忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

仕事の極意は引き算である~教育と廃止

 過去に幾度か記事にしていますが、仕事とは付加価値を産むことです。付加価値産出の有無こそが仕事と作業を分ける明確な違いです。

 そして仕事の理想は属人性を排除して個人の能力に頼らず付加価値を産める状態にすることです。それは換言すると「貴方が居なくてもいい」という状態にすることを意味します。

 もちろん属人性が必要とされる仕事は無数にあります。あの人でなければ出来ない、あの監督でなければ駄目だ、あの作家だから良い、というようなことは枚挙に暇が無いでしょう。

 とはいえそれが理想的な状態というわけではありません。少し極論ではありますが、世界で一人のお医者さんしか出来ない外科手術があったとしましょう。それが出来ることはそのお医者さん個人にとっての強力な付加価値ではありますが、その術式から属人性を排除して他の人でも出来るようにすることのほうが救える命を増やすことに繋がり、より良いことと言えます。

 まったく同じアウトプットを他の誰かが出来るようにすることはアウトプットを何倍にもすることと同義です。それは大きな付加価値であり、偉業であり、何よりも立派な仕事と言えます。

教育は仕事における一つの理想

 世代交代における技術伝承・技能伝承は長期的に継続する全ての組織集団における課題ですが、その課題を解消することこそが仕事における一つの理想と言えます。

 属人性の高い仕事を誰にでも出来るようにするのは難しいことです。ましてやそれを教育して伝達するのは至難の業です。しかしながら難しいからといって放っておいてはいけません。米百俵の故事を引用するまでもなく、教育を軽視する組織は永らえることなく滅びます。そして教育に力を入れる組織は繫栄し、構成員や周囲を幸福にするのです。

 「貴方が居なくてもいい」という言葉は、まるで社会の歯車のように無機質で寂しい表現のように思えるかもしれません。しかし「貴方」がいつまでも働けるわけでもなく、「貴方」が座っている椅子をいずれは若者に引き継いでもらわなければいけません。その椅子がスペシャルなスーパーマンしか座れないという社会のほうが私は温かみが無く辛辣だと思います。どのような若者でもちゃんと椅子に座ることが出来るよう教育することこそが年長者、いえ、社会の責任ではないでしょうか。

 よって属人性の排除と教育は軽視すべきではないどころか、それを成せる人材は組織集団の宝として扱わなければいけません。誰にでも出来るようにすることは誰にでも出来ることではないのですから

仕事・プロセスの廃止も立派な仕事

 もう一つ、仕事の理想系があります。それは仕事やプロセスそのものを除去・削減・廃止することです。これはアウトプットをしないという意味ではなく、アウトプットに必要なインプット、労力を減らすという意味です。

 生産性の定義は[アウトプット/インプット]ですので、分母であるインプットを小さくすることは効率的に付加価値を産み出せるということを意味します。それは余力を他の仕事に回せることにも繋がりますので、見かけ以上に付加価値生産性が高まります。

 つまりアウトプットを減らさずにインプットを減らすことは付加価値を産んでいるのと同等であり、それ自体が立派な仕事なのです。極論ではありますが、何もインプットしなくても従来と同等のアウトプットを出せるようになることが理想です。

 それこそ凄い労力を払って10を作り出すことよりもまったく労力を使わずに10を作ることのほうが良い仕事ということです。これは努力を否定しているのではありません、まったく労力を使わずに10を作る境地へ至るには物凄い努力をしなければ辿り着けないのですから。

 そもそもインプットを増やすことは簡単です。手を掛けようと思えば人はいくらでも手を掛けることができるものです。何よりも難しいのは手を抜くこと、不要を省き、適量のインプットを見定めて投入できるようにすることなのです。

 残念ながら世の中にはブルシットジョブ、何の役にも立たないプロセスが無数に存在します。過剰装飾である資料作り、意思決定がなされない無駄な会議、余剰品質や余分な試験、コストに見合わないサービス、そういったものです。直球の表現で言えば、そういったやらんでいいことを本当にやらんでいいようにすることも立派な仕事ということです。

結論

 理想的な仕事は前述した2つ、「貴方という属人性」を無くすか、「仕事やプロセスそのもの」を無くすかです。つまり仕事の極意とは引き算だと言えます。極意と言うと大仰かもしれませんが、やること自体はシンプルで単純なものです。だからこそ難しいのですが。

 最後にサン=テグジュペリの言葉を引用して終わりましょう。

完璧がついに達成されるのは、

何も加えるものがなくなった時ではなく、

何も削るものがなくなった時である。