、彼でもあなたでもなく、『あなたたち』にだ、とね」
確かにそんなことも言っていたなと、先月の会話を振り返る。
自分が浅川の影響を受けていたとはいえ、それは堀北自身には何ら関係のないことだ。綾小路と浅川、二人の姿を見て彼女の中で何かが起きた。それだけのこと。
ならば自分も、結果的には誰かが変わるきっかけになることができたと言えるのかもしれない。そう思うと、少し嬉しかった。
――オレにも、他人に何かを与える資格があるのだろうか。
何かを与えられる驚きを前に味わったが、こうして逆の立場になってみるとあまり実感が湧かない。だが、それもきっと後に知ることができるのだろう。
もしも自分に、それだけの感性が存在しているならの話だが。
「――僕、もっと三人の話聞きたいな」
急に沖谷がそんなことを言いだした。そういったセリフは櫛田から出てくるものだと思っていたため少々意外に感じる。
「随分と藪から棒だな」
「折角綾小路君がこの場を設けてくれたから。――それに、勉強って言うと堅いイメージがあるかもしれないけど、どんな縁だって大事にすべきだなって思ったんだ」
その言葉にハッと目を見開く。
個人どうしでは何度か関わっていたが、この四人で集まることができたのは勉強会という繋がりがあったからだ。その点今の構図は確かに奇妙な縁が生み出したものと言える。
須藤とも浅川とも予想だにしない巡り合わせから始まった関係であったからこそ、沖谷はその言葉を口にしたのだろう。
さらに、ここへ誘ったのは他でもない綾小路だ。彼は知らず知らずの内に一つのきっかけになっていたことに気付く。
「だったら私、綾小路君と沖谷君のことも知りたいな。最近ちょっと気になってたんだけど、二人って元々須藤君と知り合いのような感じがしたからさ」
今度は櫛田が、沖田の言葉に便乗する。
綾小路は無言で頷き、堀北の方を見る。彼女は困惑と怠惰の混ざった表情をしていたが、やがてそれを溜息に乗せて吐き捨て無愛想に呟いた。
「……勝手にしなさい」
その後小一時間、綾小路が提案した通り他愛もない話が続いた。
途中彼は、堀北の手元を盗み見る。
飲み干されたカップの中の氷は、いつの間にか解けてなくなっていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
カフェを抜け出て解散し、綾小路はある場所へ堀北を誘うことにした。
「今度はどこへ私を誘拐する気?」
「人聞きの悪いことを言うな」
「帰らせてもらうわ」
さすがにこれ以上は付き合ってられないと、彼女は踵を返す。
「――息抜きはもう終わったというのにか?」
「……何ですって?」
無為に隠す必要もないかと思い、彼は次の目的地を打ち明ける。
「一度行ったことがあるんだろう? 本屋の場所を教えてくれ」
日もそれなりに暮れ、店内に人は疎らだった。
堀北が以前言っていた通り、一般の書店と比べると明らかに広いのだが、その事実に彼が気付くはずもない。
「おかしな話ね。前に来てからまだ一週間しか経っていないのに」
「結局あの時は何を買ったんだ?」
「あなたに話す必要はないわ」
小言と向き合いながら、二人奥へ進んでいく。
「それで、ここに何があるっていうの?」
「難しいことじゃない。道標を見繕うんだ」
綾小路の返しに要領を得ず、堀北は首を傾げる。
「いくらお前が頭脳明晰だと言っても、他人に勉強を教えるのには限度がある。まして相手は赤点候補。もしかしなくても初めての経験だろう?」
「……そうね」
暗に揶揄されている気もするが、否定することのできなかった彼女は肯定した。
当然のことながら、店内の棚にはベストセラー、雑誌、漫画、推理小説……幅広い区分けによって無数の本がぎっしりと埋め込まれている。
「教師でさえオレたちに授業をする時に教材を使うんだ。お前が自作の問題集とノート、口頭を用いて解説したところで、いずれは行き詰る」
背表紙の大群を素通りし、やがて一つのコーナーにたどり着いた。
ここまでくれば、さすがの堀北も彼が何を言いたいのか理解したようだ。
「……新しい『道具』を使う、ということね」
「いや、違う。『どうぐ』だ」
「何が違うの?」
嫌味、でもなくただただ純粋な疑問をぶつけられ一瞬動揺したが、咳払いをすることで立て直す。
「オレ程度じゃ中身の善し悪しはわからないからな。お前のお眼鏡に適うものを選んでくれ」
「まさかこれもあなたがポイントを出してくれるの?」
「須藤と沖谷とは特別仲が良いのはさっき知ったろう。面倒を見てくれている感謝の印とでも思ってくれ」
本当は『別の意図』がないわけでもないのだが、今ここで明かすことでもない。
早速彼女は棚に埋め尽くされている参考書を手に取り見定め始めた。
――――まずは、
手持無沙汰に待機していると、不意に堀北が口を開いた。
「盲点だったわ。中学だと、何かを買ってまでして勉強する必要はなかったから」
「まあ、高校生になると色々変わるからな」
彼女の認識は間違っていない。確かに高校受験までなら先生への質問や独学でもある程度対応できるし、塾に通っていれば向こうから教材を配布される。能動的にアイテムを求める行動は、高校に上がる前だとメジャーとは言い切れない。
かてて加えて、当の少女は元来勉学に優れている。物に頼ることには、あまり慣れていなかった。
とは言っても、そんな俗世などに対しては無知な綾小路は、表面上話を合わせておくに留まるしかないわけなのだが。
「中学、高校と行くと……お前は大学に進学しようと考えてはいるのか?」
「まあね」
「ならこれからお前自身もそういう代物にはお世話になるかもな。あっちだと特集なんかにもなっているし」
綾小路が指差した方を堀北は反射的に向く。彼の言った通り、センター試験や有名大学の二次試験の対策本などがズラリと並べられている。さすがは進学校、この時期から見えやすいところに堂々と纏められていた。
「Aクラスに上がれないものなら、地道に勉強しなければいけない、か」
「絶対に上がるのよ。そもそも、どのクラスであろうと怠っていいことではないわ」
それだけ言って、彼女は話を打ち切り元の作業へ戻って行った。
能事終われり。
もうここに突っ立っている必要はない。待っている間は適当に文庫本でも漁ろうかと、彼はその場を離れる。
今できることは全てやり終えた。ここからは自由時間だ。
既に、賽はささやかに投げられている。
ぶっちゃけ原作見てると、クッシーダが参加するっていうよりは他の二人が参加するってことの方が須藤くんが来る動機になりそうだなってことでこうしました。
本作では予め堀北先生に許可もらおうとするあたり、きよぽんは原作よりかは彼女に親しみを抱いているんだと思っていただければ。
オリ主の過去話について(どれになっても他の小話もやるよ)
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止まるんじゃねぞ(予定通り,10話超)
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ちょっと立ち止まって(せめて10話以内)
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止まれ止まれ止まれ…!(オリだけ約5話)
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ちょ待てよ(オリキャラだけ,3話)
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ムーリー(前後編以内でまとめて)