2021/11/2206:00
連載「守の起源」

【6】ライブリマウントでドバイWC挑戦世界の名手に囲まれて興奮したなあ

 ドバイワールドCに出走したライブリマウントも思い出に残る一頭だった。
 
 この馬も人との縁でコンビを組ませてもらった。当時の所属先だった柴田不二男先生のところで助手をしていた藤原さんに以前からよくしてもらっていて「とりあえず稽古に乗ってみてよ」と言われたのがきっかけ。またがった瞬間に「これは走るな」と感じた。

 1993年の2歳新馬戦(京都ダート1400メートル)でデビュー。出遅れて砂をかぶって行き脚がつかなかったけど、外へ出したらグングン伸びていって10馬身差の圧勝だった。あまりの勝ちっぷりに「ブリーダーズCジュヴェナイルのアラジ(※注)みたいな強さ」と言ってしまうほど衝撃的だった。その後は早々と2勝を挙げてしまったので当然のようにクラシックを目指して芝を使ったんだけど、やはり結果が出なかった。

 3歳夏は北海道に連れて行ったけど古馬との対戦ということもあったのか、ボクが乗ったレースは勝ち切れずに終わってしまった。そして3歳11月に再び本格的にコンビを組んだ時、劇的に馬が変わっていたのを背中から感じたんだ。

 北海道遠征で力をつけて帰ってきたのか、全体的にたくましさが出てそこから連勝街道が続いていった。95年の暮れの東京大賞典は4着に負けたけど、それ以外は6戦5勝ですべてが重賞V。東京大賞典を勝っていれば年度代表馬の可能性もあったみたい。この年は充実した1年を過ごせた。

 95年から地方交流レースが始まり中央馬に門戸が開かれたので、ライブリマウントと旭川、盛岡、大井と日本各地を回らせてもらったのはいい思い出だね。当時は安藤勝己さんや、石崎隆之さん、的場文男さんのようなそうそうたるメンバーがいて騎乗するのに迷惑をかけないようにと心掛けたものだったよ。サラッと乗ってサラッと勝ってサッサッと栗東へ帰ろうと思っていた。実際、勝って逃げるように帰りましたよ(笑い)。

 96年には日本調教馬で初めてのドバイワールドCに選出されて第1回大会に参戦した。

 90年代の米国の最強馬シガーや、欧州の一流馬ペンタイアが参戦していたし、ジョッキーも憧れだったマッキャロン、ベイリー、スティーヴンス…そのメンバーの中にボクがいてすごく興奮したのを昨日のことのように覚えている。そのころは(武)ユタカと海外競馬の話をよくしていたので、海外への意識も強くなった。ドバイで騎乗をして世界のレベルの高さを肌で感じた(11頭立て6着)こともあって、いずれは世界最高峰の凱旋門賞へ挑戦できる日がくればいいな、なんて思った時期でもあった。

 ※注 アラジは89年生まれの米国産馬。フランスでデビューして2戦目から6連勝を飾った後米国へ渡り、ブリーダーズCジュヴェナイルへ挑戦。長距離輸送、初ダートなどの不利をはねのけ、大差で圧勝。“ワンダーホース”と呼ばれた。

ライブリマウントは95年のフェブラリーS(当時はGⅡ)も勝った

 ☆いしばし・まもる 1966年10月23日、福岡県生まれ。82年に騎手課程第1期生として競馬学校へ入学。85年3月に栗東・境直行厩舎所属でデビュー。同年3月3日の阪神競馬で初騎乗初勝利を達成。この年に25勝を挙げ最優秀新人賞を獲得した。初重賞勝ちは92年京阪杯(ミスタースペイン)。96年にはライブリマウントとのコンビで第1回ドバイワールドCに挑戦。2006年皐月賞をメイショウサムソンで制してGⅠ初勝利を果たし、同年のダービーにも優勝して2冠獲得。13年に調教師免許を取得して騎手を引退。JRA通算成績は473勝で、重賞勝ちは15。

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この記事を書いた記者

東スポ競馬編集部
東スポ競馬編集部

 アナログでの紙面制作に携わり続けるも、突然のWeb編集部への転向で進化したデジタル世界を知りおったまげる。読者の方々にどうやったら喜んでもらえるか日々悩みながら「明るく楽しく、やるときはやる」をモットーに奮闘中。引き出しにはお菓子が欠かせない。

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