干支試験、三日目。
三日目といっても、今日は試験が行われない休息日。とはいえ、殆どの生徒は試験を終了させているため『休息日』の意味はない。
午前七時丁度に僕は意識を
普段の学校生活はこの時間よりも早いため、贅沢な気持ちになる。長期休暇の良いところは、好きな時間に起きて、好きな時間に寝られるところだと思う。
「ふわぁ……」
軽く
部屋に居るのは僕と綾小路くんの二人だけだった。高円寺くんは朝の肉体美のために、幸村くんは分からないけれど、朝食を食べに行ったのかもしれない。
「熟睡しているなぁ……」
綾小路くんは
話を聞くと、どうやら天体観測をしていたらしい。はたしてそれだけなのか、僕は内心疑問に思ったけれど──親しき仲にも礼儀あり。いくら友人とはいえ不必要にプライベートに首を突っ込むのは失礼だ。
それに……昨夜の綾小路くんは様子が
綾小路
幸村くんと高円寺くんは寝ていたから見ていないけれど、僕は、昨夜に『何か』があったのだと確信している。
とはいえ、綾小路くんから相談をしてこない限りは先程も述べたように僕は何もしないつもりだ。
「さて、着替えるかな」
白を基調とした私服に着替える。これは交際相手である
僕は恋愛面に関しては周りのひとが思っている程成熟していない。むしろその逆、
なので、ケヤキモールで彼女に選んで貰った時は、内心、滝の汗を流していた。あの場に友達が居なくて良かったと心から思っている。特にBクラスの友人である
そんな事を考えていると、近くに置いていた携帯端末が軽く震えた。クラスメイトの
『おはよう、
彼女から誘われるのは初めてだ。
そして提示された場所はカラオケだった。これだけ見ると単純に遊びだと錯覚してしまうけれど、あの堀北さんがこんな事をするわけがない。
誰の目にも触れることなく、話とやらをしたいのだろう。そして恐らく、話題は干支試験のものになるだろう。何を話すのか、興味が湧いた。
『もちろん構わないよ。また後で会おう』
承諾メールを送信すると、すぐに既読が付いた。けれど返信されることはない。綾小路くんから度々聞かされているけれど、堀北さんは随分と無駄を嫌うようだ。
とはいえ、僕と彼女に盛り上がれる共通の話題があるかと聞かれたら、答えに窮するけれど……。
それから二十分後、綾小路くんが起床した。
「……おはよう、洋介」
「おはよう、清隆くん。寝癖ついてるよ」
「……そうか。教えてくれてありがとう」
大きく伸びをした友人は、そのまま脱衣室に姿を晦ませた。
一緒の寝室を使うようになって驚いたことだけれど、彼はかなり寝る。やる事がない時は仮眠をとっていることがとても多い。
「清隆くん、後で朝ご飯食べに行かない?」
「……悪い、水音で聞こえなかった。もう一度言って貰って良いか?」
しまった、完全にタイミングを間違えた。
僕はさっきよりも大きな声で、
「朝ご飯、食べに行こうよ」
「分かった。ちょっと待ってくれ」
数分後、綾小路くんは身嗜みを整えた。
「その服、旅行中に初めて着るよね」
「そうかもしれないな。旅行前に友人に選んで貰って、中々着る機会に恵まれなかったんだ」
「へー! ちなみにその友人って
からかい混じりに聞いてみると、綾小路くんは目を瞬かせた。どうやらその通りのようだ。
「……驚いた。よく分かったな」
「何となくかな。ただ漠然とそう思って」
相変わらずの仲の良さだと僕は感嘆した。
もしかして昨夜も椎名さん絡みなのだろうかと邪推してしまう。
しかし、すぐにこの考えは打ち消した。
普段の学校生活なら兎も角として、いまは特別試験中だ。二人は試験中、徹底的に会わないようにしていることを僕は知っている。
程なくして、綾小路くんは準備を終えたようだ。
「待たせた。それじゃあ行こう」
「うん。あっ、そうだ。何か食べたいものとかある?」
「特にない。ただそうだな……重たい物は遠慮したいところだな」
「それもそうだね。まだ朝だし、胃もたれになったら大変だ」
共に連れ立って廊下を歩いていくと、沢山の生徒とすれ違う。
考えてみると、この休息日は意外にも意味があるのかもしれない。束の間の平穏で、みんなが開放的な気持ちになれたらと思う。
「おはよう、平田!」
「よっす、平田!」
エレベーターに向かう道中、クラスメイトや他のクラスの友達が声を掛けてくれた。
僕はそれに笑顔で応える。
「お前……大変だな……」
