ようこそ事なかれ主義者の教室へ   作:Sakiru

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第44話

 

 特別試験六日目、八月六日の早朝。

 規定の時間になったので、洋介の身体を揺らす。

 

「……おはよう、清隆(きよたか)くん」

 

「ああ、おはよう」

 

「それじゃあ、行こうか」

 

 洋介が身嗜(みだしな)みを整えるのを待ち、オレたちは寝室から出る。すると彼は懐疑的な声を出した。

 

「昨夜は雨でも降ったのかな……?」

 

「だろうな」

 

 じめじめとした()し暑さ。さらには、地面を見れば水溜(みずた)まりやぬかるんだ場所が見受けられる。

 昨日までとは別の景観なのだから、驚くのも無理からぬことだろう。

 空を見上げると、見渡す限りが灰色に(いろど)られている。陽の光が分厚い雲を通り抜ける(すべ)はなさそうだった。

 実質的には、無人島生活は今日が最終日だと判断して問題ないだろう。明日は朝の点呼が終わりしだい、辺りの片付けで(いそが)しくなり、その後はすぐに浜辺に集合することになっているからだ。

 そして一年生全員が揃ったところで──脱落者は豪華客船の一室に集められるが──、特別試験の結果が発表される。

 

「最悪の天候だね……」

 

「恐らく……というか、絶対に雨が降るだろう。小雨(こさめ)なのを祈りたいが……」

 

 大雨になったら、ベースキャンプは甚大(じんだい)な被害を受けるだろう。

 テントの出入り口には、幸村(ゆきむら)三宅(みやけ)が立っていた。顔が浮かないのは気の所為(せい)ではないだろう。そんな彼らにオレたちは声を掛けた。

 

「「おはよう、二人とも」」

 

「「……おはよう」」

 

 朝の挨拶を簡潔に終わらせ、オレたちは早速とばかりに本題に入る。

 

「そうか……次の当番は平田(ひらた)と綾小路だったのか」

 

「うん。二人ともお疲れ様。何か『異常』はあったかい?」

 

「いや、何一つとして問題はなかった」

 

 幸村が力強く断言する。とても頼もしいな。

 そして彼は顔色を変えて空を睨む。

 

「くそっ……! まさか雨が降るなんて……!」

 

「さっき、川を見てきたが……駄目だな。とてもじゃないが釣りは出来ないだろう。水源の確保は頑張れば出来るだろうが……それも危ういかもな」

 

 水位が上がり、水嵩(みずかさ)が増しているのだろう。

 川の水流の流れが速くなり、下手に近付けば危険だ。巻き込まれてしまうかもしれない。その辺は生徒たちが全員起きたら情報を共有する必要があるだろうな。

 

「さっきはトイレに間に合って良かったな」

 

「ああ。危なかったけどな」

 

 すると三宅は納得したようだった。それから体調を気遣われる。

 そしてオレたちは話し合いを少しした。

 話を聞き終えた洋介は彼らの不安を取り(のぞ)くように殊更(ことさら)明るい笑顔を浮かべて二人を(ねぎら)った。

 

「改めてお疲れ様。あとの見張り番は僕たちに任せて、二人は疲れた身体を休めて欲しい」

 

 見張り番というのは、昨日、生徒たちが考えた抑止力の一つだ。下着泥棒の犯人が愉快犯にしろ、そうではないにしろ、これ以上、被害者を出してはならない。男女の共通認識として、昼夜を問わず、仮設テントの周りを監視するようになった。当然ながら、男子テントは男性が、女子テントは女性がだ。

 さらに抑止力の一つとして、男子テントと女子テントの場所の距離を離した。

 そして次の番がオレと洋介の二人だった。

 

「ああ、頼んだぞ平田。これ以上、犯罪者を出すわけにはいかないからな」

 

「俺と幸村は寝るから、朝の点呼の時間になったら起こしてくれると助かる」

 

「分かった。それじゃあね」

 

 洋介はにこやかに笑いながら、仮設テントの奥に入っていくクラスメイトを見送った。

 次の瞬間、彼の柔和な笑みはまるで嘘のように消え失せる。

 

「洋介……お前、大丈夫か?」

 

