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学士の非情な退場 または私は如何にして大学をやめて職に就くことになったか

私は三月の末に大学をやめようとしている。そして四月からはある出版社に職を得て働く。二十年弱続いた学生という立場に一旦終止符を打つことになるのを良い機会として、大学をやめて職に就くまでに至った経緯と、それについて考えたことを記す。他人が読んで面白い話かはわからないし、とくにユーモラスな書きぶりでもないが、あらかじめご了承いただきたい。


私の関心は、ごく少数の例外を除いて常に発散してきた。何事かについて持続的に、かつ専一に関心を持つということがなかった。また、その関心を妨げるものがあると、すぐにそれは損なわれた。たとえば高校生のとき建築に惹かれて、理系の選択科目を取っていたが、数学と物理が不得意だったため、またそれを乗り越えるような強い意志がなかったため、文系に転じて大学に進んだ。

関心は、常に複数の物事に対して向けられていたから、建築以外の進路に迷うことはなかった。社会科学系の学部をいくつか受験して、そのなかでもっとも関心があった政治に関連する学部へ進んだ。

建築ではなく政治を学ぶことに対して、私はいくつかの理由をつけて納得できていたと思う。このとき、自分の本質的な関心は、人間とシステムの関係にあると考えていた。建築物は、物理的・経済的・社会的な条件により規定されるシステムであり、それに包摂されて人間は生きる。政治もまた同様の構造を持っているから、それを学ぶのは関心を充足するだろうと想定していた。

誤算は、特に学士課程のはじめでは、講義は政治そのものではなく政治学という学問の体系を学ぶために行なわれる、ということだった。それはとても退屈で、迂遠なことと思われた。今から考えればそれは一種の訓練で、必要なプロセスだったが、生徒に対して多くを要求しない校風の高校にいたことも災いして、私はもうさらなる訓練についていく忍耐を持っていなかった。

もうひとつ誤算があった。ほかの分野はいざ知らず、政治についてもっとも関心があったのは、人間とシステムの関係ではなく、むしろ人間そのものだった。私は「加藤の乱」について読むとき心が躍った。そこには人間が、そのプライドと能力を賭けて戦うダイナミズムがあった。[1]

これらの誤算は私の関心の妨げとなって、意欲は急速に失われた。入学した次の春には、私はほとんど大学を卒業できないだろうという確信を得ていた。興味を持ち、かつそれが妨げられない場合でも一定程度の技量に達すると満足してしまう。興味のないことなど、長く続けられないだろう。

そこで、大学をやめてもそれなりの暮らしができる道を模索するために、モラトリアムを利用することにした。模索するといっても、闇雲に模索したわけではないし、勝算がなかったわけでもない。私にはひとつ策があった。


先ほど、「人間とシステムの関係に関心がある」と述べたが、私は日常語としてのシステム、つまりコンピュータで動くあのシステムについても関心を持っていた。高校のとき既に、初歩的なプログラミングを勉強して、実用に供するシステムを開発した経験を持っていた。またそれをアピールして、あるIT企業でアルバイトとして雇用されていた。

プログラマーの業界は、人気が高まるにつれて学歴などの条件が要求されつつあるとはいえ、日本ではまだまだ実力がものを言う。そのときアルバイト先で業務委託として働いていたプログラマーも、私と同い年ながら既に単著を出版し、高卒後そのままいくつかの名だたるIT企業から仕事を請けていた。

この業界ならば、大学をやめたとしても食べていけるし、また実力があれば良い暮らしもできるだろうと考えた。それは間違いではないといまでも思う。ただ私は優れたプログラマーではまったくなかった。

私がプログラミングに関心を抱いたのはそもそも、それがなくてはできないものをつくりたかったからだった。たとえば、母校では三年次から選択科目が導入され、それぞれの進路希望に応じた科目をとることになっていた。

そこで私は、自分の選択科目を登録すると同じ学年の人がどの科目を選んでいるのか見られるシステムを開発した。「倫理」の講義には別のクラスの友達がいる、といったことを確認できるという利点があった。それは教室に行けばわかることではあるのだが。

このようなものをつくりたいとして、そのためにプログラミングを覚える。これはとくに序盤の学習において非常に効率的だが、体系的に知識を得ることをあまりしないから、変なところでつまづいたり、あるいはある概念Aを理解しているプログラマーならば当然概念Bを理解しているだろうといった推測が通用しない。概念Bはそれまでの開発で必要なかったため、理解していないのだ。

