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開宣大法要開催に関する御指南の抜粋○1月31日唱題行の砌より(抜粋)
皆さん、おはようございます。本年度一月元日より始めた客殿での唱題行も、本日を持って終了いたします。各位には、最終日の唱題行に多数御参詣になり、ただいま共に一時間の唱題行を奉修させていただきました。この重大な宗旨建立750年の一月元日から、一ヶ月間の唱題行を行いまして、私は心から喜びに燃えておる次第であります。
私は、本年の唱題行において、数々の、実に有り難く、不思議な体験をさせていただきました。その中で特に、1月28日の唱題行において不思議な心感を得たのであります。他宗においては4月の28日が宗旨建立の日と思われております。本宗においても、当然4月28日がこの意義を持っております。そこで、本年の4月27、28日に、この宗旨建立750年の大佳節における中心の法要を執り行う次第であります。
しかしながら、本宗に古来、伝わっておる意義から、実は「3月28日の宗旨建立」という意義が存するのであります。このことについて、3月と4月を並べて、また大聖人様の『清澄寺大衆中』の御文を対照して考えたときに、3月と4月の両月において宗旨建立が行われるはずはないということをつい、考えてしまうのであります。
そこで、現在、創価学会が使っておる『御書全集』は「3月28日の宗旨建立」ということが示されておるところの、『御義口伝』『大白牛車書』『清澄寺大衆中』等を全部、4月に変更してしまっております。本来、それらの文書は3月と伝わっておったのであります。
さらにこのことは、大聖人様が御入滅あそばされる直前に池上において『立正安国論』を御講義あそばされた時の解釈内容を、日興上人が『安国論問答』としてお書きになっておりまして、これは御真筆として残っておりますが、実はこの中に宗旨建立のことが3月28日とあるのです(歴代法主全書1巻10頁)。
3月と4月の2つの月が御書で示されている故に、28日という日がどちらかの月でなければならないということにおいて、先ほども申しましたように4月を中心とした考え方になったのでありますが、逆に「28日という日の意義」を中心として考えるときに、3月と4月が不思議な融合の形においてありうるということが拝せられるのであります。つまり、大聖人様が宗旨建立の日を何故に28日とお決めになったのかということなのです。
そして、その上から28日が大聖人様にある特別な理由がおありだったのではないかということを感じたのが、不思議にも1月28日の、皆様と共に行った唱題行の時でありました。これらの内容につきましては、教義的な意味からも、間もなく申し上げることもあるかと思うのでありますが、本日は控えます。
なお、この趣旨については31世日因上人の『三四会合抄(さんしえごうしょう)』という抄がありまして、この抄のなかに宗旨建立が2回にわたって行われた意味と、さらに教義的に色々な面から広く述べられておる次第であります。この抄は上巻・中巻・下巻と3巻にわたっておりまして、仮りにその内容全体をお話しするとすれば、2日も3日もかかるような内容であります、けれども、要するにその趣旨としても、3月と4月の両面にわたって宗旨建立が行われておるということを感ずる次第であります。その趣旨において要点を摘示し、3月28日の大法要の時にその意義の法門を拝しつつ、少々申し述べてみたいと存じておる次第であります。
クロウ裁判に関する緊急指導会より
裁判の経過と和解内容の説明 宗門弁護団
▼裁判所が和解を勧告した理由
今回裁判所(東京高裁)は双方当事者に対して、強く和解を勧告しましたが、その理由については、和解内容のうちの第1の部分に、裁判所の所見として示されています。
(1)所見第1の1まず第1の1において、裁判所はクロウ訴訟の係属を好ましいものではないと言っています。クロウ報道の内容は、教義上の高度な論争などではないため、これ以上の時間や費用をかけて訴訟を続けるよりも、本来の宗教活動に専念すべきではないか、との考えです。
創価学会側がこれをどのように受けとめるかはともかく、宗門としては、創価学会が今後はクロウ報道をやめるというのであれば、これ以上、このような話に関わり続けるのは、確かに好ましいこととは思えません。外部から見れば、宗門と創価学会が低次元の争いを続けているとしか見えないかも知れません。裁判所もおそらくそのような印象を持ったものと思われます。
