テラ豚丼祭りと「自由への恐怖」
とんでもない話です。ユユしき事態です。批判されてしかるべきです。
許されないことです。
もちろん電凸とかしてる奴らのことです。
ちっとも悪くないことが悪いことにされてしまうとしたら それは恐ろしく悪いことです。
労働者が、職場で ほんのちょっと ごくささやかな息抜きしてるだけです。それをカメラに撮って万国の労働者と分かち合おうとしたのです。
労働者は奴隷じゃないです。時給を払ってるから時間いっぱい思い通りに動くと思ったら大間違いです。意思を持った人間です。というか、奴隷だとしたとしても本当は自由です。
そもそも、労働者が遊べるような明るい職場の方が生産性は高いです。資本家にとっても その方が得です。
なんて、資本家の利害はどうでもいいです。
労働者が遊んでいる。誰もを楽しくさせるような光景に憤ってる人々は、羨ましいのです。校則違反を ご親切にも当局に密告してくださる小学生と同じです。
自分だって、楽しく遊びたいのです。なのにガマンしてるのです。だから遊んでる奴が許せないのです。
要するに「妬み」です。
それからズバリ言いますと「不安」です。
あるいは言い換えますと「自由への恐怖」です。
テラ豚丼とは自由の別名です。
自分は自由ではないと信じ込んでいるのが我々です。縛るものがあるからです。「縛るもの」とは法律とか道徳とか合理的計算とかのことです。
たとえば、仮にテラ豚丼をつくったとしても、その様子を写した動画をアップするのは愚かです。電凸されるに決まってるからです。そう予期するのが合理的思考です。
テラ豚丼動画は、ブルジョア法規上も、うp主の自己利益としても、あり得ないことです。
あり得ないはずなのに突如として現れたのがテラ豚丼です。
だからテラ豚丼は、人間が自由であるということ、「縛るもの」が頼りないものであるということを暴露しているのです。
だから叩かなければならないのです。
それはどういうことか? それについて考えているのが↓の文章です。
ロッキーの狂気と加護ちゃんの喫煙問題について
『いじめ撃退マニュアル―だれも書かなかった「学校交渉法」』という本がある。詳しくは覚えてないけど、我が子を守るためには権利意識をもって学校と交渉しよう、みたいな内容だったような気がする。 現在の「消費者化」していく保護者意識のさきがけとなったような本だ。
この本のもう1つの主張は、いじめられたからといって学校をやめたら人生台無しになるよ。脅すなり叱咤激励するなりしてちゃんと学校に行かせなさい、というものだった。著者はシルベスター・スタローンを引用している。
4年間、毎日8時間も図書館で勉強した。高校へ行っていたほうが楽だった。学校へ行かないのは人生をあきらめることだ[。] *1
大スターになれたんだから別にドロップアウトしてもよかったんじゃないの、と思ってしまうが、ともかく子どもは学校に行かせなさい、というのがこの本の主張だった。
ところで『ロッキー・ザ・ファイナル (特別編) [DVD]』では、ロッキーとその息子の葛藤が1つのテーマになっていた。息子は若いサラリーマンで、僕などからはエリートに見えるけど、なんかウダウダしている。さすが「強い父親」に育てられただけのことはあるね。その息子に今さらボクシングなんて恥かしいからやめてよ、みたいなことを言われて、ロッキーがぶち切れる。
……でもどこかで、お前は変わってしまった。お前はお前であることをやめた。他人がお前の顔に指を突きさしてお前なんかロクデナシだと言うのを許している。そして生きるのがつらくなったら、何か言い訳はないかと探し始めた――「自分は影だ」って具合にな。*2
お前が知っているはずのことを言わせてくれ。世界はまるっきり太陽と虹のようというわけじゃない。卑劣で汚れた場所だ。どんなにタフでも、手をこまねいていたら張り倒されて いつまでもひざまずいていなければならない。お前も、俺も、誰も、「人生」というものほど強く打つものはない。だが大切なのはどれだけ強く打たれるかということじゃなくて、撃たれてなお前進し続けることができるか、どれだけやられてもなお前進し続けることができるかということなんだ。勝つというのはそういうことだ。
自分の価値がわかっているなら、それを掴みに行け。だが打たれる覚悟が必要だ。なりたいものになれないのは奴や彼女や誰かのせいだ、と指を指すんじゃなくてな。臆病者がそうするんだ。それは本当のお前じゃない。お前はそんなものじゃないんだ。
さてこのスピーチを聞いた息子。これからはフニャフニャ不平を言ったりしないでエリート街道を突っ走るのかな、と思ったら翌朝にはいきなり会社を辞めてしまい、それをきっかけにして親子の仲は修復されるのでした。あれ? 『いじめ撃退マニュアル』とは何か結論が違うような……。
『マニュアル』は、人権派の「問題親」に対して、教師は次のように反撃すべきだと言っている。
不幸になる自由も保障されてはいるけれど、登校拒否しないで学校に行くということは、人生を踏みはずさない一歩ではないですかねえ。そんな基本的なこともわからないで、何年人間やってんだ!
