渋沢兼子/大島優子
「伊勢八」の名で知られた豪商・伊藤八兵衛の娘。明治維新後、家業が没落したため、芸者として身を立てることを決意。門をたたいた置き屋で、三味線の師匠・やすと出会う。千代亡き後、栄一の後妻となって渋沢家を守り、養育院や民間外交において栄一を支えるパートナーとなる。
渋沢家・中の家(なかんち)の長男。幼いころから人一倍おしゃべりで剛情っぱり。従兄(いとこ)である惇忠たちの影響を受け、草莽(そうもう)の志士として倒幕を目指すが、計画は失敗。平岡円四郎との出会いから一橋家の家臣となり、命拾いする。
慶喜の家臣となった栄一は、父・市郎右衛門ゆずりの商才を生かし、一橋家の財政改革に邁進(まいしん)。ところが、慶喜が徳川宗家を継ぐことになり、まさかの幕臣となってしまう。さらに、パリ万国博覧会の使節団の一員として渡欧した栄一は、西洋の進んだ文明と経済の仕組みを学ぶ。しかし、日本では徳川幕府が崩壊。帰国した栄一は、静岡で隠棲(いんせい)する慶喜と再会し、そばで支えることを決意。パリで学んだ、民間の資本を集める「合本(がっぽん)」の仕組みを試すため、「商法会所」を設立する。
ところが突然、明治新政府から出仕を命じられて東京へ。政府の中で「改正掛(かいせいがかり)」を立ち上げて改革を推し進めた。しかし、高所から物を言う官の立場に嫌気が差して、民間の世界に移ることを決意。第一国立銀行の経営を皮切りに、ガスや電力、鉄道、製紙、ホテル、保険など商工業事業のみならず、社会福祉事業や民間外交にも奮闘する。
最愛の妻・千代をコレラで亡くしてからは、渋沢家を守るために兼子と再婚。嫡男・篤二の放蕩など家庭問題にも頭を悩ませながら、「人生の役割」を模索していく……。
「伊勢八」の名で知られた豪商・伊藤八兵衛の娘。明治維新後、家業が没落したため、芸者として身を立てることを決意。門をたたいた置き屋で、三味線の師匠・やすと出会う。千代亡き後、栄一の後妻となって渋沢家を守り、養育院や民間外交において栄一を支えるパートナーとなる。
栄一の長女。誕生直後に栄一が京へ出たため離れて暮らしたが、武士の娘として千代に厳しく育てられる。維新後は家族水入らずの生活が実現、栄一の転身に応じて静岡から東京へ引っ越し、女学校で学ぶ。穂積陳重とはお見合い結婚。千代が急逝してからは、母代わりとなって篤二を厳しく育てようとする。
イギリス留学から帰国後、明治14年に東京大学法学部の講師に就任し、歌子とお見合い結婚。その後、法学者として日本の民法制定などに貢献する。千代が亡くなってからは歌子と共に、栄一の嫡男・篤二の親代わりとなる。
しっかり者の姉・歌子と奔放な弟・篤二の間で育つ。12歳という多感な年ごろに突然、母・千代を亡くした。明治21年、父同士のつながりもあった阪谷芳郎と結婚。家庭教育を大事にした芳郎の思いに応え、愛情深く子供たちを育てた。
かつて栄一が一橋家の人選御用で親交を深めた岡山の漢学者・阪谷朗廬(さかたに・ろうろ)の息子。東京大学を卒業後、大蔵省に勤務して間もなく、琴子と結婚する。明治39年には大蔵大臣にまで上りつめ、日露戦争の財政処理に手腕を発揮した。明治45年から大正4年まで東京市長を務める。
まだまだ母親が恋しい10歳のころ、母・千代が急逝。母代わりとなった姉・歌子が厳しく育てるが、多忙を極める父・栄一が実業家として偉大になるほどに、嫡男(ちゃくなん)の立場が重圧となっていく。やがて放蕩(ほうとう)を重ねるようになる。
伯爵・橋本実梁(さねやな)の娘。慶喜の妻・美賀子の遠縁にあたる。明治27年、栄一の嫡男である篤二とお見合い結婚。翌年には長男・敬三が産まれる。篤二は栄一が設立した渋沢倉庫部の初代支配人を務めていたが、やがて廃嫡されるという事件が起こり、敦子は胸を痛める。
幼いころから魚やアリなどの生態に関心を示し、生物学者になることを夢見る。ところが、栄一の嫡男である父・篤二が放蕩(ほうとう)の末に廃嫡(はいちゃく)されることになり、跡継ぎとして白羽の矢が立てられる。75歳の祖父が19歳の自分に頭を下げて懇願する姿に衝撃を受け、生き方を模索する日々が始まる。
貴族院議員であり京都府知事を務めた木内重四郎の娘。母・磯路は岩崎弥太郎の次女。東京帝国大学を卒業し、横浜正金銀行に入行した敬三と結婚。敬三がロンドン支店に配属されたためイギリスで生活し、長男・雅英を出産する。
徳川斉昭の七男に生まれ、一橋家を継ぎ、江戸幕府最後の将軍へ。側近・平岡円四郎の目利きで渋沢栄一と出会い、財政改革に手腕を発揮した栄一を重用する。幕府終焉(しゅうえん)の時を迎えてからも、慶喜と栄一の厚い信頼関係は終生に及んだ。
病にかかった慶喜の婚約者の代わりとして正室になる。一橋家の未亡人である徳信院と慶喜の恋仲を疑い、自殺未遂の騒動を起こした。つかず離れずの夫婦であるが、やがて慶喜のよき理解者となる。
一橋家の側用人。若かりし小姓時代、慶喜に怪我(けが)をさせるという失態をおかすが、戒めることなく寛容に受け入れた慶喜にほれ込む。いかにも人のよい性質で、一橋家に仕官した栄一や喜作の世話を焼いた。やがて、栄一が発案した慶喜の伝記編纂(へんさん)に尽力する。
渋沢一族の一家、「新屋敷」の長男。栄一より2歳上で、幼なじみとして育ち、生涯の相棒となる。直情的だが情に厚く、弁が立つ知性派の栄一とは正反対の性格。幕末の混乱の中で彰義隊を結成するも敗戦。箱館へと渡り、土方歳三らと共に新政府軍と戦うが投獄される。釈放後は栄一と共に政府で働き、養蚕の調査のためイタリアへ渡航。帰国後、栄一が下野したことを知り、同じく政府を辞めて生糸や米を扱う商人となる。
尾高家の長男。従弟(いとこ)である栄一や喜作に学問や剣術を教える。早くから水戸学に傾倒し、栄一らに大きな影響を与えた。明治維新後は富岡製糸場の初代場長となり、栄一を支えた。やがて、第一国立銀行の盛岡支店、仙台支店の支配人を務める。
佐賀藩士族。佐賀藩校では騒ぎを起こして退学させられるが、英語を学ぶために長崎へ遊学。維新後、外交交渉ができる能力を必要とされ、新政府に入る。明治2(1869)年には大蔵省で実質上のトップに就任。新政府からの出仕の命をこばむ栄一を、得意の弁舌で口説き落とす。
旗本の娘。従兄(いとこ)に小栗忠順(おぐり・ただまさ)がいる。重信とは再婚同士で、短気でせっかちな夫の手綱をしっかり握り、仲むつまじい夫婦として知られる。大隈家には栄一をはじめ、政府関係の来客が絶えなかったが、手厚くもてなした。千代とも交流を深め、グラント前アメリカ大統領の応接では共に活躍する。
長州藩士族。イギリス公使館焼き打ち事件を起こした攘夷派の志士であったが、井上聞多(馨)と共にロンドンに留学してから一転、開国論者になる。維新後は新政府に出仕し、大蔵少輔として栄一の上司に。主に貨幣制度の改革に注力した。やがて初代内閣総理大臣に出世する。
長州藩の尊王攘夷派のひとり。伊藤俊輔(博文)らとロンドンに渡り、開国派に転じた。下関戦争で長州が敗戦すると、伊藤と共に英国公使との調停にあたる。維新後は大蔵省に入り、その右腕となったのが栄一。気性の荒い井上と馬が合った栄一とのコンビは「雷親父と避雷針」と呼ばれるほどだった。
大隈重信の仲介で井上馨と再婚。明治9年、夫と共にイギリスに渡るが、その船上で日本髪をほどき、西洋流の社交術を学んだ。グラント前アメリカ大統領の応接では、千代たち女性のよき先生となって大活躍する。後に外務卿となった夫の鹿鳴館(ろくめいかん)外交を支え、「鹿鳴館の華」と呼ばれるようになる。
新聞記者を経て、政界入り。立憲政友会の総裁として内閣総理大臣に就任し、初の本格的政党内閣を組織した。大正9年、アメリカからワシントンでの軍縮会議への参加要請を受け、外交問題が悪化することを恐れた原は返答を渋っていたが、栄一は民間の立場から参加の必要性を訴えた。
大阪の豪農の家に生まれる。農商務省から外務省に転じ、大正8年、原敬内閣の下で外務次官から駐米大使になる。日英同盟の更新など外交問題が山積みの中、ワシントン会議では、日本の未来を背負って全権委員として参加した。民間代表として会議にかけつけた栄一は、会議前に幣原らと面会し、日本のあるべき姿を説く。
井上馨の誘いで大蔵省へ入るが、井上や栄一と共に下野。井上が設立した貿易会社「先収会社」の副社長に就任、後に「三井物産」の社長となる。栄一が創立した東京商法会議所では副会頭となり、商業の地位向上に貢献。三菱の海運独占に対抗するため、栄一と共に東京風帆船(ふうはんせん)会社を立ち上げる。
明治維新後、アメリカや欧州への渡航経験を活(い)かし、大倉組商会を設立して海外貿易に乗り出す。栄一と共にふたりで発起人となり、東京商法会議所を設立。ほかにも、電力やガス、ホテル、劇場などの事業を栄一と共に立ち上げる。栄一とは終生、深い交友を結んだ。
幕府海軍所で数学を学び、維新後に小野組に勤務。第一国立銀行が創業すると、小野組から移籍してその勘定方となる。お雇い外国人のアラン・シャンドから簿記を学んだ。勤勉な仕事ぶりが栄一に認められ、やがて二代目の頭取となる。
栄一が設立した渋沢倉庫部に入り、初代支配人となった篤二の部下として働く。やがて栄一の秘書となり、栄一が実業界を引退してからもそばで支える。晩年の栄一が、アメリカ60都市を巡った渡米実業団の旅やワシントン会議へも共に付き添った。