 オレが尋ねると、洋介は乾いた笑みを無理矢理張り付かせ──それから、やはり、()(かえ)る。

 

「正直なところ、外面を整えるので精一杯かな」

 

「……そうか……」

 

「ほんと、情けない限りだよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だからこそ、(いけ)くんを助けることが出来なかった。ましてや交際相手(軽井沢さん)すらもね」

 

「それは仕方がないんじゃないか。あの状況じゃ、出来ることなんてたかが知れてるだろ」

 

 オレの冷静な指摘に、けれど彼は気色を浮かべることはなかった。それどころか益々顔を(くも)らせて押し黙ってしまう。

 オレはそんな様子の洋介を見ながら考え始める。

 (かつ)て述べたように、平田洋介は善人である。

 困っている人間がいたら自分の損得なんてものは考慮せずに、気付けば体が動いていた、結果的に手を差し伸べていたというタイプだろう。

 一之瀬(いちのせ)帆波(ほなみ)程では流石にないが、現代社会でこのような行動を取れる人間は珍しいものだと思う。

 問題があるとしたらそれは──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 オレが思考に(ふけ)っていると、ぽつぽつと、彼は言葉を紡いだ。

 

「……僕はね、清隆くん。全ての人間を救えるとは到底思っていない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。違うかな……?」

 

「極論だが正解だろう。ひと一人で出来ることには限界がある」

 

「だから僕は、今の『僕』になった。せめて大切な人は──助けたいと。そう、思ったんだ……」

 

「思った、か……。今は違うのか?」

 

「……どうだろうね……。僕にも分からないよ」

 

 洋介はそう言って、自虐(じぎゃく)の笑みを張り付かせた。

 オレは彼の肩を軽く叩き、

 

「兎に角、まずは仕事を全うするか」

 

「ああ……、うん。そうだね……」

 

 ベースキャンプを軽く一周して──もちろん、女子テントには一切近付かない──、異常がないかを確認する。そして元の場所に戻った。洋介の歩幅はとても小さくて、時間が掛かってしまったが……仕方ないだろう。

 池寛治(かんじ)という容疑者が生贄として差し出されなかったら、まだ洋介は機能していたかもしれない。だが現実はこれで、仮定の話をしたところで意味はなさない。

 ここで彼を慰めるのは簡単だ。このように言えば良い。

 

 

 

 ──『お前は良くやっている』

 ──『お前が気に病むことじゃない』

 

 

 

 だがしかし、それは問題の先送りでしかない。

 それに──()()()()()()()()()()()()()

 オレは、再度、灰色に塗られたキャンパスを見上げた。

 

「大雨を覚悟した方が良いだろうな」

 

「……やるべき事が多くあるね……」

 

 改めて話題を振るが返ってきた言葉はとても弱々しかった。

 兎にも角にも、打ち込んだペグの再確認や、釣りが出来ない状況でどのように食料を得るのか、雨が降り出したらどのように対処するのかなど、今日は慌ただしくなるだろう。

 しかし今のDクラスにそれだけの『力』があるだろうかと聞かれたら……オレは首を横に振らざるを得ない。

 軽井沢の下着が盗まれたことなんて、皆、内心はどうでも良く思っている。いや、もちろん中にはそうじゃない人間も居るだろう。だがそれはごく少数だ。

 特別試験へのフラストレーション。これまでつとめて意識しないようにしてきた、胸の内に抱えてきたもの。その限界を事件が引き金となって突破したに過ぎない。ただそれだけのこと。

 

「洋介」

 

 声を掛け、反応が返ってくるまでに数秒を要した。

 

「……何だい、清隆くん……」

 

「あの日……お前がオレの部屋を初めて訪ねて来た時、オレたちは約束したことがある。それを覚えているか」

 

「もちろんだよ。きみは僕のために手を貸し、僕は()()()()に手を貸す。お互いに利用し合う」

 

「ああ。だからオレは、『契約』に基づきお前に協力する。たとえお前が『勝つ』ことを諦めていたとしてもな」

 

 平田洋介の意志なんてものは関係ない。

 すると案の定、彼は血相を変えて否定してきた。

 

「……諦めているわけじゃない。僕は────!」

 