宗門としては、創価学会側がこのような名誉毀損を続ける以上、訴訟を提起し、訴訟を続けることはやむを得ないことでしたが、創価学会側がクロウ報道をやめると言うのであれば、裁判所の言うように、このような低次元の話にいつまでも関わることは考え直す必要があるかも知れないということになります。
(2)所見第1の2次に、裁判所は第1の2において、争点にかかる事実を確定するには、多くの障害があり、これ以上事実の解明に努力することは、宗教団体の活動を阻害しかねないので、適切ではないと述べています。約40年も前にアメリカで起ったとされる事件の存否を、今になって証明することは困難であると言っているわけです。
少し専門的になりますが、裁判上では、「事実がなかったこと」を証明するのは原則的に不可能ですが、「事実があったこと」を証明することは可能であると考えられています。名誉毀損訴訟では、名誉段損になるような発言をした側が、「事実の存在」を証明する責任を負っています。名誉毀損発言をされた側が、「事実の不存在」を証明することは不可能なことが多いので、裁判では「事実の不存在」を証明する責任はないのです。したがって、名誉段損発言をした側は、「事実の存在」を証明できなければ、負けになります。クロウ事件の場合、クロウは猊下や宗門の名誉を段損する発言をし、創価学会はこれを報道しました。したがって、創価学会側がクロウの言うような事件があったこと、つまり「事実の存在」を証明しなければならなかったのです。
しかし、裁判所は前述のように、争点にかかる事実を確定するには、多くの障害があり、これ以上事実の解明に努力することは適切ではないと述べています。事実を確定する義務を負った創価学会側に対する、極めて厳しい所見といえるでしょう。創価学会側が、和解勧告を蹴(け)って、このまま訴訟を続けることに恐怖を抱いたとしても当然でしょう。
▼和解の内容についてそれでは裁判上どのような合意が成立したのか、和解内容についてご説明します。
(1)和解条項第2の1まず第2の1において、宗門側は訴えを取り下げ、池田大作およぴ創価学会はこれに同意することが合意されました。取り下げの対象には、クロウ報道に対する最初の訴えと、創価学会がアメリカ連邦政府にクロウの話を裏付ける記録があったと報道した、いわゆるFBI第一事件の両方の訴えが含まれます。両者は一緒に併合されて審理されていたものです。
この訴えの取り下げによって、東京地裁の下田判決は無効のものとなりました。創価学会側は聖教新聞において、一審下田判決の内容は「事実上いささかも揺るがないものであります」などと述べていますが、これは全く法律の定めに反する根拠のない言い分です。
民事訴訟法262条1項は、「訴訟は、訴えの取下げがあった部分については、初めから係属していなかったものとみなす」と定めています。したがって、訴えを全て取り下げると、訴えの全てが初めから係属していなかったことになります。訴訟が初めからなかったことになるのですから、当然一審判決も法律上なかったことになります。
言いかえれば、一審判決は法律上の効力を失います。つまり無効になるということです。また訴えの取り下げは、相手方である創価学会の同意がないとできませんが、創価学会はこれに同意したのです。要するに、一書判決は、訴えの取り下げとこれに対する同意によって、無効になったのですが、そうなることに創価学会は同意したのです。あるいは同意せざるを得ない立場に置かれていたのです。
何はともあれ、創価学会は一審で勝訴していました。それなのに、むざむざ一審判決を無効にすることに同意したのです。普通、一審で勝訴した側は、よほどのことがなければ、訴えの取り下げには同意しません。控訴審での判決の予想が、自分の側にとってきわめて危ないと感じていなければ、訴えの取り下げに同意などいたしません。創価学会側が控訴審(東京高裁)において、どんな状況に置かれていたかは明らかです。彼らは控訴審で逆転敗訴を危倶(きぐ)したからこそ、せっかくの一審勝訴判決を放擲(ほうてき)してしまったのです。
そのくせ、創価学会は聖教新聞で、「宗門側の訴え取り下げは、“事件がなかった”の主張、立証の放棄」であるなどと言っていますが、ごまかしの論法です。宗門側が訴訟に見込みがないとしてあきらめたとすれば、訴えの取り下げではなく、控訴を取り下げるのです。控訴の取り下げには創価学会の同意は不要だからです。そして控訴を取り下げれば、控訴がなかったことになるので、その場合には、一審判決の効力が確定します。それであれば創価学会側の勝訴が確定します。
