②大きな格差を規制するという意味における社会主義の到来
搾取の廃止という命題が意味をなさないとしても、搾取が存在しないということではありません。
マルクスはアダム・スミス以来の古典派経済学の労働価値説を発展させて、労働価値から賃金が支払われ、その残余=剰余価値が搾取されるとする剰余価値説を立てました。
しかし、商品価値が時間的、地域的に変動して行くことから、搾取の量も時間的、地域的に変動して行きますから、全ての経済活動の中で誰がどれだけ搾取しているのかをいちいち説明することは不可能です。
つまり、現実世界においては、労働価値の分配論や剰余価値説で搾取を定義することは不可能なのです。
しかし、2008年のリーマンショックなどで、アメリカの投資銀行の証券市場における利益が多数の預金者の損失によって生まれたこと、今日のデフレ不況の日本においても、中小企業や個人が低利の融資を得られずに、高い利子を払わざるを得ない状況にあること、あるいは、事業の破綻によって資産を他人に格安で買い叩かれること、あるいは、競争によって勝者となった事業において経営者が大金を手に入れ、その反面、その企業で働く労働者が貧困になっていることを見れば、現代社会における、そして、過去においても同様であったはずの搾取がどのような形で存在しているかは分かります。
あるいは、搾取の形態として次の様なことも考えられます。
日本で作れば最低500円はかかるだろうと思われる傘が、中国から輸入されることで、日本の店で1本100円で売られています。
日本で傘が100円で出来ることは考えられませんが、では、中国が損をしているかというと、中国の企業が喜んで日本に輸出しているところを見ると、利益を上げていることは間違いありません。
消費者の日本人もまた破格に安い対価で商品が手に入れられるので、利益を得ています。
それでは、誰が損をしているのかというと、それは中国の労働者です。
(為替変動で通貨安になり、それでも労働者の可処分所得が上がらない場合、労働者の可処分所得を上げないという操作が行われていることにより、輸出企業が儲かり、労働者が搾取されています。)
経営者が利益を上げ、消費者が商品を買い叩くことのいずれの場合でも、労働者さえ損をすれば、経営者も消費者も儲けることが出来るのです。逆に、労働者が得をして経営者が損をするケースは、赤字企業の賃金の支払いという状況でない限りありません。
しかし、「搾取は全て悪いものである」ということにはなりません。なぜなら、生物学的存在あるいは動物的存在という意味における人間にとって、搾取は、あらゆる経済活動の目的だからです。
人間にとって経済活動の目的が搾取にあるという結論がいかにあさましくとも、それが、他人より少しでも豊かになり、他人より少しでも良い配偶者を見つけ、他人より少しでも優秀な子孫を残すという人間の種族保存の本能に根差しているからには、それを完全に否定すれば、人間の存在そのものを否定することになります。
ただし、一定以上のものを否定するのは構わないでしょう。それが人間の存在の部分的否定という意味になるとしても、弱者からの反撃という意味では自然そのものであるとも言えるからです。
そうした考えから導き出される結論としては、政府の採るべき政策においては、人間の本能の発露たる搾取は、他人に容認できないほどの被害を与えている場合は懲罰して抑制するという方針が正しいのではないかと思われます。
つまり、酷くない搾取、あまり格差を生まない搾取をある程度は容認しつつも、これを超える搾取を監視して行くという姿勢が求められるのではないかということです。
中国で起こっている搾取は、日本人の関知すべきことではありません。日本は、中国への関心を、日本の安全保障および中国との貿易において日本の産業をどう守るかの行動に留めるべきでしょう。
酷くない搾取、あまり格差を生まない搾取は一般的に「適正な利益」と呼ばれるものです。例えば、ボッタクリバーの料金は適正でない利益だから搾取と言われるのであって、良心的な価格ならば、あくまでも「適正な利益」であり、一般的に搾取とは言われません。
ところが、この、ボッタクリ価格から良心的価格の間に明確な境界線はありません。すなわち、「利益」と「搾取」の違いは、一つのものを肯定的に見た場合と、否定的に見た場合の表現の仕方であるに過ぎません。あるいは、小さな搾取を「利益」と呼び、大きな利益を「搾取」と呼んでいるにすぎないのです。
適正な利益やボッタクリによって消費者ばかりが常に搾取され、あるいは、利益を上げられているわけではありません。
消費者が、ディスカウント商品を買うことで搾取側に回ることもあります。このように、搾取は一企業内だけでなく、社会全体で複雑多義に起こっています。
ケインズは、こうした少しばかりの搾取に対してではなく、格差や貧困を引き起こすほどの大きな搾取に憤りを持ったのです。
ケインズはイギリスの植民地インドに対する搾取に対しても一顧だにしなかったというマルクス主義者からの批判もありますが、言及しなかっただけで、インドに対して無慈悲であったということにはならないものと思われます。
ケインズは、民間投資を肯定的に見ていましたから、民間投資の動機となる利益もまた一定の水準で肯定的に見ていました。