しかし職業プログラマーでは、概念Aを理解している、という要素から概念Bの理解が必要となる仕事を割り振られたりする。そのときに勉強すれば良いが、誤解を解きつつ勉強するのはそれなりにつらい。開発するうえで、概念Bを理解する必要性が見出せなかったらなおさらだ。


一方で、プログラミングそのものが好きで仕方ないというプログラマーもいる。そういうプログラマーは強い。終業後や休みの日もプログラミングをし続けるだろう。私の場合は、会社の製品がつくりたいものととかけ離れていると、なおさら弱い。ただでさえプログラミングを勉強し、プログラムを書くモチベーションがそこ[2]にしかないのだから。

私のプログラミングのスキルは、次第に成長したものの、一定より上には進歩しなかった。あるとき、その部署・その職責で必要なスキルを充足してしまい、そこから先の進歩がなかった。その部署はあくまでマーケティングの部門で、プログラマーに要求されることはコードを書くことよりも仕組みを効率化したり、あるいはウェブサイトの更新を効率化したりといった作業が多かったためでもある。


三年に進む頃にアルバイトをやめて、個人で簡単なウェブサイトをつくったりビラをつくったり[3]する受託の仕事をたまにやっていた。

そんなとき、ある会社からサマーインターンのオファーが来て、PHPというプログラミング言語のエンジニアとして二週間働かないかと誘われた。私は選考を通過して、事前課題に取り組んだ。ショッピングシステムを想定して、LaravelというPHPのフレームワーク[4]で実装するといったものだった。課題は標準的なもので、意味は理解できるが、私はその標準的なやり方をまだ身につけていなかった。

つくりたいもの[5]が明確だったから、私はかなり必死に勉強して一応形にすることができた。ここで私はやっと、オブジェクト指向とかウェブフレームワークといった、プログラマーが最低限理解していなければならない概念を多少理解した。これは遅いタイミングと思う向きもあるかもしれないが、アルバイトではそこまでコードを書かなかったことは述べた通りだ。IT企業には、コードを書ける人がいくらでもいるのだから、あえて私が多くを書く必要はなかった。


そうしてなんとか提出した代物は、謙遜ではなくそこまでできのいいものではなかったが、初日に出社すると「一週間は新卒向けの研修をこなすAチーム」と「最初から実際の機能開発をするBチーム」に分かれていて、私はBチームに配属された。

私はその配属は課題の出来具合によるものだろうと思った。その会社は、メガベンチャーなどには及ばないが、それなりに一般的な知名度もある会社だったため、このインターンに来ている人たちでも、私よりコードが書けない人がいるのだと少し慢心した。

結果として、実際に行なうことになった業務では、PHPではなくNode.jsというプログラミング言語[6]を中心に書いていたのだが、プログラマーとしての基礎体力が以前よりあったため、またペアとなった人の技術力に助けられて、2週目の前半には依頼された機能を完成させられた。

そこで出会った人たちは社員・インターン問わず、優しく面白い人が多く、とくに最終日の懇親会で仲良くなることができた。いまでもインスタやTwitterでつながっているが、仲良くなった人に関西の学生が多くその後会えていない。


しかし、プログラマーの道はやはり険しかった。私はインターンを終えた後、デザインや人付き合いを得意とする友人たちと法人を興して、何かしらのウェブサービスを運営することを試みた。アイディアはいくらでもあった。しかし金がなかった。

だからまずは、受託開発で簡単なシステムやウェブサイトの制作を行い、金銭を得ようとした。これが非常につらかった。私は独り立ちした、自分でスキルを上げていけるプログラマーではなかった。また自分のスキルを(インターンで曲がりなりにも与えられたタスクをものにした経験などから)過大に見積もっていた。だから自分のスキルでなんとかなるだろうと思われた仕事がなんともならなかったりした。

ここで、プログラマーとしてのつらさに、起業のつらさも加わる。ふつうの会社ならば、あるプログラマーの技量が十分でなくても通常、上司や同僚が助ける、人員を増やす、ある部分を外注するなどで対処して納品できる。

しかしできたてほやほやの文系学生三人組の会社には、そういった伝手はなかった。上司はいない。人員を増やす金はない。外注にも金がかかる。そして、学生で創業間もない会社だからということで相場より多少安く請けていた。ほかに仕事をしていないから、生活の維持を考えると失注が一番怖く、強気な価格交渉はできなかった。そのため、一般的な会社に何かを外注するとすぐ足が出た。

上司でなくとも、何らかの助けをしてくれるようなプログラマーの人脈も限られていた。また知人・友人間であっても、お金を介在させないと、私だけが利益を得て相手に利益をもたらせない。私の方には金銭の代わりに与えられるようなものは(特にプログラミングの分野では)、何もないのだから。

そのほかにも、顧客とのコミュニケーション、日常必要な事務作業、慣れない契約まわりの手続きなど、経営者あるいは責任者として求められる仕事が多々あり、大変つらかった。ふつう会社は分業制だからとても働きやすいのだなと理解した。書類仕事が得意な人が経理をやった方がいいし、技術者は技術に専念すべきだし、契約書は法務や総務の人間が見てほしい。あるいは外部の専門家が。

金がないから、それをすべて少数の素人でやるはめになる。そして我々は似た者同士で、面白いアイディアならいくらでも浮かぶが細々とした作業は苦手な人たちだった。それは、初期の会社経営では極めて過酷なハンデとなる。

大きく儲けるのではなく、それなりに暮らしていくためならアイディアは単純でよく、それの実現に必要なことをひとつひとつ(銀行に借入のための資料を書いたり、補助金の申請をしたり、法規制を調べたりといった「退屈な」作業も含めて)実行できることと、それが儲けを産むまで生活を維持できる最低限の資金が大事なのだ。 “Ideas are cheap; execution is everything.”とはよく言ったものだと思う。


起業を選んだのは、単に起業したらかっこいいとか大儲けできるといった見栄のためではなかった。もちろん見栄はゼロではないが、もう少し冷静な判断だった。

私は、決められた生活リズムを維持するということがまったくできない。中学まではさまざまな強制力のおかげで、寝不足上等で登校していたものだが、高校以降はサボってばかりいた。

このような人間が、会社で勤まるはずがない、と思っていた。毎朝満員電車に乗って通勤など不可能だと思っていたし、現に大学でもそれが理由で落とした単位も多くあった。初回の講義に出られて面白そうと思ったのにフェードアウトしてしまったり。

起業ならば、仕事はある程度好きな時間に進められる。夕方に起きても、あるいは体調が悪くて二日三日寝ていても、納品日までにカバーできれば良い。カバーするのは大変で、できずに謝罪したことも何度もあるが、とにかく理論上は、打ち合わせや納品といった期日さえ守れればあとは好きに仕事ができる。誰もそれに文句を言う人はいない。これしかない、と思っていた。

一方で、起業がうまくいかなかったとしても、その経験を買ってくれる会社はあるだろうと踏んでもいた。勤められない、事業もできないでは自分で生計を維持できないのだから、起業が無理ならやはりなんとか勤めるしかない。そのときにも役に立つだろうという打算もあった。


しかし受託開発で、自分のプログラマーとしての力量不足、経営者としての力量不足によるトラブルがいくつか続いた。それでもそれなりのお金になったこともあったが、こんなことは続けられないと思った。責任が重すぎる。一緒にやっていた人たちや顧客に多くの迷惑をかけた。一時は、顧客のウェブサイトやシステムを開発する画面を開くたびに吐き気や頭痛がしていた。締め切りが間近になると発熱もした。人数的にそんなに多くの仕事は請けられないし、そのお金は生活や娯楽に使ってしまい、当初の目的である自分たちのアイディアを実現させるための資金も結局貯められなかった。

それに、プログラマーとしてのスキルも大して身につかなかった。ふつうの会社であれば、私ができなくても誰かがカバーできるから、自分のスキルより少し難しい仕事も引き受けてみようと思える。頼る人のいない私はそれをやってはいけない、ということが判明して、保守的に仕事を選ぶようになった。今あるスキルで確実にこなせるであろう仕事しか請けない、と決めた(それですらたまに要件を見誤ったり、先方の追加要求に応えられなかったりした)。そうすると、スキルは伸びない。かと言って自分のつくりたいものを、仕事から離れて個人的につくる気力もなかった。


そのころ、私は半年の休学を経て、学年としては五年生になっていた。修得単位数は惨憺たるものだった。春、今年度中に進路の模索を終えようと決意した。そこで、あまり元手のかからないウェブメディアを始めた。そのとき一緒に会社を興したうち一人は会社勤めをしていて、本業が忙しくほかの二人が中心となって話を進めた。

同時に、ウェブメディアに要求されるスキルを身につけようと、ある出版社のウェブメディアの編集部でアルバイトをし始めた。そこは、今までと比べると天国のようだった。仕事が割り振られて、それをこなせばよい。それだけで給料が入ってくる。私は比較的文章を書き慣れていたし、コンピュータの基本操作はお手の物だったので、二日目には上司に「もう教えることはありません」と言ってもらえた。もちろん、アルバイトとして、という意味だし、お世辞も多分に含まれているだろうが、これは弱っていた私の自信になった。

その後上司は通常アルバイトに求められているより少し発展的な仕事も提案してくれたし、いくつかは実際に行なった。私がある企画の案を提案して記事にすることも認められた。そして昇給した。

通常の業務は、主には企業のプレスリリースをもとにニュース記事として執筆するというもので、単調と思う人もいるはずだが、案外それにもいまだ飽きていない。プログラミング自体が好きなプログラマーがいるという話をしたが、それで言うと私は文章を書くこと自体が好きなライターなのだ。

たとえ私の関心がない分野のニュースでも、記事を読んだ人に明快に伝えられるよう、表現を工夫したり構成を入れ替えたりといったことが好きだ。良い文章になればそれだけで嬉しいし、さまざまなジャンルのニュースを書けるのでたまには私の関心に引っかかる内容もある。そして、文章を書くことは、冒頭に述べた「発散していく関心」の数少ない例外であり、私がおよそ十年、一定以上の関心を抱けていることだった。

また、懸念であった生活リズムの問題も(たまの体調不良や遅刻はあるが)基本的にはほぼ出社できている。体調不良や遅刻についても、仕事が早いというので上司に大目に見てもらっている。思えば、IT系のアルバイト先も大目に見てもらえたから一年半勤められたのだった。

それは在宅勤務の賜物でもあるが、会社もなんとか勤まる気がする。たまに寝不足で私のパフォーマンスがいつもより良くなくても、ある程度ほかの人の働きで賄える。正社員ならばアルバイト以上の意志で欠勤や遅刻をしないようにできるだろう(と信じたい)。高校や大学とは違ってある種の強制力がある。

一方で自分たちのウェブメディアは、ある嗜好品に関するものだったが、その嗜好品の主力メーカーの社員と飲み屋で出会い[7]、アイディアに賛同してくれるという幸運もあり、滑り出しとしては悪くなかった。しかし、私が次第に飽きてきてしまった。アルバイトで稼げるお金はたかが知れていて、最低限の経費は安いとはいえ、取材の交通費や相手のコーヒー代やそれに割かれる時間などは案外馬鹿にならない。面白い企画は出せるが、それを実行するには金がかかる。メーカーにスポンサーになってもらうにも、そのための実績を多少は積まなければいけない。

そういった状態で、次第にやる気を失ってしまったが(私の関心は妨げられるとすぐになくなる、というパターンの繰り返しである)、まだこれから、就職後も含めて立て直そうという意志を持てている。その理由はやはり、文章を書くことが中心だからではないかという気がしている。


本当はウェブメディアで食べていけると思えるような手筈を整えるための一年にしたかったが、数ヶ月ののち現状ではまだ無理だ、と感じた。可能性はあると思うから諦めないが、そのためには自分の生計は自分で維持して、その余裕資金を投じるくらいでないと、少なくとも最初は持続できない。いくらでもやりようはあると思っているが、それに必要な次のステップへと持っていくための資金を安定的に入手したい。そして、私の人生を補強してくれるスキルも。

そこで去年の十月になって、起業した当初から逃げ道としてはあった就職を決意した。それにあたって、私が持続的に一定以上の関心を持てていることはなんだろう、と考えた。

プログラミングは、どうやら違うらしい。関心はあるが、それそのものへの関心ではない。プログラミングなんて道具に過ぎないと思っているし、それでは情報系の学部を出て、またプログラミングが好きで仕方ないプログラマーと戦っていけない。そうでなくてもプログラマーにはなれるが、待遇の悪い会社も多い。そもそもインターネットに飽きてきた。[8]プログラマー界隈のホモソーシャルな雰囲気にも少し違和感があった。それでも私の今あるスキルでもっとも説明しやすいものだから、これが就活で利用できるに越したことはない。

逆に文章を書くこと、そして読むことには、長年ある程度の関心を抱けてきた。書くことは先ほど説明した通りだし、読むことはTwitterから分厚い専門書まで幅広い。ジャンルもそこまで問わない。読むこと自体が好きだと言えると思う。

あとは、散歩や旅行くらいか。散歩や旅行も、それ自体で完結する好きなことだ。でもそれらを仕事にするのは難しいかもしれない。これらは趣味として楽しんだ方が良さそうだ。

それから人と話すこともかなり好きだと思う。上司に気に入られて飲み会へ、とか全然OKであり、コミュニケーションが多少問われても私としては問題ない。私は話すことが好きだが、スキルとしてのコミュニケーションにそこまで自信はない。だが、私よりアクの強いコミュニケーションをする人がビジネスの世界で多く生き残っているのを見てきた。相手次第でしかないだろう。


私はこの項で、関心という言葉を二つの意味で使っている。ある概念に対する関心と、ある行為に対する関心。建築や政治や嗜好品は前者で、読み書きやプログラミングや散歩は後者だ。

後者の関心、なかでも持続的に維持できている関心を十分充足できれば、前者はそこまで必要でない、ということがライターの経験からわかった。どの道前者は、後者よりさらに発散していく。あるときにもっとも関心があることはしばらくすればそうでなくなっている。すぐに消え、場合によってはまた復活し、あるいは別の事柄への関心が生じる、という繰り返しだ。でも前者の関心が満たされ、後者の関心と組み合わせることができたとき、一番良い結果が生まれるだろう。

だから手広く事業を進めている会社で(または新たに事業を立ち上げる余地があって)、前者の関心を充足できる可能性が多くの場合に高く、かつ後者の関心のうち持続的なものをもとに業務ができればもっとも都合が良いではないだろうか。

このような整理をして、また私に必要な条件(大学中退でも採用する、秋に新卒を採用する、フレックスタイムまたは裁量労働制など)を考慮したら、候補はおのずと絞られた。

IT系の企業で、いくつかの製品を展開していて、マーケティングや企画職など、コンピュータやプログラミングについて理解があることが仕事に活かせそうで、かつ文章を読み書きする機会がそれなりにあるだろう職種。あとは事業内容や給与やオフィスの立地、在宅勤務の頻度などで選べばいい。これが私の当初の想定だった。


まず、大学中退者や第二新卒など、経歴に「傷がある」人向けの就職エージェントに登録し、面談をした。そして上記の希望を伝えたところ、複数の候補を紹介してくれた。どれも決して悪い条件ではなかったが、ここぞというところはなかったので、とりあえず保留として自分でいくらか選考を探して応募する旨を伝えた。面談自体は話をよく聞いてくれ、対応もよかった。

そして1社まず有名なIT企業に申し込んだが、あっさり書類落ち。以前はそこの人事からアプローチされていたというのに。[9]それで、もう少し幅広く検討したいと考えて、プロフィールを記入すると企業からオファーが来るという仕組みの就活サービスに登録した。

プロフィールを一通り埋めてすぐに何社からかオファーが来たが、「大学中退でも大丈夫ですか?」と聞くと難しいと言われたり、あるいはこちらが端から興味がなく保留したりした。[10]

数日後、ある出版社からオファーが来た。そこはコンピュータ関連の技術書を中心に、いくつかの分野の本を出していて、同時にその分野に対応したウェブメディアも運営している。いまのアルバイト先とほとんど同業他社である。

そこの本を何冊か持っていたから、嬉しく思った。大学中退でも問題ないか尋ねると構わないという。そのまま選考を進めた。コンピュータやプログラミングの知識が活かせ、文章を書いたり読んだりすることが事業の中心。ついでにフレックスタイム制。会社の立地や給料も悪くなく、ここが一番良い、という結論に達した。

二次面接と最終面接のあいだでしばらく間が空いた。出版社や業界について調べているうちにコンテンツ産業に興味を持ったが、大学中退でも問題なく、また秋採用をしている会社はほぼなく、それで音楽に人並み以上の関心はないが、働き方などに惹かれて、保険としてレコード会社の秋採用を受けた。とくに保険にならず、書類であっさり落ちた。

結局十二月になって出版社の内定を得て、四月からの進路が決まった。もしここが難しければ、面談で示された企業やほかのIT企業を受ける予定だった。途中就活を進めていると話したら、会社を一緒にやっていた友人が、勤めている会社に誘ってくれた。