「いいや、お前は諦めている。Dクラスをどうしたら維持出来るかだけを考えている」

 

「……ッ! ……それのどこが悪いんだい!?」

 

「悪くはない。それも作戦の一つだ。けど今それを選んだら、お前は近いうちに必ず後悔する」

 

「そんなの分からないじゃないか……ッ!」

 

()()()()()()()()。仮にDクラスがかろうじて原型を取り留めたとしても、それは九死に一生を得ただけに過ぎない。同じことを繰り返すだけだ」

 

 再生と崩壊を永遠に繰り返す。そのうち再生は崩壊に追い付かなくなり、いずれ、跡形もなく消滅するだろう。

 オレは先導者に滔々と語り掛ける。

 

「落ち着くんだ。『勝つ』ためのピースは既に所持している。あとは慌てることなく当て()めれば良い。それに、お前が全部を抱え込まなくても良いんだ。もっと仲間を信じたらどうだ?」

 

「仲間を……信じる?」

 

「ああ。さっきも言ったが、ひと一人で出来ることなんてたかが知れてる。人間にはどうしても向き不向きがあるからな。どうしても自分一人じゃ(あらが)えないと思ったなら、仲間を頼れば良い」

 

 人間なのだから、迷ったりもするし(つまず)きもする。時には転倒することもあるだろう。

 それは悪いことじゃない。

 周りにいる人間が手を差し伸べれば良いだけの話。簡単なことだ。

 

「困ったな……まさか清隆くんからその言葉が贈られるとはね。きみは……どうしてそんなにも冷静に物事を視ることが出来るんだい?」

 

 畏怖の視線が送られてくる。

 

「さあ、どうしてだろうな」

 

「……清隆くんは凄いね。思わず憧憬(しょうけい)してしまうよ。けれど同時に、僕はきみが恐ろしい。前々から感じてはいたけどね」

 

 徐々に瞳に焔が燃え上がっていく。

 オレは簡潔に先導者に問い掛けた。

 

「覚悟は出来たか?」

 

「──覚悟なんて大層なものはまだ形成されていない。けれど、僕は僕に出来ること……為すべきことを為すよ」

 

「それで良い。お前のおかげで王手を指すことが出来た。完全決着(チェック・メイト)は──『勝利』は目前だ」

 

 片手を差し伸べると、彼は迷うことなく摑んだ。

 

 

 

§

 

 

 

 朝の点呼の時間になり、Dクラスの生徒全員が起床する。男子の溝は未だに埋まっていなかったが、男子たちはあることに気付く。

 

「女子たち、様子がおかしくね……?」

 

「は? 何がだ?」

 

「いや……何て言うのかな……、そわそわしているというか」

 

「どこがだよ」

 

「そっちじゃねえよ。あっち……軽井沢が居る方だ」

 

 当事者たちに聞かれないよう、男子生徒たちはひそひそと小声で話す。

 彼らが言っている違和感の正体は、主に軽井沢……の従者二人──名前は確か……園田(そのだ)石倉(いしくら)だったか──だった。いや、彼女たちだけじゃない。櫛田(くしだ)も彼女たち程ではないが、動揺をしていた。さらには篠原や佐藤も狼狽している。そして皆、軽井沢を気にしていた。昨日の件があるにしても、過剰に見られる。

 

「何かあったのか?」

 

「さあ? って言うか、あいつらに共通点とか特になくね?」

 

「──こほん。それでは六日目の点呼を始める。名前を呼ばれたらしっかりと返事をするように。一番、綾小路(あやのこうじ)清隆」

 

「はい」

 

「二番、池寛治────」

 

 担任が手早く点呼を終わらせると、皆が散らばる前に、先導者が声を張り上げた。

 

「実質的には今日で特別試験も終わりだ。みんな、頑張ろう!」

 

「「「……おお──!」」」

 

 先導者の鼓舞に、呼応する生徒たち。

 空元気なのが明白だ。しかしそれで良い。ここまで来たら気力で乗り切るしかないだろう。

 

「見ての通り、今日は空が荒れ模様だ。昨夜雨が降った影響か、川も荒れている。とてもじゃないけど釣りは出来そうにない」

 

