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この作品「きみがひこうき雲をなぞる 上」は「夏休み」「小説」等のタグがつけられた作品です。
きみがひこうき雲をなぞる 上/系の小説

きみがひこうき雲をなぞる 上

14,184 文字(読了目安: 28分)

すぐ泣いてしまう中学生が、夏休みに母から「妹がいる」と打ち明けられる話です。
臓器移植と障害に関する不快になりうる表現が含まれます。

2021年8月2日 10:29
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 これは、分子。いまわたしの脳を駆け巡っているのは、水素原子や、炭素原子や、酸素原子なんかがつながったもの。それをもっとばらせば太陽系と相似の構造を持った原子核や電子。ただの物質。その物質を走るのはただの色のない、無味乾燥な電気信号でしかない。だから、こんな思いも、感情も、無意味。
 わたしは自分に言い聞かせました。いままで何度も試みた方法でした。はじめはかなしくなんかないと言い聞かせ、それが効かないから放課後のことや空を飛ぶ魚のことを夢想しようとし、それでも足りないのでこう考えることにしていました。けれどいつだってわたしのすることは効果がなく、下まぶたの堤防をこえて、ぽろ、ぽろとなみだがあふれ出ました。
「うん、サトリさんもういいですよ。かわりに明石さん、問2は?」
「はい」
 背筋ののびるような返事をして、明石さんは立ち上がります。
 ひきかえにわたしはぺたんと椅子に座りました。空調の効いた教室の中で、むっとする暑さの外の空気みたいな息を吐き、なるべく音を立てないように洟をかみました。耳の先と目じりが熱く、真っ赤になっているんじゃないかと思いました。だれかの舌打ちが聞こえた気がしました。うつむいたまま、明石さんがのぼった教壇がギッギッときしむ音と、チョークが黒板をたたく軽やかな音を聞きました。

 授業のあとホームルームが終わるとすぐ、わたしはリュックサックに教科書やペンケースを詰めこんで、教室から逃げ出しました。坊主頭の野球部員とすれ違い、連れ立って歩く合唱部員たちともすれ違いました。みんな部活です、わたし以外は。わたしは障害があるので部活を特別に免除されていました。息苦しく、密閉された校舎から、あの炎天下に早く吐き出されたいと感じました。校舎にとってわたしは異物でしたから。けれど靴をスニーカーに履き替えて太陽のもとに出ると、息苦しさはかえってつのるようでした。わたしの影が黒々と灼けつくアスファルトの上に落ちていました。 
 校門を抜けると、擁壁のわきに青い軽自動車が停まっていました。母の車だとすぐ気づいて、それから今日は病院の日だと思い出しました。のろのろせずにすぐ教室を出てきてよかったと思いました。

 母は少し機嫌が悪いようで、あまりしゃべりませんでした。でも運転は荒くなかったのでほっとしました。いつものとおり高速に乗り、ぐんぐんスピードを上げていきます。軽自動車もうなりを上げます。それでもどんどん越されていきます。
 窓の外を見ていると、見たことのない花が木に巻き付いていたので、母に話しかけたくなりました。けれど車内の空気がピリピリしていて、わたしは黙って外をながめ続けました。青い山がゆっくり動くように後ろに流れていきました。
 高速を降りると、山すそをどこまでも行く道を走りました。右手には田んぼが広がり、青々とした稲のするどい葉が空を向いていました。そしていつもの角で、いつもどおりに左へ折れました。
 広々とした駐車場に車が止まり、母とわたしは熱せられた地面に降りました。駐車場の向こうはすぐ山で、枝葉の下には暗がりがあります。灼き焦がされる駐車場の白みがかったアスファルトよりなら、あの薄闇にいるほうが居心地がよさそうだとわたしは思いました。それに、涼しいし。
 受付のあと、だれもいない待合室で母と席をひとつ空けて座りました。はじめ足を組んでぶらぶらさせていましたが、母の顔が険しいのは自分がうるさくするせいだと思ってやめました。母の眉間にはゆるくしわが刻まれています。それは今にも彫刻刀で彫ったように永久に刻まれそうな厳しさがありました。何か読むふりをしようと本棚の前に立ったとたん、わたしの番号が呼ばれました。

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