②住民より市町村職員を大切にする政治家たち

 

 この議論から兵士、警察、消防士、国家官僚、県職は除かれます。それは、彼らは住民と距離が遠いので住民の貧困化を体感出来ず、また、体感すべき役割も持たないと考えるからです。市町村職員だけがここでの対象です。

 国民経済および国民福祉の計画を立てるのは中央政府ですが、実際に住民と向き合って実施するのは地方自治体という関係が、国と地方、中央政府と地方自治体の関係になります。

 そして、中央政府の失政を現場で見ているのが、市町村の首長、議員および職員です。

 だから、地方自治体の首長と議員と職員は、その責務として中央政府が不適切な税制を行い、または、福祉政策や公共投資をサボタージュしている場合は、住民の立場に立って、中央政府に異議申し立てをしなければなりません。

 しかし、現実において、地方自治体の首長と議員と職員は、中央政府の失政により困窮しつつある住民を見ながらも全く異議申し立てをしていません。

 地方の政治家が中央政府に対して異議申し立てをしない理由は、そもそも住民の境遇に関心を持っていないと言うことがあります。地方の政治家の関心はもっぱら自分の利益であり、選挙に勝って政治家業を続けられるかどうかだけに注がれているというのが最も強い理由になります。

 これは、普通、信念や思想を持っているようにカモフラージされますから、何かの方法を使って確認することは出来ませんが、そういう政治家に信念の無いことは、大概、不勉強という形で露呈します。

 なにしろ、普段、選挙資金や票のことしか考えていないのですから、正しいマクロ経済政策や、中央政府の政策に自治体がどう向き合うべきかなどの議論が出来るわけがありません。

 これについては、そういう政治家を論破し、バカにしてやることは良いことであるし、彼らに屈辱感を与えることも良いことです。

 新しい市長は、通常、自分が市長になった記念となる事業を提案しなければならないと発奮します。大抵は、何か市民が喜ぶようなことということで、国や県から公共投資の予算を取って来たり、企業を誘致したり、地元の名物を宣伝したりします。

 市長としてそういうことも頑張らなければならないこととは思いますが、それだけで満足してもらっては困ります。しかし、いかんせん、大体それで終了してしまいます。

 賞味期限切れで市長が交代すると次の市長も大体同じことをやります。

 次から次に変わる市長の誰一人として、自分の地域の住民生活が貧困になって行く様子を見ても、断言しますが、ほとんど哀れむだけで、自分と関わりのあることとは思っていません。

 貧困化は自然現象であり、自分がそうしたわけではないというのが彼らの言い分です。

 しかし、今、その地位にあるということは先人の責務を引き継ぐということであり、先人のサボタージュが大きければ大きいほど責務も大きくなるはずです。

 自民党政府の経済政策は失政という段階を超えており、地方窮乏化という確信的な政策なのだということは、もはや誰の目にも明らかです。

 そのときに、市長に住民の貧困化を他人事と思われていたのでは、地方住民はたまったものではありません。

 しかし、国会議員であろうと地方議員であろうと、政治家はほとんどマクロ経済を勉強したことはありませんから、家計の感覚で節約を美徳とする傾向があり、その節約の美徳を国民に要求することが一般的です。

 だから、地方の貧困化に関心があったとしても、マクロ経済を理解していないので、そそもそもどこに原因があるのか判らず、中央政府に何も言えないのです。

 マクロ経済学の理解とは、中央政府が無限の通貨発行権を行使して、積極財政政策を行い、低所得者の減税、応益税(外形標準課税)の緩和または廃止、地方交付税を増大させることで初めて、地方住民は豊かになれるという「管理通貨制度下の政府財政に関する知識」を指します。

 ところが、むしろ、大方の傾向として、市長自身が中央政府の緊縮政策に共感している場合が多くあります。

 そして、中央政府に頼らず、自力で地方財政を立て直さなければならないと、中央政府の緊縮財政派の一員となって、地元住民に財政負担や行政サービスの削減を強いている始末です。

 一般的に無知を責めることは出来ませんが、しかし、その者が市長の座に居る限りその無知は責められるべきです。

 その無知は、信念の欠如を意味しており、信念が無いくせに、お金やタイミングだけでその地位を掠め取ったからには、政治家の無知の罪は大きいと言うべきでしょう。

 市長は、マクロ経済学の無知から、たとえ所得が少なくても幸福感が持てるようにしてやりたいといった、見当違いな感情で政策を行おうとします。

 その多くは、生活の経済面を改善するのではなく、幸福はお金だけではないとか、田舎には田舎の良さがあるとか説得し、「分相応」の生活に順応するように気持ちの持ち方を変えてやろうというものです。つまり、地方窮乏化政策の補助を行うのです。

 頭の悪い者や、何も考えていない者に、特にそういう傾向があります。平気で心理学でいう代償行為をやるのです。

 自民党政府は、こういう地方住民のマインドコントロールに熱心な地方の政治家を協力者と見なしますし、事実そのとおりなのです。

 中央政府の地方窮乏化政策を、確信的に支持し、実行する者が市町村職員です。職員たちは、政治家のようにお調子者ではありません。

 市町村職員は地方公務員法によって中央政府から大企業の正社員と同じ待遇を獲得し、住民から超然としたポジションを約束されています。

 したがって、市町村職員が住民の貧困化に同情することはなく、また、貧困化して行く住民を目の当たりにしても、それをなんとかしなければならないと考えることもありません。