自分のことを反省もせずに、『学歴社会がよくない』『管理教育がよくない』『昔より教育現場の条件が悪くなっている』などと、外に攻撃目標を設定しているのは、恥の上塗りみたいなもんだしょうが!
制度なんかは、あなたたちが少々がんばったくらいでは、残念ながらびくともしません。しかし、その制度の中で、子どもは生きていかなければならないのです。それこそが現実だとしたら、もっと知恵を働かせて、その制度に適応していくしかないのではないですか! それとも無人島に住みますか?*3
現実は厳しいということ、かといって自分以外のものの存在を言い訳にしてはならないということ、これはロッキーの言っていることと似ている。似てるんだけど、なんか全然違うような気がする。何が違うのか?
少し前にアイドルが年齢を詐称したり喫煙したりして問題になった。これについて、鈴木紗理奈というタレントがこう書いたんだそうだ。
喫煙しただけで追放になる芸能界ってどないなん?年ごまかしてただけで真面目に謝罪せなあかん芸能界ってどないなん?あたしにとってはどっちも全然たいした問題じゃない
悪い事は一通りしましたが何か????20歳過ぎてからタバコ吸う人の方が少ないやろっ!!!年齢で女を判断する日本の社会がおかしいやろ!!!!芸能人やからって真面目にせなあかんのはおかしくねぇか?等身大でいいやんか。芸能人がみ〜〜〜んな真面目になったら何か夢ないよなぁ
100%賛成だ。僕はこの記事(削除済み)を直接は読まなかったんだけど、これを話題にしたブログをいくつか見た。未成年は喫煙しちゃダメだとか女の価値は年齢で決まるとか言ってるのもあったけど、そういうのはまあどうでもいい。ま、革命が成功したらちょっと収容所に入ってもらうことになるかもしれないけどね。
問題は、喫煙するかしないかは本人の自由だし、年齢で人間を判断するのはおかしいと自分は思うけど、アイドルが年をごまかしたり喫煙したりするのは賢明ではないとかいう人である。そういう人によれば、「若い」とか「タバコを吸ったりはしない」とかいう幻想にアイドルの商品価値がある。そこから逸脱したら迫害されるのは当たり前。そういう社会の「お約束」がわからずに素朴に正論をぶっている鈴木紗理奈はバカ、ということになるんだそうだ。
でもさ、そんなこと言ったら、たとえば『ブロークバック・マウンテン プレミアム・エディション [DVD]』で同性愛者がボコボコにされて死んじゃうエピソードが出てきたけど、あの人もバカでしょ。昔のアメリカの田舎で同性愛はタブーだったわけだから。「自分は別に同性愛は悪いことであるとは思わないが、この社会ではそれを隠し通すのが賢明だ」。あるいはローザ・パークスが「黒人は後ろに行け」と言われても白人席に座り続けたのも正気の沙汰とは思えない。「もちろん、人種差別はよくない。しかし白人専用席に黒人が座るのは賢明ではない」。それをきっかけにして抗議のボイコット運動をするのだって、そんなことしたら困るのは移動手段を失う黒人だし、対立を煽って「良心的」白人の反感を買うことになりかねない……
『ブロークバック・マウンテン』の主人公が少年時代に見た同性愛者は虐殺されたけども、ローザ・パークスは現在では偉人ということになっている。でもたぶん、ロッキーの言う「勝つ」というのはそういうレベルにはない。
仮に両者に違いがあるとしても、それは後になってから言えることだ。今だったら、「賢明な」人は言うだろう。ローザ・パークスの行動は歴史を動かし、社会を変えたと。でも彼女が白人席に座った時点でそうなる保証はなかった。そしてきっと、彼女と同じようなことをしてボコボコにされた人は無数にいたことだろう。今にして思えば公民権運動によってアメリカ社会が変わるのは必然だった。しかしその必然性は、人間の自由によって作り出されたものである。
問題はタバコを吸ったらどうなるかということではない。そんなの関係ねえ! そうじゃなくて、私はタバコを吸いたいのかどうかということだ。私は私のやりたいことをやっているかということだ。ロッキーの言う「勝つというのはそういうことだ」。
キング牧師は、暗殺される前の日の演説で、次のように述べていた。
……そして脅しをかけたり、すでに出ている脅しについて話し始める者が出てきた。我々の病んだ白人の兄弟たちのために私の身に何が起きるだろうかと。
さて、私はこれから何が起きるのかを知らない。我々は困難な日々を前にしている。しかしそれは私には今や重要ではない。なぜならば私は山の頂に立ったからだ。
私は気にしない。
誰でもそうであるように、私は長生きがしたい。長寿には価値がある。しかし今や私はそれには関心がない。私はただ神の意思を行いたい。そして神は私が山を登ることを許された。そして私は見渡した。そして私は<約束の地>を見た。私は皆さんと共にそこに行くことはできないかもしれない。しかし今宵、皆さんには知ってもらいたい。我々は人民として<約束の地>に到達するのだということを!