一人ひとりに挨拶を返し終わり、エレベーターに乗ると、綾小路くんが畏怖の目で僕を見詰めてきた。
「疲れないか?」
思わず面食らった。
まさかここまで単刀直入に尋ねてくるなんて。
言葉を濁すことは造作もない。いつものように笑顔を浮かべれば良いだけだ。それだけで引いてくれるだろう。
だがしかし、敢えて僕はその選択を取らなかった。
「男の子だけならまだ楽かな」
「……女子たちは苦労するのか、やっぱり」
「苦労……うぅーん、そうかもしれないね……」
より正確に言うと、反応に困る。
多くの生徒が、平田洋介という人間は社交的な人物だと思っているだろう。しかし、それは少しばかり違う。僕は『僕』を演じているだけ。
もちろん、友達が困っていたら助けたいと思う。それは紛れもなく僕が思っていること。でも、その『意思』を『意志』に変えているのは『僕』であって僕じゃない。
あの忌むべき『出来事』を僕は決して忘れていない。あの時の凄惨な光景は決して脳裏から離れない。だから僕は今日も『僕』で居られる。
エレベーターは僕たちを屋上に運んだ。
デッキの人口密度はすっかりと元通りになっている。大型プールが設備されているからか、水着姿の生徒も居るほどだ。
どこか二人で入れる店はないかと探す。
「表は一杯みたいだな」
「そうだね……。裏側に行こうか?」
数こそ少ないけれど、確か数店舗はあったはず。
しかし、綾小路くんは首を横に振った。
「いや、船内で食べよう」
「構わないけど……どうしてだい?」
「中ではあまり食べたことがないから、これを機会に行こうと思ったんだ」
「そういうことなら分かったよ。何店舗か、美味しいご飯を出してくれるところを知っているから、そこのどこかで良い?」
「悪いな」
気にしないで、と僕は言ってから、来た道をもどる。後を追う綾小路くん。
飲食店は一階と屋上に集中している。僕たちが居るのは屋上。上るなら兎も角として、下りるだけなら階段の方が遥かに早い。
この豪華客船では様々な設備が用意されているけれど、それは飲食店も同様だ。
普通の学生ではまず行くことが出来ない超高級レストランがあったり、某有名ハンバーガーチェーン店があったりと、その幅も広い。
本当に、『贅』の限りを尽くしたクルージングだと思う。
ゴミひとつない廊下を歩いていると、僕たちは一人の女子生徒と遭遇した。
「おはよう、
「うん? あっ、平田くんに綾小路くん!」
一年Bクラスを率いているリーダー、一之瀬帆波さんは、「やっほー」と言いながら大きく手を振った。
人気者の彼女の周りにはいつもひとがいるけれど、いまは珍しくも一人のようだ。
「平田くんとこうして会うのは久し振りだね」
「うん、そうだね。会うのは会議の時くらいだし」
「綾小路くんとは二日振りかな?」
「ああ、そうだな」
「私は友達と合流しようとしているんだけど、二人はどこに向かっているの?」
「朝ご飯を食べに、適当な店に入ろうと思ってね」
どこかお勧めはあるかな? と僕が尋ねると、一之瀬さんは両腕を組んで考える仕草をした。
逡巡の後、彼女は携帯端末を取り出すと、一つのPDFを開き、ある一点を指し示した。
「この前
僕と綾小路くんは画面を見て、
「ここは……定食屋かい?」
「そんな店まであるんだな……」
思わず顔を見合わせてしまう。
僕たちの反応が面白かったのか、一之瀬さんはくすくすと笑った。
「提供している料理も幅広くて良いと思うな」
「清隆くん、どうだい?」
「……そうだな、せっかく一之瀬が勧めてくれたんだ。ここにするか」
僕は改めて画面を覗き込む。
例の店がある場所は現在地からは少し遠かった。しかし、お腹の準備をするにはこれくらいでちょうど良いだろう。
「ありがとう、一之瀬さん。早速行ってみるよ」
「うんっ。感想聞かせてね!」
「約束するよ。それじゃあ、僕たちは行くね」
「ばいばーい」
別れの挨拶を交わした直後、一之瀬さんは「あっ、そうだ」と声を上げて。
「ごめん清隆くん。この前の約束なんだけど、ちょっと別の大事な用事が入っちゃって。破棄して貰えないかな?」
「分かった。そういうことなら、また今度にしようか」
「本当にごめんね?」
「気にすることはないさ」
最後に頭を下げてから、今度こそ一之瀬さんは足を動かしていった。
綾小路くんが無言で彼女を見送るなか、僕は内心で驚愕していた。
Dクラスの男子生徒の中で、綾小路くんと仲が一番良いのは自分だと、僕はそう自負している。
だから彼の交友関係もある程度は知っている。そして僕が言うのも何だけれども、彼は男性よりも、女性との繋がりの方が多い。特にここ最近は益々増えているような気がしてならない。
「清隆くん……僕はきみが恐ろしいよ……」
「……? 藪から棒になんだ?」
「いや、何でもない。ごめん失言だった。忘れてくれないかな」
「あ、あぁ……」
困惑を隠しきれないないまま、綾小路くんは曖昧に頷いた。気まずい空気が完全に降りかかる前に、
「そ、それじゃあ行こうか」
僕は咳払いしてから、移動を開始した。
数分後、僕たちは目当ての定食屋──船の中でこの表現が正しいのかは分からないけれど──に辿り着いた。頷き合い、深緑の暖簾が垂れているお店『元祖、お袋の味』に入店する。
「いらっしゃいませ!」
白のエプロンと、白の三角巾を着けている若い女性スタッフがボードを片手に近付いてくる。
すると隣の綾小路くんは半歩下がった。
対応を僕に丸投げする魂胆のようだ。
「お客様、お好きな席にお座り下さい」
失礼にならない程度に店内を見渡す。僕たち以外にお客さんは居ないようだった。
綾小路くんの性格を考えれば、あまり目立たない、つまりは死角の席が妥当かな。
僕も、せっかくの友人との食事の最中に邪魔はされたくないし。
結局、四隅の席を僕たちは陣取ることにした。
「さて……何を選ぼうかな……」
メニュー表を眺め、どれにするか悩んでいると、
「オレはこの豚汁定食にする」
「……決めるの早いね」
綾小路くんが光の速さで即決した。そしてちびちびと烏龍茶を嗜み始める。
「ゆっくり決めて良いぞ」
「お言葉に甘えさせて貰うよ」
いつもは僕が待つ側だから、待たす側は新鮮だ。
「うん、決まったよ。すみません──」
三分ほど掛けて料理を決め、スタッフを呼び、彼女に注文した。
グラスの中が空になりつつあったので、僕は烏龍茶を追加で入れた。「ありがとう」と目で言われたので、僕も、「どういたしまして」と返す。
料理が来るまでの時間、僕たちは取り留めのないことを話す。
そんな折、綾小路くんが気遣ったように言った。
「疲れているようだが……」
「そう、だね……。久し振りにゆっくりしているよ……」
「謝った方が良いか?」
何を? という疑問は湧かない。
僕は首を横に振り、気遣いは無用だと答える。
「いや、謝罪は必要ない。こと今回に限っては、きみは無関係……とまでは行かないけど、少なくとも、当事者ではないからね」
それに元々、そういう『契約』だ。
僕には彼の胸倉を摑むことは出来ない。出来るとしたら、それは──。
「兎にも角にも、事態は泥沼化している」
「洋介はこのままで終わらせる気か?」
「それはつまり、Cクラスの『完全勝利』を許すってことかい?」
無言で頷かれる。
僕は姿勢を整えてから、おもむろに口を開いた。
「代替案がないわけじゃない。一つだけ、そう……一つだけ、僕たちは足掻くことが出来る方法がある」
「やっぱり洋介もその考えに至っているか」
「……でも事実上不可能なことかな」
「どうしてそう思う?」
「問題は二つ。まず、その方法をとる難易度が桁違いだ。次に、仮にその方法がとれたとしても、必ずしも『成果』が出るとは限らない。その逆だってある。むしろ、そっちの方が高い」
「なら、どうする?」
「そうなったら、白旗をあげるしかないだろうね。一学期のクラス闘争の覇者はCクラスだと認めるしかない」
対面している綾小路くんは無表情だ。
彼は内心、何を考えているのだろうか。その思想を僕は知りたい。
だから僕は、誰にも言うつもりがなかった本音を彼に伝える。
「僕は今回、大敗北しても構わないと考えている。それこそ、最下位の成績でも良い」
「それはまたどうしてだ。Dクラスを率いているお前が、どうしてそう言う?」
「勝ち過ぎたからだよ。そしてDクラスの勝因は、全てきみにある。けれどきみはこの先、クラス闘争に参加する気がない。──大局を見据えたら、至極当然のことだと思わないかい?」
「だから一学期最後の特別試験で大敗を喫することで、兜の緒を締めようとしているのか」
「まあ、ね」
Dクラスは一学期の間、良い意味でも悪い意味でも『成長』した。それは必然のこと。何故なら僕たちは殆どのアクシデントに関わってきたのだから。
想定外の出来事を経験した後、人間は器を昇華させることが出来る。
だからこそ、僕はここで『敗北』を味わうべきだと考えている。
これから先のクラス闘争に於いて、将来、僕たちは必ず負ける時が来る。
全勝無敗を夢見るほど、僕は
「お待たせ致しました。豚汁定食のお客様──」
「オレです」
料理が運ばれてきた。
右手に箸を持ち、食事を開始する。
──うん、美味しいね。
舌鼓を打ちながら、僕たちは話を再開する。
「清隆くん。僕には一つ、恐れていることがあるんだ」
「何だ、それは?」
「Dクラスから退学者が出ることだよ」
そう、それこそが僕が最も忌避していることだ。
綾小路くんは黙って傾聴している。
「今はまだ、『敗北』が退学に直結している特別試験は行われていない。でも必ずいつか開かれるはずだ」
「……そうだな。二年生、三年生の現状を考えれば、そう考えるのは妥当なところだろう」
噂によると、上級生のDクラスは、僕たち以上に悲惨な目に遭っているようだ。
クラスポイントも同様で、実質的には0clらしい。それはつまり、彼らが特別試験で敗北してきたことを意味する。そして同時に、生徒の数も少ないようだ。
「退学者が出る特別試験でもし負けたら……それが、プライベートポイントでも避けられないものだったら……。僕は想像しただけで身震いがとまらないんだ」
「お前の言いたいことは分かった。確かに、そういう観点から考えたら、今のうちに負けられる戦いで負けておいた方が良いかもしれないな」
「これが弱気な考えだということはわかっている。僕はそれを阻止する使命がある。でも絶対はない。清隆くん、きみは僕を臆病者だと笑うかい?」
「臆病者だとは思わない。だが守りに入り過ぎてる気がするな」
「でも言っただろう? 唯一無二の抵抗策は、事実上不可能だって。きみは違うと考えるのかい?」
すると綾小路くんは箸を箸置きの上に置いた。皿の上は綺麗に更地になっている。僕も同様だ。
「オレもお前と同じ考えだ。九分九厘不可能だろうな」
「なら──」
「だが洋介、堀北はまだ諦めていないようだぞ」
一瞬、頭の中が空白になった。
「……確かに堀北さんの性格を考えれば、決して諦めようとはしないだろうね。なるほど、確かに盲点だった」
だから僕を呼び出したのだろう。
段々と笑いが込み上げてくる。
そして僕は思う。
『僕』はもう、Dクラスに不必要だと。
結局、僕は『僕』になり切れなかった。坂柳さんは僕を『先導者』と評したけれど、とんでもない。
僕は
「彼女なら出来ると思うかい?」
「さあ、どうだろうな。だが堀北はまだ諦めていない。その事実がある」
僕が考えたのは妥協案でしかなかった。負ける為の口実を作りたかっただけなのだと自覚する。
「なら僕も、堀北さんに期待しようかな」
ひとはひとに期待する。
それは勝手に抱く希望。
自分には無理だと思い、挫折したから期待する。
「ありがとう」
唐突な僕のお礼に、綾小路くんはきょとんと目を瞬かせた。
そして僕には、もう一つ彼にお礼を言うことがある。だから僕はそっちの話題にすり替えた。
「遅くなったけど、軽井沢さんのことも教えてくれてありがとう。ほら、
「本人とは話をしたのか?」
「うん、綾小路くんが教えてくれた直後にね」
軽井沢さんと、Cクラスの女の子たちとの間に起きた確執。
事実確認をすれば、彼女は渋々ながらも自分の非を認めた。しかし、謝ろうとは中々してくれそうにない。とても難解な問題だと思う。
「軽井沢さんについては、僕に一任してくれないかな」
「元々そのつもりだったが……。どうするつもりだ?」
「幸い、『竜』グループの試験は終了している。軽井沢さんと
「らしくないな。いつものお前なら仲裁するだろうに」
「軽井沢さんの彼氏の僕が仲裁に入っても良いことはないからね。それに、女子の間での喧嘩や苛めは、僕たちが想像している以上に闇が深い」
そう言うと、綾小路くんは「そ、そうなのか……」と引いたようだった。
「だから取り敢えずは様子見かな」
「分かった。何か困ったことがあったら遠慮なく相談してくれ」
「その時は頼りにさせて貰うよ」
雑談をした後、僕と綾小路くんはそのまま店で別れた。
「さて、行こうか──」
僕は正義の味方じゃない。
どちらも助ける、そんな綺麗事は成り立たないと知っている。
いや、違う。
あの時──僕は思い知らされた。
脳裏に焼き付いているあの時の光景を、僕は決して忘れない。
だから僕は、きっといつまでも己の『原罪』に囚われ続けるのだろう。