2021/12/0606:00
連載「守の起源」

【13】天皇賞・秋で圧勝! 手綱を取ったユタカがサムソンの新たな面を引き出した

 詳しい日時までは覚えていないけど、メイショウサムソンの天皇賞・春制覇(2007年)の祝勝会と称して松本好雄オーナーから食事に誘われて京都・ギ園の料理屋さんに足を運んだ。

 席上にはオーナー、(武)ユタカ、騎手仲間…13、14人ほどいた。松本オーナーを挟んでユタカとボクがそれぞれ横に座って程よくお酒が回ってきたころ、オーナーのほうから「みんな、聞いてほしい」と声が上がった。天皇賞・春のレース直後に凱旋門賞挑戦をオーナーが口にされていたのでボク自身ある程度は覚悟はしていたが…。

「凱旋門賞はユタカで行こうと思う」

 遠回しな言葉じゃなくてストレートにこうおっしゃった。その時ユタカの顔をチラッと見たけどアイツはビックリした表情で「わかりました」と言って、ボクは「はい」とだけ答えた。

 特に悔しいとも思わなかったし、ショックもなかった。自分はフランスでの騎乗経験がなかったし、ボクがオーナーでも石橋守じゃなくて武豊に手綱を委ねるだろう。その場がしらけたようなこともなかったし、オーナーの夢である凱旋門賞へ向けて一丸となって頑張っていこうという雰囲気だった。

 何度も言うけど、オーナーにはずっとコンビを組ませてもらってダービーのほかにも皐月賞、天皇賞・春と勝たせてもらって感謝の気持ちしかなかった。

 その夏は馬インフルエンザが流行してサムソンの遠征が取りやめになって天皇賞・秋からの始動になった。国内でもうサムソンの手綱を取ることはないと思っていたけど、やはりユタカで秋初戦を迎えた。

 サムソンは1800~2000メートルでは無類の強さを誇っていたし、戦前から「勝つやろな」と思っていたけど、それにしてもユタカっぽいところが出たなと感じた。ボクが乗ってそれまで際どい着差だったでしょ。ユタカが乗ったら2馬身半差の圧勝。それもGⅠだよ。憎らしいまでに鮮やかに勝ってしまうあたりさすがと思ったし、サムソンの新たな面を引き出してくれた。

 その後はGⅠで勝つことはできなかったけど、それでも常に好勝負した。2年越しで挑戦した凱旋門賞も10着に負けたけど、世界の大舞台で走る姿を見られて喜びもひとしおだった。

 帰国後はジャパンカップ、有馬記念の2戦で引退→種牡馬入りが決まっていたサムソンだったけど、手綱を取る予定のユタカがジャパンカップ直前に鎖骨骨折で戦線離脱し、鞍上が空席になってしまった。

07年の天皇賞・秋。新コンビ武豊はメイショウサムソンのイメージを一新させる2馬身半差の完勝

 ☆いしばし・まもる 1966年10月23日、福岡県生まれ。82年に騎手課程第1期生として競馬学校へ入学。85年3月に栗東・境直行厩舎所属でデビュー。同年3月3日の阪神競馬で初騎乗初勝利を達成。この年に25勝を挙げ最優秀新人賞を獲得した。初重賞勝ちは92年京阪杯(ミスタースペイン)。96年にはライブリマウントとのコンビで第1回ドバイワールドCに挑戦。2006年皐月賞をメイショウサムソンで制してGⅠ初勝利を果たし、同年のダービーにも優勝して2冠獲得。13年に調教師免許を取得して騎手を引退。JRA通算成績は473勝で、重賞勝ちは15。

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この記事を書いた記者

東スポ競馬編集部
東スポ競馬編集部

 アナログでの紙面制作に携わり続けるも、突然のWeb編集部への転向で進化したデジタル世界を知りおったまげる。読者の方々にどうやったら喜んでもらえるか日々悩みながら「明るく楽しく、やるときはやる」をモットーに奮闘中。引き出しにはお菓子が欠かせない。

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