「じゃあ、森の中から採るか、非常食を注文するしかないってことか」

 

「うん。さらには、いつ雨が降るか分からない。『スポット』の更新は近場だけのものにしたいと思う。どうだろうか」

 

 これにはポイント保持派も容認する。

 利益を求め続けたら災いとなって降り掛かるものだと理解しているからだろう。

 

「やるべき事は沢山ある。皆、昨日のことは一旦置いて、協力しなければならない。分かってくれるかな」

 

 男子生徒は女子生徒を。女子生徒は男子生徒を。お互い、顔を見合わせる。

 昨日あれだけ激しく争ったのに、今更手を取り合うことが出来るのか……? と、彼らの顔には書いてあった。

 何とも言えない空気が流れる中、一つの声が投下された。

 

 

 

「──平田くんにさんせー」

 

 

 

 状況にそぐわぬ間延びた声。

 オレたちは一斉に声主の方に視線を向ける。

 そこに立っていたのは軽井沢(かるいざわ)だった。昨日は一日中仮設テントの中で涙を流していた彼女が、皆の前で発言をしてこなかった彼女が、初めて声を出した。

 一番驚愕したのは、先程の女子生徒たちだった。園田や石倉が「恵ちゃん!?」と言い、篠原も「軽井沢さん!?」と言う。事情を何も知らない生徒たちからすれば、彼女たちの反応が大袈裟に見えてしょうがない。

 だが軽井沢は彼女たちの言葉に反応せず、さらには、降り注いでくる数々の視線にも物怖じすることなく、それどころか、一歩足を踏み出して、ある人物の名を呼んだ。

 

「池くん、話があるんだけど」

 

 話が振られた池は隅の方に居た。近くに居るのは沖谷(おきたに)山内(やまうち)(けん)の三人だけ。

 男子の領域には居ることが(ゆる)されているが、かと言って、沖谷たち以外の者が彼に話し掛けることはオレが知る限りではなかった。

 

「……軽井沢……」

 

 普段の快活さは見る影もない。

 軽井沢とは対照的に一歩後退る池を見て、女子生徒の何人かが嘲笑した。情けないとでも思っているのだろう。とても陰湿だな。

 そんな一部の女子たちに健が(すご)む。

 

「てめぇら、良い加減に……!」

 

「「「ヒッ……!」」」

 

「チッ」

 

 情けなく悲鳴を上げる小物に、彼は苛立ち混じりに舌打ちを一つ打った。

 これまで彼は良く堪えてきたと思う。

 己を(りっ)し、暴力での強引な解決を未然に防いできた。しかし友人の悲惨(ひさん)な現状、さらには、見下してくる女子生徒たちに自制が利かなくなり、元々、そこまで高くなかった沸点を超えてしまった。

 しかしそんな彼を諌めたのは他ならない池だった。肩に手を置き、

 

「健、やめてくれよ。気持ちだけで良いからさ」

 

「けどよ寛治! 流石にこれはイラつくぜ!」

 

「……良いんだよ。全部、俺の自業自得なんだからさ」

 

「寛治くん……」

 

京介(きょうすけ)もサンキューな。春樹(はるき)もだぜ? お前らが居なかったら、俺は──」

 

 言葉を区切り、彼は小さな笑みを零した。

 そして池は普段の彼からは想像がつかない程の真剣な表情を浮かべ、一歩、二歩と軽井沢に足を向ける。

 そして男子と女子の領域の境界線、ぎりぎりの所で立ち止まった。

 

「話があるんだろ? 待たせたな、軽井沢」

 

「ほんとそれ。茶番劇? って言うの? 見ていて退屈だったしー」

 

 前髪を右手で弄りながら、クラスの女王は玉座から降り立った。

 全員が固唾を飲んで見守る中、口火を切ったのは池だった。

 

「それで軽井沢、話って何だよ?」

 

「あれ、もしかして分かんない? 池くんってやっぱ馬鹿だねー」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ー」

 

「あははは、何それ、おもしろーい」

 

 緊張感の欠片もないやり取りに野次馬は唖然とするしかなかった。口を半開きにするしかない。

 どちらとも自然な笑みを携え、取り留めのない会話を続けていく。

 本題に入ったのはおよそ五分後のことだった。

 