しかし、利益が富裕層の株主の所得となり貯蓄に回ることによって、投機的貨幣需要(将来のためにお金を使わずに持っておこうとすること)の増大をもたらします。
「貯蓄=企業内残存投資I」ですから、企業内残存投資Iが過剰になり、よって、資本の限界効率が低下すれば、資本家は投資を手控え、消費性向が下がり、景気は悪化して行きます。
したがって、ケインズ経済学は、利益が貯蓄に回ることを回避するために、富裕層である投資家にもたらされる大きな利益を抑制することに議論の力点を置いています。
大きな利益とそれからもたらされる富裕層の投機的貨幣需要の増大を抑制する手段は、高額所得者に対する所得累進課税、法人税、相続税の強化です。
また、ケインズの思惑では、金本位制から離脱し、管理通貨制度の世の中になれば、民間の資金調達の主役の座は直接金融から間接金融(信用創造)に移るはずでした。
金本位制の下での銀行による信用創造が制限されていた昔ならいざ知らず、金本位制から脱した管理通貨制度下の現代においては、銀行による信用創造の限度は担保の範囲内で極限まで可能ですから、間接金融による信用創造機能が健在なら、富裕層の貯蓄がいざというときに役に立つとか、企業の内部留保金がいざというときに役に立つとかの、富裕層の富への集中は正当化出来ません。
ちなみに、信用創造の限度は債務者の返済能力であると言う者がいますが、これは不正確というより、何も言っていないも同然です。
「返済能力」にはこれから稼ぎ出すものも含まれますが、これから稼ぎ出すものは海のものとも山のものとも判らないのですから、金融機関が融資を審査する「決め手」になりません。
もし、金融機関に、企業がこれから稼ぎ出すものを見抜く能力があるのなら、この世につぶれる企業は存在しないことになります。
やはり、融資の「決め手」は担保しかないのです。ゆえに、信用創造の限度は担保力にあると言うべきです。
その場合、担保の主役は土地ですから、信用創造の限度はほとんど地価総額にあると言って、過言ではありません。
新自由主義者から土地がバブル経済の魔女に仕立て上げられ、マルクス主義者のマスコミから地主階級が憎まれているからといって、地価の問題に言及しない議論は卑怯としか言いようがありません。
現代の日本では、地価下落による担保力の喪失とBIS規制によって、依然として、間接金融の信用創造は妨害されています。
現代の日本で、「個人の貯蓄および企業の内部留保金という、景気の循環において本来好ましくないもの」が増大することは良いことだと、堂々と正当化されているのは、信用創造機能が破壊されていて、イザというときに間接金融が役に立たないことが周知されているという、新自由主義者が作り出して来た新自由主義体制の背景があるからにすぎません。
ちなみに、利益を得ていることは全て搾取であるということに疑問を持つ方もいるでしょう。
例えば、ビル・ゲイツが大きな利益を得たのは、人類史的な規模で利便性を飛躍的に向上させる情報技術を開発したからであって、購入した者がいくら高額の代金を払ったとしても、それは事業の偉大さへの対価であり、よって等価交換であり、搾取とは言えないという考え方です。
しかし、どんな発明も先人の発明の上に成り立っています。
ビル・ゲイツの発明も何百何千の先人の技術の積み重ねの上に成り立っているものです。その何百何千と積み重ねられた技術の対価が、いちいち発明家の手元に届けられているわけではありません。
むしろ、例えば、ノーベル賞の受賞者の人生を見れば、大概の発明家は名誉やそこそこの褒賞金で満足しています。
つまり、発明、発見、技術の革新は重要ですが、だからといって、一人で地球資源の数パーセントを独占し、他人を貧困に突き落として良い理由にはならないのです。
少数の者が貯蓄をしているだけで支出しなければ物価は上がらないので誰にも迷惑をかけないとも思えますが、そんな存在しないも同然の貯蓄はあり得ません。
必ず、その貯蓄は、これまでもケインズが言って来た通り、資本の限界効率を下げ、あるいは、資本家が資本の希少性を求めて間接金融を妨害するようになり、デフレをもたらす要因になるのです。
そのことは誰の貯蓄であろうと同じです。
よって、どんな普通の取り得の無い商売でも、搾取は搾取として、一定程度は許されるが、逆に、たとえそれが人類史的な発明、発見、技術の向上をもたらしたものであったとしても、その利益の累積が限度を超えるようならば許されないというスタンスが正しいのです。
その限度は何を基準とするかと言えば、それは社会の経済情勢や個人の経済状況を考慮した場合に、国民に沸き起こって来る感情です。基準は国民感情にしか存在し得ません。
なぜなら、絶対王政の下で、王が贅沢を尽くし、国民がどんなに貧困であろうと、国民がそれで満足しているのなら、その所得配分は適正であるという以外に無く、つまり、国民感情によってしか適正値を定めることは出来ないからです。
よって、何をどう規制するかの基準も国民の感情次第なのであり、野放しの搾取によってどんなに激しい格差社会となっていたとしても、国民がそれを望んだのなら、それは正しいと言うしかありません。
しかし、そうであるからには、逆に、国民が資本主義を維持しながらも税制や規制によって格差の無い社会を求めようとし、「利子生活者の安楽死」を望む場合は、それもまた正しいと言わなければならないはずです。