ようこそ事なかれ主義者の教室へ   作:Sakiru

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第六章、開幕です。
第五章の後書きでお伝えしましたが、第六章『長期休暇編 ─夏休み─』は二部構成となっております。
具体的には、綾小路たち一年生が旅行に行く前──第五章の前ですね──と、旅行から帰ってきたあとの構成となっています。
なので今回は例外的にサブタイトルを付けさせて頂きました。『Ⅰ─Ⅰ』が旅行前で、これは『Ⅰ─Ⅱ』『Ⅰ─Ⅲ』と繋がっていきます。旅行後は『Ⅱ─Ⅰ』『Ⅱ─Ⅱ』『Ⅱ─Ⅲ』となります。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、ご了承下さい。
また、新型コロナウイルスが世界中に蔓延しています。必要ない外出は控え、健康には充分に気を付けましょう。こまめな手洗いうがい、換気をすることがとても大切だと思います。
そしてその暇潰しとして、この二次小説を読んで頂けると幸いです。

それでは、第六章。是非楽しんで下さい。



第六章 長期休暇編Ⅰ ─夏休み─
長期休暇編 Ⅰ─Ⅰ


 

 昨日(きのう)から学生が待望していた長期休暇に入った。

 普通とは縁遠い高度育成高等学校だが、流石に夏休みは全国各地の高校と同じように訪れるらしい。

 文化祭や修学旅行はどうなるのだろうかと、オレは実は期待しているが……まあ、恐らくは無理だろうなとも諦めている。在学中、生徒は外部との接触を禁じられている。区画から無断で出ることは(かな)わないし、見咎(みとが)められた場合相応の罰が与えられるらしい。個人の問題……つまり、プライベートポイントのみならず、クラスポイントにも影響を与えると考えた方が良いだろう。また、SNSの利用にもオレたちは気を遣う必要がある。こちらに関しては随時学校側が確認しているそうで、問題がある発言をした生徒は生徒指導室に連れていかれるようだ。実際に数名の生徒が居るので間違いない。

 その為オレのこの夢が叶えられることはないだろう。高度育成高等学校は設立されてからまだそこまでの年数が経っている訳でもないため、オレが在籍している時代に校則(こうそく)が劇的に変わるとは思えない。

 

「眠い……」

 

 時刻は朝八時三十分。本来なら朝のSHRが行われ、担任が出席を取っているだろう時間帯だが、それも今はない。

 学生寮から校舎までは数分の距離とはいえ、決められた時間に行動するということは思春期のオレたちにとって厳しいものがある。それが社会に出てからは当たり前のことだと頭の中では分かっていても、反抗心を持つことは自然だと思う。

 つい最近までは規則正しい生活を送っていたのに、一度でも気が(ゆる)むとあっさりと堕落(だらく)してしまう。継続は力なり、とはよく言ったものだ。

 そんなことを考えながら朝食を済ませ、身支度を整える。この後は人と会う約束をしているのだ。

 起床してから一時間後の九時三十分。ピンポーンという音が部屋に響く。玄関扉を開けると、太陽の光が射してくる。あまりの眩しさに思わず瞬きをする。徐々に光に慣れていき、目の前の人物を浮き彫りにしていった。

 

「おはようございます、綾小路(あやのこうじ)くん」

 

「おはよう、椎名(しいな)

 

 オレが挨拶を返すと、友人──椎名ひよりは微笑んだ。

 学校の制服ではなく、私服を着ている。休日に会うことは一学期の間あまりなかったので新鮮だ。

 

「遠慮せず入ってくれ」

 

「はい、それではお邪魔しますね」

 

 異性の部屋に遊びに行くことが校則で禁じられているわけではないが、思春期真っ(さか)りの高校生にとっては些細なことが変な噂になりかねない。

 ばったりと部屋から出た男子生徒と運悪く遭遇することを回避する為、先に椎名を通す。

 玄関の鍵は……閉めなくても良いだろうと判断した。流石に無断で突入してくるような奴は居ないだろうし、椎名が不安になるのは避けたい。

 

「綾小路くん。とうとう絨毯を買われたのですね」

 

「昨日、友達と買いに行ったんだ。余裕が少し出来たからな」

 

「それは素晴らしいと思います」

 

 基本的にDクラスの生徒は極貧生活を余儀なくされている。それは四月の一ヶ月で1000ポイントあったクラスポイントを全て使い果たしてしまったからだ。今月の七月からポイントが入り始めたが、その額は微々(びび)たるもの。昨日……つまり、夏休みの開始と同時にようやく振り込まれてたが、殆どの生徒は生活用品に既に使い切って居るだろう。スーパーやコンビニには一応の救済措置が用意されていて、無料商品が置かれているが、それも無限にある訳じゃない。一ヶ月に何回買えると決まっていて、それは記録として残っているので慎重になる必要がある。

 しかしオレともう一人の生徒だけは事情が異なる。オレはおよそ20万prを所持しているが、もう一人の生徒──佐倉(さくら)愛里(あいり)には30万prが例外的に一気に支給された。佐倉の所持プライベートポイントは学年でも高い順位に位置することになったことだろう。

 話を戻そう。つまりオレには、ある程度自由に使える分だけのポイントがあるということだ。

 

「お友達……と言うと、度々話題になっている平田(ひらた)洋介(ようすけ)くんでしょうか?」

 

「……よく分かったな。その通りだ」

 

 まさか当てられるとは思ってなかった為、驚く。

 椎名は深緑色の絨毯(じゅうたん)の上に「失礼しますね」と律儀にも言ってから腰を降ろし。

 

「綾小路くんの交友関係からある程度は察せられます」

 

 事も無げにそう言う。

 うぐっとオレは言葉に詰まる。椎名の指摘が全て正しかったからだ。

 

「他のお友達……確か、須藤(すどう)くん? とも思ったのですが、お話を伺う限りでは、この色は彼の趣味ではないかなと思いました」

 

「大正解だ。洋介……平田に付き合って貰ったんだ」

 

 昨日、オレは友人の一人である平田洋介という男と遊んだ。これまでは重要な話があったりと、純粋な遊びはして来れなかったが、昨日初めて男子高校生らしく遊べたと思う。午前中は公園でサッカーをし、午後にケヤキモールというショッピングモールに行き、ゲームセンターや映画を観た。その際、ホームセンターに行き絨毯を買った。

 話を聞き終えた椎名は「ふむ」と頷いてから、

 

「だとしたら申し訳ないですね。二日連続でケヤキモールに行くことになるのですから」

 

 椎名と遊ぶことは何日も前から決まっていた。ケヤキモールに(おもむ)き、近々学校主催の行事であるクルージング旅行の準備をする為、付き合って欲しいと打診を受けていたのだ。

 しかし洋介とケヤキモールに行ったのは突発的な行動だ。男子高校生のノリというものを体験することが出来たのは良かったが、配慮に欠けていたな。弁明すると、彼女の用事のことは覚えていたので、彼女の用事には被らないようにしたが……いや、これは明らかに不誠実だな。

 

「椎名が謝ることは何もない。むしろ謝るのはオレの方だ。悪いな、勝手に動いてしまって」

 

「いいえ、気にしないで下さい。お友達との付き合いは大切ですから。それが同性なら尚更でしょう。ああ、けど──」

 

 私が男性だったら、ちょっと怒っていたかもしれませんね、と椎名は言った。

 それを見たオレは深く反省し、頭を下げる。

 

「本当に悪かった。代わりにはならないと思うが、今日はとことんこき使って良いぞ」

 

 すると彼女はにこりと笑った。

 

「では、お言葉に甘えさせて頂きますね」

 

「もう行くか?」

 

 集合場所と集合時間は決めていたが、その後はその時その時で考えようということになっていた。

 椎名の買い物がどれだけ時間が掛かるのかは、実際行ってみないと分からないだろう。なら早々に目的を果たした方が効率的だ。

 

「いいえ、先程はあのように申しましたが、実の所、買い物そのものにはあまり時間は掛からないと思います」

 

「そうなのか?」

 

「はい。夏服を買いに行くだけですから。すぐに済むでしょう」

 

 あっけらかんと彼女は言った。

 なるほどと納得する自分とは別に、少し腑に落ちない自分も居る。

 小説では女性の買い物は長い、とよく表現されている。女性の目は刺激に敏感で、少しでも興味が引かれる商品があると本来の目的すら忘れてしまうほどにふらふらとそちらに足がむくからだ。

 もちろん、小説で得た知識だけで疑っているわけじゃない。洋介も似たようなことを言っていたのだ。

 友人曰く、

 

「清隆くん。きみも重々注意した方が良い。女の子の買い物には死ぬ気で行った方が良いよ」

 

 との事だ。昨日伝えられたから間違いない。それに洋介の表情は本気(マジ)のものだった。普段の彼からは想像が付かないが、それだけ軽井沢(かるいざわ)(けい)という女の子としていくのには骨が折れるのだろう。

 だからオレが半信半疑になるのも仕方がないことだと思う。しかしそれを言って良いのかとも思う。

 

「……綾小路くん?」

 

「いや、何でもない。そうだな、ケヤキモールに行くのは午後からにするか」

 

「暫くの間お邪魔しますね」

 

 言うや否や、彼女は俊敏な動きで持参していたバッグから一冊の本を取り出した。図書館で借りてきたのだろう、裏表紙に図書館のバーコードのシールが貼られている。

 

「……なるほどな」

 

 オレは相変わらずの椎名に苦笑いを浮かべた。

 恐らく、良いところで終わっていたのだろう。続きが気になっていたから、あのような提案をしてきたのだと容易に想像がつく。

 本の虫の友人は、在学中に図書館に置かれている本全てを読破することを目標としている。保管されている冊数は何千……下手したら何万にも届いているだろう。その数を踏破するのは普通なら無理だ。

 だがしかし、本を愛してやまない椎名なら。何食わぬ顔で実現出来そうな気がするのだから不思議だ。

 冷茶を二人分用意し、折り畳み机の上に置く。

 

「昼はどうする? モールで食べるか?」

 

 頭がこくりと小さく縦に動く。

 一応、意識の何割かは外の世界に割いているようだ。

 オレはもう一度苦笑してから、勉強机の上に置いていた一冊の小説に手を伸ばす。

 題名は──『グリム童話集』。ヤーコプ・グリムとヴィルヘルム・グリム……通称、グリム兄弟が編纂(へんさん)したメルヒェン集だ。メルヒェンとは、昔話という意味である。そしてここで気を付けて欲しいのが、この童話集は創作物ではなく、グリム兄弟が収集したものだということ。正式名称は『子どもと家庭のメルヒェン集』であり、この本はそれを日本語訳したものだ。

 普段は推理小説を読みがちなので、たまには趣向を変えたいと思い、本の紹介コーナーに置かれていたこの本を手に取ってみた。

 思えば、ここ最近は色々と多忙だったからあまり読書していなかったな。せっかくの機会だ、じっくり、ゆっくりと読もう。

 オレは少しずつ本の世界に意識を傾けて行った。

 

 ──二時間後。

 

 静寂に包まれていた部屋に、ぱたんと、音がなる。

 目だけ動かして発生源を見ると、そこには、本を閉じた椎名の姿があった。

 

「読み終わったのか?」

 

「ええ、はい」

 

「珍しく時間がかかってたみたいだな」

 

 頁数(ページすう)にもよるが、大半は一時間から二時間もあれば読破出来る。それが椎名のような文学少女なら尚更だ。

 しかし今回は長かった気がする。そんなオレの指摘に、椎名は答えた。

 

「これは推理小説なのですが、どうにも分からないところがあって」

 

「へえ……椎名がそう言うなんて本当に珍しいな」

 

「そう、ですね……。ですがどうしても分からないんです。何度考えても、私には分かりませんでした」

 

「推理小説ってことは……トリックとかか?」

 

 質問してから、いや、それは無いなと否定した。トリック……つまり犯行手段は推理小説の(きも)とも言える。読者に分かるように説明されなければならない。

 なら他に理由があると考えるべきだろう。

 椎名は両腕で本を抱き締めながら言った。

 

「分からない……と申しましたが、納得出来ないと表現した方が良いでしょうか」

 

「納得出来ない、か……」

 

「ええ、ですからこれは私の癇癪(かんしゃく)です。私は……犯人の動機が何度読み返しても納得出来ませんでした」

 

「それは気になるな。また今度読もうかな」

 

 だから題名を教えてくれとオレは頼んだ。

 しかし、彼女は黙考してから首を横に振る。

 

「……いいえ。綾小路くんには紹介したくありません」

 

 思わず目を見張る。

 椎名が本を紹介したくないと口にするのは初めてだ。

 

「どうしてだ?」

 

「それは…………」

 

 椎名自身、理由が分からないようだった。

 だがオレに紹介したくないのは本当のようで、オレはそこまで言うのならと引き下がる。

 裏表紙の色や大きさ、デザインから後で探し出すことは可能だが、それはやめておこう。

 

「ごめんなさい。ですが、どうしても私は……」

 

「謝る必要はないさ」

 

 気にするなと再度言うと、椎名は小さく頷いて手提げバッグの中に本を仕舞った。

 

「お茶、飲んでいないが大丈夫か? 外は暑いと思うから、飲んでおいた方が良いと思うぞ」

 

 今は冷房が効いているから何不自由なく快適に過ごせているが、外が厳暑(げんしょ)なのは間違いない。

 水分補給をしっかりと摂らないと熱中症になることも充分に有り得る。

 

「戴きますね」

 

「ああ」

 

 飲み終わり空になったグラスを受け取り、台所の流しで水に浸けておく。

 荷物は……携帯と学生証くらいで良いか。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

「はいっ」

 

 先にスニーカーを履いて貰い、玄関扉を開けて貰った。すぐに靴箱から地味な色のシューズを取り出し、足を通す。ガチャガチャッと、鍵が掛かっているのを確認した。

 

「どうする? エレベーターを使うか?」

 

「階段を使いましょう。運動不足を少しでも解消したいです」

 

「そうか。それはいい心構えだと思うが、何かあったのか?」

 

 階段を降りながら尋ねる。

 これまで彼女の口からは運動をしたい──こんなことは一言も漏らしたことはなかった。

 むしろ椎名は運動そのものに対して忌避感……とまでは行かなくても、苦手意識を持っていた筈だ。

 

「笑いませんか?」

 

「笑わない。約束する」

 

「……その、お恥ずかしながら……体育の成績が……」

 

 語尾は掻き消えていったが、確かに聞き取れた。

 なるほどなとオレは納得する。

 そういう理由なら何とかしたいと思うだろう。

 

「事情は分かったが……そんなに酷かったのか?」

 

「ええ……壊滅的(かいめつてき)でした」

 

 切実にそう言われたらオレは口を(つぐ)むしかない。

 

「特に水泳が厳しかったですね。いえ、それ以外も厳しかったのですが……正直、単位を取れたのは授業を真面目に受けていたからだと思います」

 

 授業態度で点数を稼いだということだろう。

 普通の生徒にとっては──ここでは、平均的な能力を所持している者を指す──授業態度の評価項目はあってもなくてもあまり関係ないものだ。しかし、向上心が高く少しでも良い成績を取りたい生徒や、試験の結果が芳しくない生徒にとってはとても大切になってくる。前者は成績が加点されるアイテムとして、後者は救済措置として重宝されるのだ。

 そして椎名にとって体育は苦手極まるもの。だからこそ、授業態度の評価項目が生命線だったのだろう。

 

「綾小路くんは一学期の成績、どうでしたか?」

 

 学生寮のフロントをそのまま横切り、並木道(なみきみち)に入ったところで、椎名がそう尋ねてきた。

 

「可もなく不可もなくだったかな。順位を付けたら多分、学年平均くらいだと思う」

 

 すると隣を歩く彼女は不思議そうに首を傾げる。

 

「中間試験の結果はかなり良かったですよね?」

 

「あれは昔習ったことの範囲だったからな。流石に中学に習ったことはそう簡単には忘れないさ」

 

 中間試験とは違い、期末試験の結果は殆どの生徒は点数が落ちていた。維持出来ていたのは学年でも極わずか。その中には椎名も含まれている。

 

「それにしても……凄い人混みだな……」

 

 往来する生徒の数は尋常ではない。この並木道は一年生から三年生まで、各学年の学生寮へ続く道の分岐点であったり、学校へ通じる道であったり、オレたちの目的地であるケヤキモールへ通じる道であったりと様々な役割を持っている。

 長期休暇が始まり、みんな、思う存分に楽しもうという気概が伝わってくるようだ。

 

「──きゃっ」

 

 小さな悲鳴が隣から出る。

 擦れ違った男子生徒の肩と椎名の肩がぶつかったのだ。

 彼女が転倒する前に、オレは手を伸ばし、

 

「……ッ。大丈夫か?」

 

「は、はい……」

 

「悪い悪い。怪我はないか?」

 

 上級生だと思われる生徒に、椎名は「大丈夫です。こちらこそ申し訳ございません」と答える。その事に安堵した彼は再度謝罪をしてから、学生寮がある方向に足を向けて行った。

 

「モールはこの倍は居そうだな」

 

「……そうですね。ごめんなさい、綾小路くん。これなら先に本来の用事を済ませるべきでしたね」

 

「まあ、実際に行ってみないと分からないさ。取り敢えず隅に移動しよう」

 

 人が少ない場所に行けば、先程のような衝突事故に遭うこともないだろう。

 気を付けながら歩いていると、前方から二人の男女が歩いてきた。カテゴリー的には知り合い以上友人未満。彼らもオレの姿を認知したのだろう、そのまま直進してくる。

 

「久し振りだな」

 

「そうでもないだろ。精々二週間行くか行かないかくらいだ」

 

 オレの言葉を堀北(ほりきた)(まなぶ)は顔面通りに受け取ったようで、「それもそうだな」と言った。

 

「こんにちは、綾小路くん。そしてあなたは……」

 

「初めまして、一年Cクラス所属の椎名ひよりと申します。生徒会長の堀北学先輩と書記の(たちばな)(あかね)先輩ですよね?」

 

「ええ、そうです。ご丁寧にありがとうございます」

 

 椎名の挨拶に、橘先輩は好感を持ったようだった。

 そのまま女性陣が話し始めるので、オレたち男性陣も少し話をすることに。

 

「どうだ、綾小路。一学期は楽しめたか?」

 

「どうかな。一番楽しかったのは何も知らなかった最初の一ヶ月だとは思うが」

 

「クラス闘争はどうでも良いという認識。これは変わらないか」

 

「ああ、それはもちろん。上のクラスに行くことに魅力を感じない」

 

 すると生徒会長は面白そうに口元を歪めた。

 

「ほう……それは何故だ? 就職率、進学率ともに100パーセント。この恩恵を得られるのはAクラスだけだが、将来のことを考えると魅力的ではないか?」

 

「あまりそうは思わないな。それにだ、その(うた)い文句は厳密には嘘だろう」

 

「何故そう思う?」

 

 オレは一拍置いてから自分の考えを口にする。

 

「例えばだ。これまで野球に何も興味を持たなかった生徒Aが居るとする。そいつは野球ボールを触ったこともないし、グローブを手に填めたこともない。バットを振ったこともない。仮にこの生徒Aが何らかの切っ掛けで野球選手になることを夢見たとしよう。そして生徒AはAクラスで卒業したとする。それじゃあ、ここで疑問が湧く。この生徒Aは野球選手になれるのか?」

 

 生徒会長はオレの疑問に即答した。

 

「無理だな」

 

 そう断定されたら、分かっていたこととはいえ、面食らってしまったものだ。

 

「綾小路、お前の考えは正しい。就職率、進学率100パーセント。この数字は間違いない。だが、『Aクラスで卒業した』という実績一つだけで夢が叶う筈がない。社会はそんなに甘くないということだ」

 

「なるほどな。つまり学校に出来ることはそいつの望む形に近しい将来を提示することだけということか」

 

「その解釈で間違ってないだろう」

 

 思わず嘆息する。

 全てが『嘘』だと糾弾出来ないのがイヤらしい。

 

「しかし、随分と価値のある情報を教えてくれるんだな」

 

 頭が回る奴だったらこの考えにはすぐに辿り着くが、教師に真偽を尋ねてもはぐらかされるのがオチだろう。

 だが目の前に居るのは高度育成高等学校の(おさ)だ。そして彼と話をする度に感じるのは、絶大な権力。はっきり言って異常だ。

 

「構わない。お前が言い触らすことはないだろう」

 

 確かに言う通りだが、やけにオレを気に掛けるな。

 それは誰もが憧れるような理想的な先輩と後輩の関係……ではないだろう。

 

「綾小路。旅行から帰ってきたらお前と話をしたい」

 

「……それはまた面倒臭そうだな」

 

 渋面を浮かべると、堀北学は薄く笑う。

 

「お前にとってはそうだろうな」

 

「是非とも断りたいものだ」

 

「だが俺にとっても、そしてお前にとっても無関係な話ではない。特にお前たち一年生にとってはな」

 

 また奇妙な言い回しだな。

 オレ個人ではなく、一年生ときた。余程重要な話だと容易に想像出来る。

 

「今ここで話すことは出来ないのか?」

 

「残念ながら。話すことは出来るが、今のお前ではその意味までは完全に理解出来ないだろう」

 

「……分かった。帰ってきたらオレから連絡する。日程はその時に決めたいと思うが、それで良いか?」

 

「ああ、それで頼む。代わりと言ってはなんだが、昼食くらいは奢ろう」

 

 生徒会長に飯を奢らせる一般生徒。これってかなり凄いことだと思うが、タダ飯にありつけるなら遠慮なくそうしよう。

 こちらの話は一段落ついたが、向こうはまだのようだった。

 

「椎名さんは夏服を買いましたか?」

 

「いえ、それがまだなんです。買おうか買わまいか悩んでいるですが……中々決断出来なくて。橘先輩のそれは夏服ですよね?」 

 

 どうやら、制服について話をしているらしい。

 堀北学も橘茜先輩も制服を着用している。恐らく、午前中は学校に行って、生徒会の仕事を行っていたのだろう。

 

「夏休みも生徒会は活動しているのか。大変だな」

 

「そうでもない。それに活動しているのは我々だけではない。大半の運動部は精を尽くしているだろう」

 

「本当は終わっていた筈なんですが、『暴力事件』の関係でいくつかの仕事が残っていたんです」

 

 オレたち一年DクラスとCクラスの所為だということだ。オレと椎名は各クラスを代表して頭を下げた。

 すると橘先輩は慌てたように、

 

「い、いえ! 綾小路くんと椎名さんの所為ではないですから!」

 

「「……」」

 

『暴力事件』を計画したのは龍園で、オレと椎名はそれに加担したんです、とは流石に言えない。

 もう一度頭を下げると、先輩はフォローするようにこう言った。

 

「ええっと……夏休みを利用して生徒会の改装を行う予定でもあったので、本当に、全然、気にしなくて大丈夫ですから!」

 

 そういうことならとオレたちは先輩に甘える。

 事情を知っている生徒会長は、口元がぴくぴくと震えていて、笑いをこらえているようだ。思わず殴りたくなるような顔だったが、ここはグッと我慢する。

 

「お二人はどこか出掛けるんですか?」

 

「ええ、ケヤキモールにちょっと。旅行の準備をしたいと思いまして」

 

「なるほど」

 

「橘、俺たちもそろそろ行こう。これ以上引き留めるのも悪い」

 

「そうですね。それでは綾小路くん、椎名さん。豪華客船、楽しんで来て下さい。お話を聞かせて貰えると尚良いです」

 

 そう言って、彼らは別れの挨拶を口にしてからオレたちが通った道を進んで行った。このまま学生寮に帰るのだろう。

 

「お前はやけに綾小路や椎名を気に掛けるな」

 

「それはもう、可愛い後輩ですから」

 

「後輩なら南雲(なぐも)が居るだろう」

 

「南雲くんは私ではなくて会長に懐いていますからね。そんな彼なら、会長も憂うことなく生徒会長の座を渡せるんじゃないですか?」

 

「……そうだな」 

 

 風に乗り、そのような会話が聞こえてきた。

 先輩たちの背中が小さくなるまで見送ってから、オレは椎名に声を掛ける。

 

「橘先輩、どうだった?」

 

「とても良い先輩だと思います。会長さんのことをとても大切に想っていることが伝わってきました」

 

 それが尊敬からくるものなのか、あるいは恋慕(れんぼ)からくるものなのか。知っているのは橘先輩本人だけだろう。

 雑談をしながら歩くこと数分、オレたちは目的地であるケヤキモールに到着する。モールは想像通り……いやそれ以上に人で混雑していた。

 夏休みに入るのは生徒だけじゃない。学校の敷地内で働いている大人もそうだ。室内は冷房が入っているが、この人の多さだと効いているとはあまり言えないな。

 取り敢えず近くのベンチに腰を下ろす。

 

「何か食べたいのはあるか?」

 

 携帯端末に予めダウンロードされている、モール内のマップを見ながらそう尋ねると、

 

「私は特にありませんね。綾小路くんにお任せします」

 

「そう言われてもな……オレも特に食べたいものがあるわけじゃないから」 

 

 互いに「何でもいい」となると、こういう時に困るよな。椎名は「ふむ」と呟いてから。

 

「昨日、平田くんと来た時はどうしたんですか?」

 

 何故ここで洋介が? と思いつつも、

 

「昨日は……そうだな。冷やし中華を食べたな」

 

 控えめに言って、とても美味しかった。冷めたラーメンだと最初は勝手に思っていたのだが、いざ食べてみると美味かった。

 

「なら綾小路くん。私も冷やし中華が食べたいです」

 

 そう、椎名は主張してきた。

 思わずぱちくりとオレは瞬きしてしまう。

 

「駄目……でしょうか?」

 

「そういうわけじゃないが……」

 

 ただ急に冷やし中華を食べたいと言ってきたので不思議なだけだ。平田に関係しているのか? 

 どうにも今日の椎名は色々と変だな。

 

「ごめんなさい、綾小路くん。やっぱり今の発言は取り消して──」

 

「いや、食べに行こう」

 

 とはいえ、彼女が自己主張するのはとても珍しいことでもある。なら出来るだけそれに応えたいと思う。

 

「で、ですが……二日連続で同じ料理になってしまいます……」

 

「気にしないでくれ。オレももう一度食べたいと思ったからな。それが今日だったということだ」

 

 言いながら、オレは立ち上がる。そして尚も躊躇っている彼女に手を貸して、強引ながらも立って貰う。

 ラーメン店の場所は確か……二階だったか。エレベーターは混んでそうだから、エスカレーターを使うとしよう。

 

「よし、行こう」

 

 椎名は顔を俯かせながらも小さく頷いた。オレは彼女の手を握り直し、人でごった返しているケヤキモールの中を突き進む。

 後ろを見なくても、彼女がそこに居ると分かる。右手から伝わるオレのものではない熱。その温もりが、彼女の存在を教えてくれた。

 オレは思う。

 せめて今だけは、クラス闘争とは無縁で居たいと。

 このささやかな幸福な時間を、オレは────。

 高度育成高等学校一年生が東京を旅立つその前。オレはその日常を噛み締めていた。たとえいつか、彼女と離れることになっても、この記憶は思い出として胸に残り続けるだろう。

 


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