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June 28, 2007

“元「慰安婦」李容洙(イ・ヨンス)さん”本人のお話 を聞く。

2007年6月15日(金) 午後7時・南大塚文化創造会館・(主催・日朝協会)
超満員

イ・ヨンスさんの足跡(当日配布されたパンフより抜粋)

1928年12月13日 
 慶尚南道大邱市に生まれる(今年79歳になられる)。 両親と兄と本人と5人の弟の大家族で毎日が賑やかで睦まじく暮らしていた。学校にも通ったが、下に弟が沢山いたので一年ほどでやめてしまった。その後、夜学に通い日本人の先生に日本の歌をおしえてもらった。

1944年 秋
 15歳の時、家でねていると小窓を叩く音に眼を覚まし、手招きされるままに外に出てみると日本軍人が立っていた。脅かされるままに連行された。 慶州―平壌・安州―大連―台湾・新竹海軍慰安所へ

1945年 春
 16歳の時 慰安所が爆撃にあい、家の下敷きになる。親切にしてくれた特攻隊の軍人が出撃して行き、帰って来なかった。
 8月 日本の敗戦で“解放”される。収容所に集められる。

1946年 春
 17歳の時 帰還船で釜山港へ。大邱駅から走って父母の元へ。

・父母の元に帰れたものの誰にも被害を語れなかった。誰かにその事が知られてしまうのではないかと恐れて暮らしていた。いくつかの仕事をしながら弟達の援助で生活をしていた。

1992年6月25日
 63歳の時 恐る恐る何度も迷いそして勇気を振り絞って名乗り出た。
――――――

*李容洙(イ・ヨンス)さんの おはなし (通訳 李昤京さん)

(メモ)
・皆さんの顔を見ながら話したいです。立ったままで話します。
この前は学生さんの前で話しました。今日は大人の人も多く幸せです。
・私は、両親、兄一人、弟5人の中の一人娘でした。
何故、日本軍があの夜遅い時に来て、私を連れ去ったか分らない。戦争は何か全く知らなかった。
一人娘だったし両親には可愛がってもらって、幸せな日々だった。

・ある日、友達が来て、よもぎを取りに行った。そして、川へ行った。ヨモギを置いて、川でタニシをとったり、魚をとったりした。友達と楽しく水遊びをした。8月だったと思う。暑い日だった。
・堤防で、軍服を着た人と白い服を着た人が、私達をみて指差した。それを見て、何故かとても恐かったので、タニシ、ヨモギを捨て、「父さん、父さん」と言いながら、山のほうへ逃げた。父さんはいなかったが、いるように見せかけた。山の方には小さな家があり、恐いオバサンがいた。オバサンは「どうしたの?」と言った。それが、また恐くて家の方へ逃げた。
・その頃は、ラジオも何も無かった。天と地との間での生活だった。小学校は3年生まで行った。兄弟は男6人いた。何故女が勉強をするんだ、と言われ止めた。夜間の学校へ行った。そこに日本人の先生がいた。オルガンを弾きながら、歌を教えてくれた。当時、何も知らず遊びながら過ごした。

・ある日の夜、寝ていたが、(何かの)気配で目を覚ました。家はわらぶきの屋根だった。部屋には小さい窓があった。外から声がした。女性が覗いた。女性は、手を伸ばして“出て来い”という仕草をした。母はいなかった。私は出て行った。女性と軍人がいた。女性は(私の)肩を押さえ、口をふさいだ。軍人は背中に何かを突きつけた。
細い道を歩かされた。連れて行かれた。月が明るい日だった。

・少し行ったら、洞窟のようなところがあった。女の子が3人いた。そこはトンネルの下だった。軍人が赤い風呂敷の包みを渡した。見たら、靴とキモノが入っていた。

・そこから駅に連れて行かれ、汽車に乗った。初めて汽車に乗った。悲しくなって「お母さん!お母さん!」と叫んだ。軍人は、5人の女の子の頭を殴った。私も殴った。頭が痛くて吐き気がした。下向きにして、軍人は蹴飛ばした。髪を掴んで(頭を)床に打った。意識が無くなり、気絶した。