しかし、今回は控訴の取り下げではなく、訴えそのものの取り下げです。訴えそのものの取り下げは、相手方である創価学会の同意なくしてはできないのです。なぜなら、訴えの取り下げは、創価学会側がせっかく獲得していた一審勝訴判決を完全に無効にしてしまうなどの不利益を創価学会側に課すからです。創価学会側は同意をするもしないも、自由です。ですが今回、彼らは敢(あ)えて一審判決を無効にすることに同意したのです。よほどのことがなければ、誰しもそんなことに同意するはずはありません。客観的には、創価学会こそが、敢えて「事件があった」との主張・立証を放棄したことは明らかです。
(2)和解条項第2の2次に、第2の2において、当事者双方は相互に、今後、クロウ事件の争点にかかる事実の摘示(てきし)、意見ないし論評の表明をしないことが合意されました。これは実質的には、創価学会側が、今後クロウ報道により宗門や御法主日顕上人猊下に対する名誉毀損行為をしてはならないことを意味します。
宗門側はクロウ報道の被害者であり、創価学会が報道しない以上、宗門側が自分の方からクロウの話を取り上げることなどありません。この条項は、裁判上の和解条項ですから、表面上は当事者双方に公平な形をとっていますが、実際には宗門側にとっては、大した意味のある条項ではなく、その主目的は、創価学会クロウ報道を厳禁することにあるのです。創価学会側が、和解に対してどんなに強がりを言ってみたところで、この条項が入ることによって、痛撃を受けたことは疑いありません。
ただ、創価学会側が報道しないことを約束したのですから、宗門としても、これ以上創価学会側をこの件で非難することをしないという意味は含まれています。裁判上のことですから、一方だけが発言を禁じられるというわけにはいきません。相手がもう言いませんと誓っているのに、こちらがいつまでも執拗に言い続けていれば、際限のない泥沼状態に陥ってしまうでしょう。
(3)追記についてしかし、クロウ報道を積極的に取り上げて創価学会を攻撃することはしないとしても、クロウや創価学会の言うような事実がなかったことは当然ですから、そのような「事実の存在を単純に否認すること」は差し支えありません。このことは和解条項の「追記」として、念のために注意書きされています。
つまりクロウが言ったような事実はなかったのだ、あるいは事実無根だ、と言つことは差し支えないわけです、しかし、単に事実が存在しなかったことを言う以上に、これにかこつけて、創価学会に対して、虚偽を捏造したなどと言って追撃することは、「単純に否認する」という枠を超えることになります。創価学会側が今後はクロウの話に関する報道を一切しないと約束するのですから、宗門側もこの件に限ってではありますが、創価学会側を攻撃することは止めなければならないわけです。
逆に、創価学会側が「事実の存在を肯定すること」は、たとえ単純な肯定でも認められません。否認と違って、肯定することは、即、宗門側に対する名誉段損になるからです。
▼和解の効力と効用裁判上の和解は、判決と同じ効力を有しています。したがってこれに反することは許されません。もし違反すれば、和解条項違反として、損害賠償などの責任が問われることになります。
せっかく訴訟を起こして、長い間、多大な費用と労力を使ってきたのに、和解をして訴訟を取り下げてしまっては、何にもならないようにも思われる向きもあると思われます。あるいは、裁判を続けても勝つ見込みがなかったから、取り下げたのではないかと疑う向きもあるでしょう。もちろん裁判というものは、どんなに有利な裁判でも、必ず勝つという保障はありません。また40年も前の外国で起こった出来事というのですから、裁判で黒白をつけるのは容易ではありません。まだまだ時間も労力もかかったと思います。
しかし、今回の和解では、創価学会側が今後報道を止めると約束したこと、さらに東京地裁の一審判決が無効になったわけですから、宗門にとっては非常に大きな成果を獲得したことになります。こうした総合的見地に立って見れば、この時点で和解に応じたことは、きわめて合理的な結論であったと思います。
また、和解の内容を仔細(しさい)に検討すれば、控訴審の審理において、宗門と創価学会のどちらが優位に立っていたかは自ずと明らかであると思います。さらに言えば、仮に控訴審において逆転の勝訴判決を得たとしても、全面的にクロウ報道が差し止められる保障はありません。例えば、判決批判というような形を取れば、似て非なるクロウ事件報道が、結局、続く可能性もあります。
