メイショウサムソンの06年初戦は2月のGⅢきさらぎ賞。ドリームパスポート(※注)から半馬身差の2着だったけど、あれはボクの完全な騎乗ミスだった。冬の京都の芝コースはいつもコンディションを読みづらく、内が伸びる時もあれば、外しか伸びない時もある。当時は安全策を取ってモマれないようにして外々を回したのが裏目に出てしまった。
結果的に皆が意識的に外を通って、空いた内から差されたわけだからね。それでも一戦ごとに馬が確実に成長している手応えは感じられた。
そして皐月賞のトライアルに選んだのが、3月の中山GⅡスプリングSだった。この時は大外枠(16番)をどう克服するかしか考えていなかった。
スタートして楽に先手を取って4角では早めに先頭に立った。あのトリッキーな中山コースでスッと好位に付けられて、直線もいったん内から抜け出したドリームパスポートを差し返した。さらに外から来たフサイチリシャールを封じたことでボクの中で「皐月賞は勝てる」という確信が生まれた。
ボクは普段から口の堅い人間だから誰にも言わなかったけど、すごく自信があった。まあ、たとえボクが吹いたとしても本番と同じ条件で有力馬が揃う弥生賞組が人気するから、言っても大勢に影響はなかったかな。それにマスコミもボクのところにはそれほど取材にも来なかったから、言いたくても言えなかった事情もあった(笑い)。
03年のネオユニヴァースも同じローテーションで春の2冠を取った。瀬戸口先生はサムソンに合うローテーションを見極めたからこそ弥生賞ではなくスプリングSを使ったんだと思う。中5週の弥生賞のほうが馬を仕上げるのは楽と思うけど、常識にとらわれない発想をしたのが瀬戸口先生だった。
これから先、ボクは調教師として開業して馬を管理する立場になるけど、馬の成長などを見極めつつレースを選んでいった瀬戸口先生の相馬眼のすごさは口では言い表せない。ただ、ひとつだけ言えることはサムソンは瀬戸口先生が管理したからあそこまで強くなれたんだと思う。
話を06年春に戻そう。この時ボクはデビュー22年目を迎えていたけど、前記のように「GⅠを勝てる」という期待を胸に皐月賞のゲート入りを待った。
※注 ドリームパスポートは、フジキセキ産駒の牡馬。メイショウサムソンの同期のライバルで、重賞2勝(きさらぎ賞、神戸新聞杯)。3冠は2→3→2着で、菊花賞ではメイショウサムソンに先着したが、引退までGⅠには手が届かなかった。
☆いしばし・まもる 1966年10月23日、福岡県生まれ。82年に騎手課程第1期生として競馬学校へ入学。85年3月に栗東・境直行厩舎所属でデビュー。同年3月3日の阪神競馬で初騎乗初勝利を達成。この年に25勝を挙げ最優秀新人賞を獲得した。初重賞勝ちは92年京阪杯(ミスタースペイン)。96年にはライブリマウントとのコンビで第1回ドバイワールドCに挑戦。2006年皐月賞をメイショウサムソンで制してGⅠ初勝利を果たし、同年のダービーにも優勝して2冠獲得。13年に調教師免許を取得して騎手を引退。JRA通算成績は473勝で、重賞勝ちは15。