2021/11/1506:00
連載「守の起源」

【2】ユタカは昔よくオレにイジメられたと言うけどほとんど記憶にないんだよね(笑い)

 ボクは1966年(昭和41年)に福岡で生まれて、しばらくは京都競馬場の近くに住んでいたけど、70年に栗東トレセンが開設されて栗東に移ってきた。

 父親が上田武司厩舎(※注)の厩務員ということもあって物心が付くころには馬は身近な存在だった。当時、上田厩舎の所属騎手として活躍されていたのが、瀬戸口勉元調教師だった。その何十年後に瀬戸口先生の管理馬(2006年2冠馬メイショウサムソン)で喜びを分かち合える日が来るなんてこの時は知る由もなかったし、やはり縁が取り持った関係だったんだな、と今でも思うことがあるね。

 当時は昼から運動をさせている厩舎が多くて、土曜の学校が終わった後や日曜の休みには親父の担当する馬にまたがって乗り運動をしたり、親父の担当馬が競馬に出走すれば京都、阪神まで一緒に連れて行ってもらったこともあった。幼稚園の時から将来の夢は「騎手になりたい」と言っていたみたいで、自然とこの道を目指すようになっていた。

 小学校に上がると小児ぜんそくもあって地域のスポーツ少年団に入部して水泳を始めた。中学入学と同時に水泳部に入って、1日に1万メートル泳ぐこともあってかなり厳しい練習をしていたけど、バタフライで滋賀県2位になったりと意外に才能があったんだよ(笑い)。

 今なら水泳選手として生計を立てられるようになったかも知れないけど、昔はそんな時代じゃなかったからね。職業として選ぼうとは思わなかった。
 でも、この時期に先輩、後輩の縦の関係を厳しく叩き込まれたのは後々の騎手生活にも大いに役立った。生徒会長をするような目立ちたがり屋の性格ではなかったけど、6年間のほとんど学級委員をやっていた。周りの面倒を見たがる性格だったのかな。

 小さいころの遊び友達は同級生だった伸ちゃん。ユタカ(武)の兄貴だったんだよね。この何十年も後に彼との忘れられない出来事が起こるわけだけど、その時はユタカのことはほとんど記憶にないんだよね(笑い)。アイツはよくイジメられたと今でも言うけど…。

 小学校、中学校は水泳ひと筋だったボクだけど、前記のように周囲の環境もあって自然と騎手の道を志した。

「絶対にダービージョッキーになるんだ」という強い決意を持って15歳の春を迎えた。

 ※注 上田武司厩舎は人材の宝庫で、他にもアドマイヤムーン、ブエナビスタの松田博調教師が騎手として、アグネスデジタル、スペシャルウィークの白井調教師が厩務員として所属した。

69年秋、京都競馬場で行われた菊花賞はアカネテンリュウが優勝。相前後して栗東トレセンが開設した

 ☆いしばし・まもる 1966年10月23日、福岡県生まれ。82年に騎手課程第1期生として競馬学校へ入学。85年3月に栗東・境直行厩舎所属でデビュー。同年3月3日の阪神競馬で初騎乗初勝利を達成。この年に25勝を挙げ最優秀新人賞を獲得した。初重賞勝ちは92年京阪杯(ミスタースペイン)。96年にはライブリマウントとのコンビで第1回ドバイワールドCに挑戦。2006年皐月賞をメイショウサムソンで制してGⅠ初勝利を果たし、同年のダービーにも優勝して2冠獲得。13年に調教師免許を取得して騎手を引退。JRA通算成績は473勝で、重賞勝ちは15。

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この記事を書いた記者

東スポ競馬編集部
東スポ競馬編集部

 アナログでの紙面制作に携わり続けるも、突然のWeb編集部への転向で進化したデジタル世界を知りおったまげる。読者の方々にどうやったら喜んでもらえるか日々悩みながら「明るく楽しく、やるときはやる」をモットーに奮闘中。引き出しにはお菓子が欠かせない。

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