だから今宵、私は幸福である。私は何の心配もしていない。私は誰も恐れてはいない。我が目は主の到来の栄光を見たのだ!
ここでキング牧師は「私は山の頂に立ったから」もう何も恐れていない、と言っている。「我が目は主の到来の栄光を見たのだ」と。今日からすると、キング牧師はアメリカ史上最も偉い人、ということになってるから、それを予知させるなんて神様はスゴイね、とも思えるし、キングがブッシュにも祭り上げられる一方で大半の黒人の状態はむしろ悪化してるから結局大したことなかったとも思えるかもしれない。しかしキング牧師は何も形式的な差別が解消される未来を予知しようとしたのではないと思う。
そうではなくて、彼は確信したのだ。私はタバコが吸いたいのだと。「主の到来の栄光を見た」というのはそういうことだと思う。
加護ちゃんの喫煙が、別に未成年やアイドルがタバコを吸ってもいいと思ってる人まで苛立たせるのはなぜだろうか? 共産党の政策には共感すると言う人までもが、絶対に当選しない候補者を立てるのを見て心の平安を乱されるのはなぜだろうか(『「民主主義よ、お前はもう、死んでいる」――グアンタナモ化した政治と敵対性の外部化について』)? なぜ我々は、明らかに自己利益に反するようなことをしている人を見かけると不快になるのだろうか?
それはズバリ、そういう人々の存在が、私たち自身もまた自由であることを暴露しているからである。僕らはいつも、「○○がしたい」とか、「もうここにはいたくない」とか、「逃げ出したい」とか思っている。しかし「奴や彼女や誰かのせい」、あるいは社会のせい、制度のせいで、やりたいことをやったり いたくないところから逃げ出したりしたら とんでもないことになるということもまた知っている。だからまるで自由ではないかのように振舞おうとする。「賢明」とか「現実主義的」とか「合理的」とかいうのはたぶんそういうことだ。
なのにあのアイドルは、商品としての自覚ももたずに、タバコを吸ったという。喫煙するアイドルは、私もまたいつか私のやりたいことをやってしまいかねないという不安をかきたてる。私のやりたい「とんでもないこと」をやるのは自己利益に反する。だからそんなことを私はやらないはずだ。そういう合理的計算によって封印した私の自由が漏れ出してくる。蓋をしたつもりが、実はメッシュ状になってて意味なかったように思えてくる。何ものも、「自己利益」さえも、私を私の自由から守ってはくれない。
以前sarutoraさんがホームレスへの反感は「憧れ」の裏返しであると書かれていた(『ホームレスは良いご身分だねえ』)とき、いや、いくらなんでもホームレスになりたいとは思わないよと最初は思った。でもたぶんこの場合の「憧れ」というのは、いつ少年たちに殴り殺されるかもわからないようなスリリングな生活がしたい、っていうことじゃなくて、あくまでも僕が「○○がしたい」と思ってることがしたい、あるいは「○○なんかやりたくないよ〜」と思っていることから逃げ出したいということかもしれない。ふだんの僕は「そんなことしたら〜〜だ」といった言い訳をして自分の自由をごまかしている。ところが「自由なホームレス」という(現実のホームレスとは関係ない)イメージは、たとえそれがどんなに愚かで不合理で悲惨な結末を招くことは目に見えていても、ひょっとしたら僕もまた「やりたいこと」をやってしまうかもしれないという恐怖をかきたてる。
私もまた、ふと気がつくと、手にテラ豚丼を持っているかもしれないのだ。
だからホームレスは排除されなければならないし、加護ちゃんは追放されなければならない。蓋をしたはずの自由が溢れ出して、そこらじゅう水浸しになっている。我々は加護ちゃんを叩いたり、「単純な」正論で加護ちゃんを擁護する鈴木紗理奈が芸能人は商品であることを理解していないことをあざ笑ったりして、自分自身の得体の知れない不気味な自由に対するハードルを上げようとする。
「賢明」であるというのはそういうことだ。そしてたぶん、負けるというのは まさにそういうことだ。
(4月28日のmixi日記を改変して転載)
『「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット』