漢字の訓読みは、中国周辺では、朝鮮人にもベトナム人にもチベット人にもモンゴル人にもできないことだった。日本人だけが成し遂げた。その御蔭で、漢文を日本語にして読むことにも成功した。中国古典がそのまま日本古典になってしまった。漢字が中国語の文字ではなく、日本語の文字になってしまった。

表意文字とは言っても、漢字のみならず、古代エジプトの神官文字にしても、インダス文明やマヤ文明で用いられた表意文字にしても、今ではその多くの発音を復元できないにしても、表音性を実質的に喪失して用いられたなどということはまず考えられないことである。インドの真言陀羅尼を漢字音写し得たということは、漢字にも表音性がある程度健全に備わっているという証である。元々は表意文字だったセム語族の文字を崩してギリシャ語やラテン語の表記にも転用可能なアルファベット表音体系を完成できたということは、元々の表意文字に表音性が顕著だった証であろう。日本では漢字は、「行」が「コウ」、「ギョウ」と、2つの音読みの発音が維持され、「いく」とも「おこなう」とも読むことで、漢字それ自体の持つ表音性がほとんど徹底的に破壊されている。漢文訓読になると、「雨」が「あめ」とも「あめふらす」と読まれたり、「雪」が「ゆき」とも「すすぐ」とも読まれたり、まるっきり、表音性は失われているも同様である。さらに「寂しい」も「淋しい」も「さびしい」と読まれて、もとの「ジャク」と「リン」という発音は訓読みにおいては廃棄されている。しかも、漢字のもつ意味だけはしっかり保存されている。

こう見てみると、世界中のあらゆる民族の中で、表意文字を、表音性からほぼ完全に解放して、純粋に表意性の表記シンボルにすることに成功した民族は、唯一日本民族だけであるということになる。漢字の訓読みは、発音と文字の徹底的な不整合の確立に成功しているのである。ハングルでも英語の綴りでも黙字など変則的な綴りはあるし、ロシア語などは発音の変則的な綴りが顕著だが、表音性の徹底放棄に成功した文字表記体系は、文明化された言語では、日本語だけのものである。漢字は、むしろ、形声文字が多く、本来は、部首に主導された発音に強く拘束されるところの大きい文字である。

文字が発音を離れて、意味だけしか表現しない表記の確立というのは、凄まじいことである。西洋の言語学の常識からでは考えられない。日本語の研究をしようとすると、西洋で成立した言語学では捉えきれない部分が非常に大きいのである。西洋の言語学は、そのままでは日本語研究には応用できない。西洋の言語学の想定していない事態が、日本語の表現創造では強力な位置と意味を占めているからである。

漢字の訓読みは、日本人の芸術性、優れた視覚判断力が可能にしたことであり、漢字を訓読みすることで、日本人は自身の判断能力を鍛え、精密化した。

西洋では印刷技術が進歩して、書物があふれるようになってから可能になった文化現象が、日本では、先取りされているような話が多いことをよく耳にすることがある。たとえば、ピーター・ドラッカーが指摘した、有名な、日本美術の西洋美術に比べての日本美術の先進性などである。これも、西洋では、印刷の普及により言語が文字を通して視覚主導で用いられる前に、日本では、文字の表記の仕方の工夫によって、言語を聴覚主導ではなく、漢字の訓読みを通した視覚主導のメディアに進化させることに成功していたことが原因かもしれない。日本語の表記方法なら、西洋では活版印刷技術の改良まで不可能なことが、木版印刷の普及の段階で文化的に可能にするインパクトを民族に与えることが可能だったのかもしれない。

日本語におけるひらがなとカタカナのかなの使い分けや漢字の訓読みと送り仮名の意味は、日本人が自覚する以上に日本人の内面性や思考の傾向に強大な影響力を持っていると思う。西洋でも、ラテン語の表記は活字をイタリック体にし、ギリシャ語の表記はギリシャ文字を利用するなどして、ギリシャラテンの言語と自国語の区別の努力はしているが、自分の国の言葉については、どれがラテン語が語源で、どれがギリシャ語が語源で、どれが土着語なのか、しっかりした古典教育を受けた人たちでないと、今ではわからなくなっているし、ほとんどの英米人は、自分が使っている英単語の語源がギリシャ語由来かラテン語由来かゲルマン語かケルト語かなどということを気にしない。日本人なら、固有語(いわゆるやまとことば)と漢字語と西洋などからの外来語は、文字で書き分けることができる。日本人の意識の自己認証を、文字表記体系が強固に守っているのである。だれでも、日本語の読み書きがきちんとできれば、それは、事実上日本人なのである。同様、だれでも、英語がきちんと使えれば、英米人という言い方も可能である。