「それでさー、池くん──あたしの下着、盗んだの?」

 

 トーンが二段階程下がる。

 底冷えた声音に、大勢の生徒が震えた。

 クラスのカースト制度、その頂点に位置する者、それが軽井沢恵だ。

 特別試験が開始される前までオレは、何故、軽井沢(けい)が君臨出来ているのか甚だ疑問だった。

 他にも候補者は居たはずだ。彼女たちを押し退ける『力』がなければ、玉座に座ることは赦されない。

 だがこの六日間で否応なく理解させられた。軽井沢恵には他者を従えるだけの確かな『力』がある。

 

「どうなるんだよ、これ……」

 

 呟き、そして誰かがごくりと生唾(なまつば)を飲み込む音が聞こえた気がした。それだけ場は緊迫している。

 

「平田や堀北(ほりきた)はどうしてとめないんだ……?」

 

 洋介や堀北は静観を貫くことを決めていた。ここで部外者が口を挟んだら話がごちゃ混ぜになってしまうし、何よりも、これは避けて通れないものだからだ。

 

 それがたとえ『悲劇』を呼び起こす可能性があると分かっていても。

 

 オレはちらりと隅の方に居る伊吹(いぶき)を見る。表情からは彼女が何を考え、そして思っているのかは分かりそうになかった。彼女が送られてくる視線を感じる前に、オレは視線を外して元の場所に戻した。

 池の緊張度合いは想像すら絶するだろう。何せこれは『裁判』なのだから。

 容疑者がどれだけ無実を訴えたところで、裁判官は女王だ。三権分立なんてものはカースト制度には当て嵌らない。つまり、彼女の如何によっては──『死刑』が言い渡される。そうなれば池寛治の高校生活は幕を閉じる。楽しい学校生活は永遠に訪れず、彼は近いうちに学校を去るだろう。

 そんな予感──いや、確信がオレたちにはある。

 生と死の瀬戸際に彼は立っている。やがて、咎人は重たい口を開け──

 

「俺はやっていない、無実だ!」

 

 ──澱みなく言い切った。

 瞬間、完全な空白の時間が舞台を包む。

 軽井沢は値踏みするかのように、囚人を上から下までじろじろと見る。一秒がとても長く感じる。

 やがて、彼女はおもむろに両腕を胸の上で組みながら、

 

「ふぅーん。けどさ、信じられるわけがないよね。だって池くんだし。あたし知ってるから。水泳の授業が始まった時に、池くんや山内くんが中心となって、くだらない事をしていたことをさ」

 

 ぎくりと反応したのは、名前を呼ばれた山内だった。まさか自分が議題に挙げられるとは思っていなかったのだろう、冷や汗をかく。

『くだらない事』とは、男子たちの一部で行われていた賭けのことを指しているのだろう。内容は、Dクラスの女子生徒の中で誰が一番胸が大きいかというものだった。

 

「山内くんだけじゃないから。外村(そとむら)くんや本堂(ほんどう)くんもやっていたよね。もっと知ってるから」

 

 恐ろしい程に軽井沢の指摘は的中していた。

 Dクラスという小さなコミュニティなら、軽井沢恵の情報力は櫛田(くしだ)桔梗(ききょう)をも(しの)ぐかもしれない。

 

「つまりさ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? 常日頃から馬鹿みたいな発言ばかりしているひとのことを? ねぇ池くん、どうなの?」

 

「……ッ!」

 

「黙ってちゃ何も分からないし」

 

 軽井沢の口調は責めているものではなかった。ただ残酷なまでに客観的視点から告げている。

 平生からは考え付かない程の冷静さだ。何か要因があったのだろうか。

 自然と池は顔を俯かせていた。これまでの褒められたものではない悪行が、面と向かって糾弾される。そのダメージは並大抵の傷じゃない。

 沖谷が堪らなくなってなけなしの勇気を振り絞り飛び出そうとした瞬間、

 

 

 

「──それでも」

 

 

 

 不意に沈黙が破られた。

 小さな、けれど、確かな意志を感じさせる音。

 声主の少年は、境界線を踏み抜き、領域に入る。

 顔を上げ、彼は叫んだ。

 