 このように、市町村職員を地方住民と切り離す政策は、中央政府の緊縮財政政策すなわち地方窮乏化政策にとって最も重要な仕組みになっています。

 したがって、中央政府の緊縮財政政策すなわち地方窮乏化政策に反対するとき、最初の障害となるものは、外ならぬ、市町村職員なのです。

 いまや、公務員は投資家に次ぐ新しい特権的な階級となっており、集団として明確な階級意識を持っています。

 しかし、そうは言っても、市町村職員以外の公務員がどのような階級意識を持とうが、それは重要なことではありません。なぜなら、前にも言ったように、彼らには住民の貧困を共に味わう役割はなく、住民とは別の所に居て、別の所から国民を守る役割が与えられているからです。

 しかし、市町村職員は違います。

 憲法において「地方自治の本旨」が宣言されているからには、国家の意思の代理人であると同時に、地方住民の意思の代理人でもあるので、地方住民の利害と対立する階級意識を持ってもらっては困ります。

 ところが、市町村職員は浮世離れした高額の所得を約束され、自らの高額の所得を得るために、住民に対して納税の徹底を厳重に命令されています。そのことによって、市町村職員は完全に中央政府の牧羊犬となり、住民を自分たちの羊としか考えなくなりました。自分たちの給与を守るために、住民の財産の差し押さえを行い、様々な住民の生活のための補助金を削り、道路整備や老朽化した水道管の入れ替え工事などの公共事業を削減します。

 いまや、国家であろうと、地方であろうと、政治家が発言するときは、この新しい階級である公務員に反感を持たれないようにしなければなりません。

 なぜなら、一般的に言って、政治家の能力はしばしば公務員の能力の上に成り立っており、政治家は公務員に大きな借りを作っているからです。東京都知事を見れば判りますが、全く政治の経験の無い者でも有名というだけで都知事になれます。そして、都知事はじっとしていても、全て職員が運営し、任期を全う出来るということが判っています。

 知事に限らず、政治家は誰でも条例案の作成、統計資料の手配、他の議員への根回し、ありとあらゆるものを公務員に頼ります。

 反対に、国家であろうと、地方であろうと、公務員に憎まれることは政治家にとっては致命傷となります。だから、政治家は公務員の機嫌を取らざるを得ません。これが現実です。

 どの程度、政治家が公務員の機嫌を取るかというと、地方に行くほど激しくなります。

 国会議員と官僚、内閣府と官僚の関係については、国会議員や内閣は比較的能く官僚を支配していると言うことが出来ます。

 緊縮財政政策で財務省を批判する者がいますが、それは見当違いな批判であって、財務省は自民党の言いなりになっているにすぎません。それは、小泉構造改革が官僚に対して理不尽とも言える改革であったにも関わらず、ほぼ貫徹されたことを見れば判ります。

 しかし、市町村においては、政治家は職員の機嫌を取らざるを得ないと言うほどの弱い立場に置かれています。

 なぜなら、市町村職員の背後に居る者が政権与党であり、内閣府だからです。

 市町村職員の身分や待遇は内閣府および人事院から全力で守られていますから、市長はうかつに職員を処分出来ません。市町村職員のあり方は、内閣府のあり方でもあります。

 市長が中央政府に異議申し立てをすればどのようなことが起こるかというと、例えば、固定資産税の重税化、消費税増税、三位一体改革によって住民が苦しんでいること、あるいは、老朽化した道路や水道管の補修、福祉施設や教育文化活動への補助金などの基本的な部分について積極財政政策を行えという訴えを行った場合、必ず、中央官庁からまず自分の身を削って財源を捻出しろと言われることになります。それは、市長、市会議員、職員の高い給与の削減を意味します。

 だから、市町村職員は、このようにして自分の待遇の現状が議論の俎上に上ることを最も嫌がります。

 市長が職員の高い給与を議論に上げようとすると、職員の怒りを買い、市長は職員からありとあらゆる嫌がらせ、例えば、ありとあらゆる職務をサボタージュされるだけでなく、挙句の果てはスキャンダルをリークされ政治家生命を絶たれることになります。

 市長はそれを覚悟しなければ、中央政府の緊縮財政政策すなわち地方窮乏化政策に反対し、住民を豊かにするための行動を起こすことが出来ません。

 市長は、市町村職員と対立する覚悟などなかなか出来ません。それは自分の家族、友人、そして自分自身の身の危険を伴う恐ろしいことだからです。市長も市議会議員有志も恐怖に足がすくみます。市長が中央政府の緊縮財政政策を批判出来ないのはこういう理由があってのことです。

 そこで、市長も市議会議員も、もっと楽な道を選びます。つまり、市町村職員は優秀で、650万円の給与にふさわしい仕事をしていると称賛して市町村職員の高い給与水準を正当化してやり、同時に、地方の貧困化とりわけ児童の貧困化などについては心の持ち方の問題にすり替え、地方に貧困問題は存在しないと宣言するのです。

 しかし、ひとたび、その市町村職員と対決する恐ろしさを克服して、自分の身を削って財源を捻出しろという中央政府の言い分通り、市町村職員の給与水準を地元中小企業の給与水準と同等にすれば、それ以上の中央政府の言い分はなくなりますから、後顧の憂いのない立場で、中央政府の地方窮乏化政策に反対することが出来ます。

 

 

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