とにかく、簡潔な言い方をすれば、世界の他の民族にとっては、文字は、意味を表現する以上に、発音を表現するものである。おそらく、中国人にとっても例外ではない。だから、行書体、草書体が生まれたり、現在のような表意性の欠損した簡体字の漢字の採用に大した抵抗がないのである。簡体字の漢字も、表音性の維持の工夫は細かくなされている。

一方、世界中で、日本人にとっては、文字とは、発音を表現する以上に意味を表現するものである。読書家の日本人は、細かく言葉の意味にこだわる傾向が強い。学者ではなくてもである。代表者の名を挙げれば、評論家の呉智英氏である。

この、言語に対するアプローチの違いの長い歴史は、日本人とそれ以外の諸民族のあり方を全面的に別のものにしてしまっているはずである。また、言語にとって、意味より発音が大事な言語であれば、お互いよく似たヒンディー語とウルドゥー語が、ヒンディー語がインドの文字で、ウルドゥー語がアラビア文字で表記されて使い分けられているのだから、インドの古典語のサンスクリットやパーリも、無理にインドの文字の表記にこだわらないで、発音が正確に表現されているなら、ローマ字表記されたテクストを用いていても、全く構わないということなのかもしれない。

文字とは、全ての言語の文字が表意文字から出発しているように、本来、意味を伝えるものである。それが、世界中で、表意性が脱落して表音性の方向に記号化が進行していった。漢字の場合は、一音節言語で一音節文字だったために、表音性と表意性の整合性が優れていたので、表意文字として維持されることができた。その漢字を、徹底的に表意性の方向に磨き上げていったのが世界で唯一日本人である。世界のその他が表意性の脱落した表音記号を用いる一方、表意文字からその僅かな表音性も破壊して、文字を純粋な視覚イメージに「研磨」したのが世界で唯一日本人だった。

まあ、ついでに言えば、漢字を使う文化圏で、唯一法華経を研究する学問を死守したのも日本人である。もしかしたら文字の表意性の精製作業と法華経を研究する学問の維持育成の間にも、何事か関係があるのかもしれない。おそらく単なる並行現象にすぎないだろうとは思われるが。

日本人が優れているかどうかはわからないが、世界でまれに見る変わり者であることだけはあきらかである。世界的に見て、勤勉さを発揮する方向が、よそは取り扱いを容易にしようと簡略化の努力するのに、日本人だけは、芸術家的に困難な方向を目指すというふうに、まったく努力の方法が逆向きになっているのが日本人の特徴である。

考えようによっては、ギリシャ語とサンスクリットを調べるとこう思えるのだが、ギリシャ人とインド人、そして彼らの影響を強く受けた民族は、文法と発音を精密化させて意思伝達の精密化を図り、中国人は、文字を増やし、熟語を大量生産して、ことばの意味を増殖させて意思伝達の精密化を図り、日本人は、よそからやってきた漢字を上手に取り扱う工夫をすることで意思伝達の精密化を図ったとでも言えるのだろう。それぞれ、卓越した民族の個性だと思う。その中でも、世界の他の場所では当然言語において一体であるところの、言語の発音と意味を(漢字という文字の独創的な使用を媒介にして)切り離し、文字を純粋な視覚イメージ、抽象的な意味を表現できる、様々な発音を張り付けることができる「絵画」にしてしまった日本人の言語感覚、言語への感性は、極めて異質であることは、強調し過ぎることはないであろう。

日本は、冬には雪深い高山と強い暖流とおだやかな寒流の海流に恵まれた島国で、縄文時代に世界で最も発達した狩猟採集社会を形成することができた。その後、温暖で降水量が多く、水稲栽培の稲作ができる上に、貴金属など鉱物資源にも恵まれていたので、江戸時代に世界最高水準の農業社会を形成することができた。さらに、日本は、稲作農業により育成された勤勉な国民性に由来する優れた労働力と、水準の高い農業生産が可能にした高い教育水準と、質の高い目の肥えた消費者を有する市場を自国に確保していたために、昭和時代の後半には世界最高水準の工業社会を形成することにも成功した。漢字の訓読みと2種類のかなの使い分けを通して蓄積した言語についての優れた感性と判断力に加えて、西洋の学問の受け入れにも成功した上での有史以来蓄積した和漢(と一部は梵)の古典の圧倒的分量を考えれば、日本が、今後、世界最高水準の情報化社会の形成に成功するであろうことは、おそらく間違いないことではないかと思われる。