「それでも、俺はお前の下着を盗んでない!」

 

「今なら特別に、罪を認めれば赦してあげるって言っても?」

 

「ああ!」

 

 他者を圧倒させる覇気。池の心からの咆哮(ほうこう)に多くの生徒が気圧された。

 軽井沢は口を三日月型に歪め、

 

「へぇー……。──なら、信じてあげる」

 

 あっけらかんと、そう、言った。

 言葉の意味を理解するのに、皆、数秒の時間を必要とした。

 

「「「…………は?」」」

 

 ()しくもそれは、クラスの皆の心が一つになった間抜けな感嘆詞だった。

 呆然とする生徒たち。

 最初に我を取り戻した篠原(しのはら)が、どういう事だと女王に問い質す。

 

「か、軽井沢さん!? 池くんを赦すって──!?」

 

「いや、だからさ。本人が違うって断言している以上、疑うのは可哀想かなって思ってさ」

 

「可哀想って……被害者は軽井沢さんなんだよ!?」

 

「そうなんだけどさ。下着を盗まれたのはショックだったし泣いたけど……恨まれるような事をあたしもしてきたんだしね。──五月に借りたプライベートポイントは利子付きで早いうちから返させて貰うから、皆、それで許してくれないかな?」

 

 篠原から視線を外し、そう言って、王美雨(みーちゃん)や他の女子たちに懇願する。

 

「私はそれで大丈夫だよ」

 

「みーちゃんがそう言うなら、私も……」

 

「あたしも大丈夫、です……」

 

「ありがと」

 

 見事にお辞儀する。

 やれやれと軽井沢は神妙な面持ちで静観している堀北が居る方向を一瞥した。彼女たちの視線が、一瞬、交錯する。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。肩を竦め、

 

「つまりさ、お互い様ってこと。ならさ、これ以上ぐたぐた言っても仕方ないじゃん」

 

「お前……それで良いのかよ?」

 

「良いわけないじゃん。けど仕方がないから、妥協してあげる」

 

 傲慢にも女王は沙汰を下した。

 戸惑う池に、彼女は勝気な笑みを浮かべて、

 

「それに池くんとは二学期の中間テストで勝負する約束をしているしね。まあ? 結果は見なくても分かるけど?」

 

 そう、挑発した。

 大半の生徒が何で今どうでも良い話を? と困惑する中、オレは心の中で舌を巻いていた。

 既にクラスは女王の術中に嵌っている。

 そしてオレが分かって、Dクラス屈指のコミュニケーションの塊の男が、気付かないはずがなかった。

 彼もまた勝気な笑みを浮かべて、

 

「おいおい。勝手に勝負の結末を決めるなよな。ヘヘッ、ほんと、『負け犬ほどよく吠える』よな!」

 

「「「……」」」

 

「え? あれ? 何だよお前ら、その微妙な顔は? もしかしてお前ら……知らないのか?」

 

「「「…………」」」

 

 池は狼狽(うろた)えながらクラスメイトを見渡すが、誰も目を合わせようとしなかった。

 そして皆の視線が彼の『先生』に収束する。

 堀北は憂鬱(ゆううつ)そうにしていたが、これは避けて通れないと判断したのだろう、長く、そして重たいため息を吐きながら、自身の『生徒』に辛辣な言葉を浴びせる。

 

「正解は『弱い犬ほどよく吠える』よ、池くん。それと、その言葉はこの場に於いては誤用よ」

 

『弱い犬ほどよく吠える』とは力のない犬ほど相手を威嚇すること。

 池と軽井沢の学力はどっこいどっこいだと思われるので正しくないだろう。少なくともつい数秒前までは、だが……。

 羞恥で顔を真っ赤に染める池に、軽井沢は手で指しながら大声で笑った。

 

「あははは! チョーウケるんですけど! うんうん、そうだよね。『弱い犬ほどよく吠える』!」

 

「く、くそぅ……! ほ、ほりえもーん!」

 

 生徒が縋り付いたが、先生は華麗に無視した。

 

「それじゃあ、そろそろ本格的に動きましょう。だいぶ時間を使ってしまったわ」

 

「「「はーい!」」」

 

 こうして呆気なく、池に対する断罪は終わりを迎えたのだった。

 同時に、男女の溝も各地で埋まったようだった。もちろん、中にはこの状況が気に食わない、不服な生徒も居るだろう。

 しかし、ここで一応は解決した問題を蒸し返す愚行をしたら、叩かれるのは目に見えている。

 

「ほんと、凄いな……」

 

 女王の手腕は見事なものだった。業火の波をわずかな時間で鎮圧させるなんて普通のことじゃない。

 その普通じゃないことを普通のように気負うことなく実行してみせるのだから、恐ろしいものだ。

 友人と何やら話している彼女を遠目で眺めていると、洋介が近付いてきた。

 

「きみの言う通りだったね」

 

「何がだ……?」

 

「仲間を頼るってことだよ。ありがとう、清隆くん。僕はまた同じ過ちを犯すところだった」

 

「礼を言われることじゃない。それにそれは、お前の彼女に言うことだろ」

 

 ところが、先導者は微笑んで首を横に振った。

 

「そうだね。けど清隆くん、僕はそこまで馬鹿じゃないよ」

 

「何の話だ」

 

「きみが軽井沢さんに働き掛けたんだよね?」

 

「オレと彼女が話す機会なんて一度もなかったぞ」

 

「うん、僕もその点は疑っていない。けどそれは清隆くんに限った話だ。女の子たちの誰かに、軽井沢さんを説得させたんじゃないのかな」

 

「洋介の推測が正しいとして、お前は誰がその役目を担ったと考えている?」

 

「堀北さんか、櫛田さんかな」

 

 やはりというか、真っ先に挙げられたのはその二人だった。

 オレが日頃から仲良くしていて、かつ、任務を全う出来る者と言えばそれくらいだろうという、明確な根拠が洋介にはあるのだろう。

 

「あるいは、今朝。きみはトイレに行ったと言っていたけれど、それは嘘なんじゃないのかい。何かしていたんじゃないのかい」

 

 洋介はオレの返事を待たず、言葉を続ける。

 

「きみが常に冷静なのは、未来予測にも似たものがあるからなんだろうね。清隆くん、きみの中ではもう特別試験は終わっているんじゃないのかい」

 

「そんなことはない」

 

 詰みまで『相手』を追い込んだとはいえ、まだまだ不確定要素がある。

 その不確定要素を無くすため、今から動くわけだが。

 

「洋介。オレは今からベースキャンプを離れる。あとは任せても良いか」

 

「分かった。クラスのことは僕に任せて、きみは、きみが為すべきことを為して欲しい。雨がいつ降るか分からないから、気を付けて」

 

「ああ」

 

 先導者と別れたオレは、一旦仮設テントに戻った。正確にはその出入り口付近に置かれている、荷物置き場だ。

 雨に備えるため、Dクラスの生徒たちは慌ただしく動き始めていた。つまり、それだけひとの目が拡散するということ。

 昨日茶柱に注文した物をスクールバッグから取り出すと、オレはそれをジャージのズボンの右ポケットの中にしっかりと入れた。左ポケットには無人島の地図を忍ばせる。

 ベースキャンプをあとにしようとするオレを、呼び止める者が居た。

 

「待って」

 

「どうかしたか、伊吹」

 

 立ち止まり、顔だけ振り向かせる。

 伊吹は堀北に似た無愛想な顔だった。表情からはとてもじゃないが内心を推測することは出来ないだろう。

 声が聞こえるか聞こえない場所で、松下(まつした)が様子を見守っていた。どうやら現在の伊吹の監視役は彼女らしい。

 

「一人でどこに行くつもり?」

 

「Bクラスのベースキャンプだが」

 

「嘘でしょ」

 

「嘘じゃない」

 

「今回の特別試験、DクラスとBクラスは同盟関係にあるらしいけど、それは五日目までのはず」

 

 他クラスの人間を匿っている以上、内部の情報を完全に秘匿することは不可能に近い。

 クラス全体での話し合いの時は、極力、伊吹には席を外して貰っていたが、それも万能ではないか。

 

「それはポイントの消費についてだ。何かあれば情報は共有するべきだろう。Bクラスは仮設テントとハンモックを使っているから、屋根がなくて困っているはずだ。何か力になれるかもしれないだろ」

 

 仮設テントは防水仕様だが、ハンモックはそうじゃないはずだ。どんなに木陰の下に設置したところで、とてもではないが降り注ぐ槍を防げないだろうと、一之瀬は言っていた。

 昨夜に一度雨が降っていることは一目瞭然で、今頃Bクラスは壊滅的な被害を受けているかもしれない。

 

「もう行って良いか。時間が惜しいからな」

 

「待って。もう一つ聞きたいことがある」

 

「簡潔に済ましてくれると助かる」

 

 顔だけじゃなく、身体全体を振り向かせ伊吹と向き合う。

 オレが目で催促すると、彼女は問い掛けてきた。

 

「さっきのあれで、あいつ──池だったか──に対する扱いは多少なりとも和らぐだろうな」

 

「同感だ。皆の前であれだけの宣言が出来るのは凄いことだろう」

 

「けど、軽井沢の下着が盗まれたことに変わりはない。()()()()()()()()()()()。違う?」

 

 ここで初めてオレは、伊吹から人間らしい感情を感じた。

 なるほど、少なくとも『今の伊吹澪』と『Dクラスに保護された伊吹澪』は似て非なる存在のようだ。

 

「お前の言う通りだとして、じゃあ、誰が生贄とやらに傀儡(くぐつ)される?」

 

「決まってるだろ。余所者(よそもの)の私だ」

 

「それは仕方がないことだろう」

 

 至極当然のことだ。

 堀北や一部の女子生徒、男子のほぼ全員が伊吹に疑惑の目を向けている。

 女王の軽井沢が池を信じると言った以上、次に疑われるのは他クラスの人間になるだろう。

 

「綾小路、お前も私を疑っているのか?」

 

「どうかな……半信半疑といったところだ」

 

 適当にはぐらかそうと試みるが、伊吹の追及からは逃れられそうになかった。

 嘆息してから上辺の回答を口にする。

 

「あまり面と向かっては言いたくないが、他クラスのお前を怪しんでいるのは事実だ。けど伊吹は椎名(しいな)の友達だろう。せっかくあいつに友達が出来たんだ、そのお前を疑いたくはない」

 

「だから半信半疑、か……」

 

「優柔不断だと笑っても良いぞ」

 

 ところが彼女は目を見開かせて驚いているようだった。

 オレの言葉を頭の中で反芻(はんすう)しているのだろう。

 やがて、彼女はオレの瞳を直視して言った。

 

「……ありがと。まさかそんな風に言って貰えるとは思ってなかった」

 

「気にすることじゃない。もう行って良いか?」

 

「ああ。時間を取らせて悪かったな」

 

 オレは彼女と別れ、そのままベースキャンプをあとにする。

 今しがたの会話はもちろん全て嘘だ。

 オレは伊吹が下着泥棒の犯人だと確信している。同時に『スパイ』であり、彼女の『狙い』も既知している。

 伊吹(みお)の『狙い』とはすなわち、Cクラスの『王』──龍園(りゅうえん)(かける)の『狙い』だということだ。

 今度奴と会ったら、彼女は『スパイ』に向かないことを教えるとしよう。

 そう、伊吹澪は致命的までに『スパイ』としては役に立たない。

 あるいは──龍園はそれを知っていて、敢えて、その命令を下したのかもしれないな。

 

「行くか……」

 

 誰も居ないことを確認してから、オレは修得した技術を用いて木登りした。

 数秒後、目線が大きく変動し、視界に映る景色が様変わりする。木の枝は少し濡れていて滑るが、行動に支障を来す程のものではないと判断する。

 足を空間に踏み入れようとした瞬間、頭上から一筋の光が射し込む。突然の刺激に思わず目を細めてしまう。

 右手を(かざ)しながら顔を見上げた。幾重にも重なった雲が奇跡的にも間隙をつくり、そこから陽の光が漏れだしている。

 とはいえ、これは限定的なもの。雨が降る条件は整っている。

 オレは表情を引き締め、今度こそ、空間移動を開始した。

 


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