・どこに着いたか良く分らなかった。降ろされて旅館に入った。キョンサンド、と云う所だと後で分った。
旅館に入ったら、5人の女性は手と足を出させられ、棒で手と足を叩かれた。何で叩かれるのか分らなかった。
「お姉さん、お姉さん!お母さんの所へ帰りたい」と叫ぶとまた、叩かれた。お姉さんは「朝鮮語を使うな。使うとまた叩かれるぞ」と言った。
そのうち、また女の子が二人連れてこられた。二人は、座らされて手と足を棒で叩かれた。手も足も腫れて、誰も歩けなかった。  

・ある日、這って外に出た。小川が流れていた。顔を洗おうとしたが、手も顔も痛くて洗えなかった。紫色の花が咲いていた。そばに立っていた男の子が「トラジの花だよ」と教えてくれた。私は、トラジの花に「お前も誰かが叩くのか?恐いのか?」と話しかけた。帰ったら、朝鮮語を話した、男の子の黒いゴム靴を履いていると言うので、殴られ、手と足を叩かれた。

・5人の女性が連れてこられたが、私が一番幼かった。「姉さん、母さんの所へ帰る」と言って帰ろうとすると、捕らえられて、髪の毛を握られ引きずられ、暴力を受けた。
ある日、沢山のおかずと白いご飯が用意されていた。お姉さんは「ご飯を食べてお母さんに会いに行こう」と話した。私は「母さんの所へ帰れる。うれしい。母さんの所へいける。」とご飯も食べずに飛び跳ねた。お姉さんも泣いていた。

・汽車に乗せられた。「お母さんの所へ帰れる。お母さんの所へいける。うれしい。」と何回も言った。汽車は、窓はあったが、ガラスはなかった。外を見た。汽車は、私の家を通り過ぎて行った。窓から顔を出して「母さん、母さん、この人達が、私を叩くよ!私を殺すよ!たすけて!」と叫んだ。後ろから髪を引っ張られ、床に顔を叩きつけられ、殴られた。気を失った。
・「降りろ!」と言われた。そこは平壌だった。クアンジョという所へ連れて行かれた。頭に白いタオルを巻いたおばさんが居た。そこの家で、水くみのポンプ注ぎをやれと言われた。寒かった。食べるものも無かった。りんごを盗んで食べた。また、暴力を受けた。

・次に大連に連れて行かれた。船が11隻あった。その中の一隻に載せられた。海軍の兵隊が300人乗って、その後に乗せられた。どれくらい行ったか分らないが、ある日、拡声器で「今日は日本のお正月だから、女が一人来て、上で歌を歌え」と言った。私は、夜学で日本の先生にオルガンで日本の歌を教えてもらっていた。それで、私が船の上にあがって歌った。

“何にも言えず 靖国の 宮のきざはし ひれ伏せば 熱い涙が 出る時は そうだ 感謝の その気持ち
揃う揃う気持ちが 国護る”
(イ・ヨンスさんは日本語で歌われた。驚くほどの美声だった。)

・船の上で、学校で習った今の歌を歌った。そこは上海だと皆言っていた。お正月の餅を私にくれた。下に降りて、お姉さん達に「歌をうたって、このもちをもらったのよ。みんなで食べよう」と言うと、皆涙を流した。

・何日かして、ある日、船が揺れて、船酔いをした。吐きながらトイレへ行った。這いながら立とうとすると、足元に軍靴が見えた。トイレを出ようとすると、軍靴を履いた軍人は私が出られないように、通せんぼをした。私は立った。軍人は私が出ようとするのを邪魔するので、その人の腕に噛み付いた。すごいビンタを受け、倒れた。
 お姉さん達が、私がトイレから帰らないのを心配して迎えに来た。私は鼻血とか、血を出していたととのことだった。その時、何人かの軍人がお姉さん達に襲い掛かって行った。私には何のことか意味が分らなかった。私は「お姉さん、ほんとうに噛み付いてやれ!」と叫んだ。
悔しくて、腹立たしく、そして汚らしいのは、この船の中に300人の軍人が居たということだ。その相手を5人の女性がさせられた、ということだ。皆さん想像してください。どういうことをさせられたか。悲しいし、こんな汚らしい事はないのです。当時15歳、多く年がいっても17、8歳の女の子。5人の女性に300人の軍人が襲い掛かったとしたら、どういうことが起こったでしょう。、、どれ程汚らしい事が行なわれ、どれほど私達に傷をおわせたか。
続く


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