今回は盗撮に関する書籍のレビューです。著者の斉藤章佳氏はこのブログでも紹介した『男が痴漢になる理由』や『「小児性愛」という病――それは、愛ではない』の著者でもあり、依存症、特に性犯罪に関連する行動への依存を扱って治療を行っています。

 この流れからおおよそ想像がつくでしょうが、盗撮というのはともすれば小児性暴力や痴漢よりもさらに再犯率が高く、依存的な行動です。それは盗撮がほかの性犯罪と比べても特に発覚しにくく繰り返しやすい犯罪であることと無関係ではありません。しかしその一方、ネットの発達により盗撮画像を流出されれば被害の規模は計り知れないことになります。

 こういう現状がある一方、日本における盗撮への法整備はあまりにも遅れており、また理解すらあまりされていないのが現実です。本書は盗撮とは何かという基礎知識をおさえて学ぶことのできる良書と言えるでしょう。

盗撮という「攻撃」

 著者は盗撮の前科がある人々を治療する治療者です。その立場から、カウンセリングを受けている人たちにアンケートを取った内容が本書に収められています。このデータは特定の治療機関にかかわっている人に限定されるものではありますが、500名規模の盗撮依存者のデータを集めるのは困難であり、極めて貴重なものであると言えましょう。

 そうしたデータを眺めると興味深いことがわかってきます。まず盗撮犯の平均的な人物像ですが、まさに「普通の会社員男性」であると言えます。既婚者であることも少なくありません。
 さらに面白いのが、ほかのタイプの性犯罪者との比較です。著者は痴漢や小児性暴力の治療にも携わっているので、そうしたものとの比較もできています。それによると、小児性暴力犯が過程に問題を抱えていたりいじめの経験があることも多い一方、盗撮犯のその傾向は決して高くありません。つまり、本当に普通の人が盗撮に走っているのです。

 また、盗撮犯の発言から彼らがなぜ盗撮という行為をするのかも垣間見えます。これは印象的な発言であり本書のカバーの肩にも引用されていますが、彼らにとって盗撮は女性の日記をこっそり盗み見る快感があるようです。これは盗撮、ひいては性犯罪一般に性欲だけではなく攻撃欲や支配欲の影響があることをよく象徴しているでしょう。

 同様の示唆を得られるデータが、盗撮画像の使用方法です。性的な画像をとっているのだから自分で自慰に使うのだろうと思われるかもしれませんが、そうならない場合も多くあります。撮影して満足してしまい、撮影データが一切省みられない場合すら少なくありません。これは撮影という行為ですでに支配欲の充足が終わってしまっていることや、もはや盗撮するために盗撮するという依存症的振る舞いであると理解することができます。

家族に降りかかる災厄

 さて、盗撮犯の多くが普通の会社員で既婚者であることも少なくないと書きましたが、それはつまり、夫が盗撮犯だったという妻もまた少なくないということでもあります。著者によれば、こうした妻の多くが性犯罪に関する無理解からくるバッシングにあっています。

 特に多いのが、妻が性行為というケアをしなかったために夫が盗撮に走ったとするバッシングです。これは性犯罪を性欲の暴走としてとらえる考え方でしょう。しかしながら、盗撮が通常の性行為ではなく、女性に対する支配や攻撃、あるいは依存症的に陥り行為自体に意味がなくなりつつあることを考えると、妻が性行為に応じたからといって盗撮をしなくなるというわけではありません。同様の指摘は『痴漢とは何か 被害と冤罪をめぐる社会学』を執筆した牧野雅子氏が『刑事司法とジェンダー』で行っています。

 そもそも、仮に性犯罪が性欲の暴走だったとして、妻がそれを防ぐために夫との性行為に応じなければいけない理由にはならないのですが。ともあれ、そうしたバッシングによって妻は盗撮が自分のせいではないかという自責の念に駆られてしまいます。これは盗撮犯当事者が自分の行為を被害女性の服装などに責任転嫁するのとは対照的です。

 こうした問題を解決するため、著者のクリニックでは当事者だけではなく家族の自助グループも存在します。ところで、この家族のグループは当初、性別や役割を区別していなかったのですが、うまくいかなかったので父、母、妻でグループを分けることにしたようです。特に父と母を区別するのはジェンダーバイアスによる影響が大きいようです。

 父はたいていの場合、盗撮犯である息子と同じ性別です。そのため、息子の中にある性に関する認知の歪みを多かれ少なかれ共有しています。息子の支援をするには自らもその認知の歪みを正す必要があります。しかし、自分が盗撮をしておらずある意味では切羽詰まっていない父親にとってそうした作業はハードルが高いのでしょうか、あまりうまくいかなかったようです。結果、より積極的に理解を深め変わっていく母や妻の立場についていけなくなり、グループへの出席がなくなってしまったようです。

盗撮放置社会

 本書の最後では、盗撮を刑法で規制しようという活動をしている弁護士の上谷さくら氏との対談が収められています。この対談によれば、盗撮犯の処罰は現在非常に甘いものであり、5回逮捕されないと裁判にならないとも言われています。罰を重くすればいいというものでもありませんが、少なからず実刑がつかないと治療への動機にもならず、むしろ状況をうまく切り抜けたという成功体験にすらなってしまいかねません。

 しかしながら、一方でどこまでを盗撮で規制すべきかのかという問題もあります。性的な要素に重点を置いて規制しようとすればいささか主観的になってしまい、また通俗的には明らかに盗撮被害だと呼べるものでも性的でないとされてしまう恐れがあります。かつての裁判では、女性を脅して裸にしたものを「脅すのが目的でありわいせつ目的ではない」というとんでもない理由で強制わいせつとしなかったものすらあるくらいですから、裁判所がトンチキ理屈を繰り出す可能性は否定できません。

 一方で、撮影するという行為だけに重点を置けば、遠くから政治家を撮影して報道に使用するような行為も盗撮とされかねません。これは少々極例ですが、撮影したら偶然風でスカートがめくれたところを撮ってしまったとか、海を遠景から撮影してその中に水着の女性が入っていたという場合どこまでを盗撮とすべきかは微妙です。

 私の考えとしては、こうした規制をする際には、一度にすべての事例を規制しようとするのではなく、明らかにアウトな事例をしっかりと規制できる法律をまずは作るという方向で動くべきだと思います。現状はどんな盗撮でも刑法犯にならないという状態ですので、まずはこれを解消すべきでしょう。盗撮が刑法犯となれば、たとえその範囲が限られているとしても盗撮が犯罪であるという認識が社会に広がり、盗撮被害を軽視する考えも弱まるかもしれません。そうなれば盗撮犯が盗撮を正当化しにくくなり、盗撮被害の広がりを抑える遠因となるかもしれません。すぐさま100の完成度の法律ができれば理想ですが、そううまくいくものではないでしょうから、まずは明らかに酷いものをきちんと裁いて被害者も救済できるかたちを整え、徐々に前へ進めていくのがいいと思います。

 斉藤章佳 (2021). 盗撮をやめられない男たち 扶桑社