宗門の歴代法主による書写本尊は、全てが戒壇本尊というただ一つの本尊を、その戒壇本尊の相貌を書写したとされているが、これは本当なのだろうか。

多すぎる相違点

結論から言うと、形木本尊(法主直筆の曼荼羅を印刷したもの)は、戒壇本尊(板曼荼羅)を書写したものではない。相貌が違っているのだ。

歴代の法主の書写本尊と、戒壇本尊の写真を参考に比較してみたい。

日寛師

創価が用いている本尊、日寛師が享保5年に書写した略式本尊と比べてみる。相貌が全く一致していない。勧請された諸尊が大幅に減っていたりと似ても似つかない。

日如法主

日如法主の平成18年日付の書写本尊と比べてみる。形木本尊に記されている「有供養者福過十号」「若悩乱者頭破七分」といった文言が戒壇本尊には記されていないし、形木本尊の讃文は「仏滅後二千二百三十余年」であるのに対し、戒壇本尊では「二千二百二十余年」となっている。 その他、勧請の諸尊の相違も指摘できる。たとえば、戒壇本尊では「釈提桓因大王」と記されているが、形木本尊では「帝釈天王」となっている。

日達法主

日達法主の昭和41年日付の書写本尊と比べてみると、やはり帝釈と書かれている。讃文も違う。福過十号と頭破七分がある。更に、妙楽・龍樹が勧請されていない。

日顕法主

日顕法主の昭和54年日付の書写本尊(導師本尊)には、天照大神・八幡大菩薩の代わりに閻魔法皇・五道冥官が勧請されている。これは戒壇本尊にも、大聖人直筆本尊にも一度も勧請されたことがない。何という大胆不敵なアレンジであろうか。

なお彼の書写本尊は、ある年代日付では釈提桓因大王と記されているが、別の年代日付では帝釈天王となっていたり、妙楽・龍樹が勧請されていたり、いなかったりと書写の年代日付ごとに相貌が違っている。同じ戒壇本尊を書写してるという設定なのに、一人の法主が、書写する度に相貌が変わっているのだ。


このように、幾つか挙げてみたが他にも枚挙に遑がない。これらの矛盾は一体どういうことなのだろうか。


苦しい言い訳

宗門ではこれを「万年の流通においては、一器の水を一器に移す如く、唯授一人の血脈相伝においてのみ本尊の深義が相伝されるのである。したがって、文永・建治・弘安も、略式・広式の如何を問わず、時の血脈の法主上人の認可せられるところ、すべては根本の大御本尊の絶待妙義に通ずる即身成仏現当二世の本尊なのである」と説明している。

「代々の御法主上人は、その相伝の権能のうえに本門戒壇の大御本尊の御内証を書写しているのです」と主張している。

要するに「血脈相伝を受けた法主が認可すれば、その書写した本尊は戒壇の大御本尊に通じる」という趣旨なのだが、何とも理解し難い説明である。

「法主は戒壇本尊を精神的に書写をしているのだから、物理的に相貌が一致していないのは問題ではない」とでもいうのだろうか。ここまで来ると、まるでトリックアートの世界である。

常識的に考えて、こんな説明で納得できる人はいないだろう。

正確に書写する気など

これらを整理してみると、彼らには戒壇本尊の相貌を、寸分違わず正確に書写しようという姿勢など微塵もないと言わざるを得ない。



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