それでもダメなら、プログラマーとして多少待遇が悪くても入社し、スキルを上げて転職していくしかないと考えていた。最後の選択肢は、おそらく私には茨の道で、今のところ取る必要はなさそうでよかったと思う。プログラミングは、できれば趣味として続けていきたい。


ずっと関心について書いてきた。そういう意味で、出版社、特に編集職は都合がいいのではないかと考えている。本ごとに、あるいはウェブメディアでは記事ごとに、それぞれ切り口は変えられる。他のジャンルに異動することもできる。だから概念に対する関心の発散にぴったりだし、一方で文章を読み書きするという行為に対する関心は常に充足される。

新卒は必ず編集職というわけでもなく、営業職の可能性もある。正式な配属は六月に決まり、いま述べたように都合の良い展開になるとは限らないが、私の考えを伝えた上での配属であれば受け入れるほかない、と今は思っている。いまのところ、ここより私に向いていそうな会社は見つけられていないのだから。

ただ幸い、いまのアルバイト先の上長は、会社が合わなければ業務委託としてならすぐに戻ってきていいと言ってくれているし、そこでそれなりの成果を出せれば進路も見えてくるだろう。それも無理なら、当初の想定通りIT企業に転職する道もある。人材不足の業界であり、選ばなければ仕事はあるだろうと踏んでいる。


ここまで、高校のときから遡って、大学中退と就職に至るまでの紆余曲折を述べた。私は、お分かりの通りよく判断を誤ってきたし、そしてこれからも誤るだろう。内定先についての判断、職種についての判断も誤っている可能性は十分ある。

私は、何かを選ぶとき常に逃げ道を用意していた。建築がダメなら文転、政治学がダメならプログラミングと起業、プログラミングと起業がダメならそれを活かせるように就職。就職先がダメなら転職、なんなら大学に戻るかもしれない。

退路を断たなかったために真剣に出来なかったのではないか、と思わないでもないが、実際には退路がなくても真剣に出来ない人間だろう。その程度には怠惰である。逃げ道がなければ、今頃精神がぼろぼろになっていただろうと思う。それを用意できたのは私の幸運である。ただ、逃げ続けるのもそれはそれで疲弊するので、ぜひこの辺で終わりにしたいものだと思う。モラトリアムに甘えて逃げ続けていたが、もう猶予はあまりない。

紆余曲折を経て、ようやく私は自分のことが少しわかってきたのかもしれない。これでもまだ不十分であるのは間違いないが、今はまだここまでしかわかっていない、という記録として記す。


  1. 政治家もまた、様々な条件に規定されたある種のシステム(たとえば政党)のなかで生きている。これを検討すれば、加藤の乱も人間とシステムの関係のなかで起こった出来事と言えるかもしれないが、私はそのときシステムについてはほとんど関心を向けなかった。 ↩︎

  2. 金銭はモチベーションのひとつに当然なり得るが、プログラミング以外でも獲得できる。 ↩︎

  3. グラフィックデザインも、高校のときつくりたいものがあって覚えた。先に述べた一定程度で満足してしまう性質のため、プロには及ばないが素人に比べればそれなりに上手、というようなレベルだった。 ↩︎

  4. システムを開発するときに使うひな形のようなもの。 ↩︎

  5. それそのものがつくりたかったわけではないが、私はそこで働いてみたいと思っていたし、それにあたり必要なこととしてそれをつくるモチベーションを得られた。 ↩︎

  6. 詳しい人に:Node.jsは正確にはJavaScriptの実行環境でありプログラミング言語ではないが、簡単のためこう記している。 ↩︎

  7. 飲み屋で出会ったのは私ではなくもうひとりの友人である。人付き合いを得意とするだけのことはある。 ↩︎

  8. ひとくちにプログラマーといっても、冷蔵庫のシステムからYouTubeまでさまざまなものを開発するが、私はずっとウェブで動くサービスの開発を志向してきた。 ↩︎

  9. IT業界、特にプログラマーは人材獲得の競争が激しいので、Wantedlyなどで多少経歴をアピールしていれば青田買いするようにアプローチがやってくる。 ↩︎

  10. 後日、オファーを出せる数が有限であることを知り、プロフィールのどこかに大学を中退する予定であることを書くべきだったと思った。 ↩︎