また、勝訴すれば、創価学会から謝罪広告や賠償金を取れた可能性はあります。それらを断念したことは確かに残念ではありますが、しかし、そのためにこれから延々と裁判を続けることにどれだけの価値があるかとなると、はなはだ疑問です。
むしろ今回の和解によって、法律上、創価学会の報道や発表は完全に止まり、一審判決の認定も無効になり、一方、宗門として創価学会側の主張する事実の存在を否認すること、先にも言いましたように、クロウの言ったような事実は存在しないとか、事実無根だと言うことは一向にかまわないというわけですし、逆に創価学会側は事実の存在を肯定することすらできないのですから、早期にここまで達成し得たという点では和解のほうが望ましかったといえるでしょう。
和解によって、どのような発言が制約されるかシアトルでは創価学会側の言うようなトラブルは、何もなかったことは間違いありません。そして、そのことを述べること、つまり「事実の存在を否認すること」はかまわないことは既に述べたとおりです。しかし、創価学会側の主張が事実に反するからといって、創価学会が嘘をついたとか、でっち上げであるとか言い出すと、またしても非難の応酬になってしまうので、そういう非難はしないことが和解条件になっているのです。
例えば、シアトルで売春婦とトラブルがあったなどと言われれば、これを事実無根であると言って否定することは構いません。しかし、相手を嘘つき呼ばわりすることは禁じられます。もしも、和解が成立した今日に至っても、なお同じような誹謗中傷をする創価学会員がいれば、その人物は和解条項に違反しているわけですから、裁判所で約束したことも守れないのか、と追及すべきでしょう。もしその人物が単独行動をしているのではなく、組織的に動いているのであれば、創価学会の組織ぐるみの違反になりますから、和解条項違反として、和解条項にもとづく新たな損書賠償や差止め請求が可能になります。
しかし、相手が違反したからといって、こちらも違反して、クロウ報道に関して相手を積極的に攻撃すれば、どっちもどっちになってしまいます。そうすると和解条項違反で相手を訴えることはできなくなってしまいますから、十分に注意が必要です。せっかく手にした和解条項という武器を簡単に放棄しないように気を付けていただきたいと思います。
もう一点注意していただきたいのは、今回の和解によって創価学会を破折することをやめた訳ではないことです。クロウ事件以外であれば、創価学会を批判することは一向にかまわないということです。あくまでもクロウ事件に関して和解が成立したというだけです。
▼創価学会側の和解条項違反創価学会は聖教新聞などで、和解の経緯を説明すると称して、クロウ事件が実際にあったとクロウやスプリンクルの話まで持ち出して、一審判決の事実認定はそのまま維持されているなどと言っていますが、和解では、争点にかかる事実の摘示、意見ないし論評の表明をしないことになっていますので、創価学会の和解に関する報道は、明らかに和解条項に違反しています。
和解の成立経過について、それぞれが説明することはもちろん許されることですが、創価学会の報道は明らかにその範囲を逸脱(いつだつ)し、クロウ事件に関する事実の摘示、論評を行っています。これについては、和解条項違反として、何らかの法的措置をとることを考えなければなりません。
しかし、創価学会が違反したからと言って、宗門も同じように違反したのでは、自らを創価学会とおとし同じレベルに貶めることになりますから、それはやってはならないと思います。あくまでも正々堂々と合法的な手段で対抗していくべきでしょう。
クロウ訴訟の提起は正しかったかところで、今回の和解で、クロウ訴訟の提起、ひいてはFBI第一事件の提訴は正しかったのか、最初の見通しが甘かったのではないか、との疑問を持たれる向きもあるかも知れません。
しかし、平成4年6月に始まったクロウ報道をそのまま放置しておくことは到底できませんでしたし、宗門が黙つておれば創価学会はいつまでも言いたい放題を言い続けていたでしょう。
しかし、今回の和解によって、今後クロウ報道は法的に禁じられたわけですのから、これを創価学会に呑ませたことは宗門にとって大きな成果でした。したがって、クロウ訴訟やFBI第一事件の提訴は正しかったと考えます。