渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

R大学

2021年12月26日 | open
 
名曲「大阪で生まれた女」には
某ブクロのR大学が出てくる。
私が高校時代に毎日のように仲間
と屯していた喫茶店はR大のそば
にあった。
そこで、R大附属高校の奴等、中学
時代の同級生たちといつもいた。
喫茶店で勉強したり、情報交換を
したりするのよね。まあタムロ。
当時、別大附属に通っていた中学
の時のバスケ部で一緒だった私の
彼女(高畑充希クリソツだがもっと
可愛い)
や豊島岡女子に通う中学
時代の仲良しの女友だち
もそこに
いた。

ある時期、のちに千葉大に転任した
高校の社会科の教師が高校の学内で
トンデ
モ仕置きの折檻を励行して
いた。
それは、教科書を生徒に授業中に
音読させて、彼
が間違いと思った
読みを生徒がする
と教科書を数十
ページ手書きで丸写
し、それを
数十回ノートに書いて次回の授業
までに提出させ
るというものだった。
物理的に書ける訳がない。
書けないとどうしたか。
柔道部の部室に連れて行ってバリ
カンで丸坊主だ。
どんどん学内に野球部マッツァオ
のいがぐり頭の生徒が増えて行っ
た。
私も「読み間違え」た。
山本権兵衛を「やまもとごんべえ」
と読んで「ごんのひょうえ、で
ある。はい、お前は書き写しが
できなければ坊主」と宣言を受
けた。
おかしい。私は歴史には疎いが
読み物は好きで、私が読んだ
物では「ごんのひょうえ/ごん
べえ」という二通りの呼び方
で戦前戦中の往時は呼ばれて
いたという記載の記憶があった
からだ。
だが、出典を明らかにできず、
私の説明も空しく、強権的に
教科書写しができなければ
坊主確定となった。
私はR大そばの喫茶店で一計
を案じた。
集まる中学時代の気の置けない
男女の仲間を総動員して、教
科書の写しをすべて手書きで
分担してノートに書いたのだ。
これは教師の言の欠缺をピン
ポイントで狙ったものだ。
「自書せよ」とも「一つの
ノートに書いてこい」とも
その当該教師は言明していな
い。
見事提出して、その時に教師が
クレームをつけたら、法廷劇
のように論理の欠缺を突いて
全面展開するつもりだった。
堂々と。
そして全学で運動を組織して
その教師の暴虐と学校側の
教師横暴の野放しを粉砕する
つもりだった。

かくして、ノートは中学時代
の友人たちの支援の行動で
数日で完成した。
しかも、私の書体に似せて
仲間たちは手書きで労を取っ
てくれた。無報酬だ。東京の
心意気。
そのノートを教師に期限に
提出した。
その教師は驚くと同時に苦虫
を嚙み潰したような顔をして
私はその抑圧をクリアした。
学内クリア者は初だ。高校1年
の時の事だ。丸坊主生徒が
どんどん増殖する中でどう
にか言質の穴を突いてクリア
した。(2年後私はパンチパー
マかけて登校し、有無を言わ
さず柔道部部室で丸坊主)
物を言ったら徹底的に論理で
論破するつもりだった。
論破などではない。おかしい
ことはおかしいので、論理的
に紐解いていけば、絶対に
「無理」をしている論理を
持ってくる側が敗北する。

そして、私は全学の裏での期待
を受けて報復戦を組織した。
ある晩、その教師の自宅の電話
が鳴り響く。
ちょうど丑三つ時だ。
奥様が電話に出ると、電話口
からは坊主のお経が流れてくる。
これが数か月毎晩連夜続いた。
実行犯は誰がやったかなどは
判明しないし、私も知らない。
私はその作戦計画を練っただけ
で実行者は各学年の仕切り人
に任せた。3学年全学行動だ。
私は共謀共同正犯だ。
奥様は心底参ってしまい、夫で
ある教師を詰問して糾した。
「あなた。貴方は学校で何を
やったのか」と。
当然、教師がやった事は当時と
しても犯罪である。傷害罪に
あたる。われわれ生徒の行動
も当然法に触れる。
だが、教師はある時教壇で
「敗北宣言」をした。
「負けた負けた!お前らには
負けた」と(ママ)。
「もう二度と教科書写しと
坊主にしたりはしない」と。
当たり前だ、たわけ。
だが、私は追撃戦を計画した。

高校2年の学園祭用に映画を
撮影した。
私は演出担当で、親友のS特進
のクラスメートから撮影の描写
の全権委任を受けていた。
フェリーニに影響を受けた作で
高校生の主人公が遅き自我の
目覚めと人間疎外に悩み、そし
て闇夜に走り出す、という作だ。
盗んだバイクで走り出しはし
ないが、バイクで走る高校生
との接触で主人公が疎外感を
感じるシーンは近所の本郷高校
の生徒に出演してもらった。
この作品は「高校生が面白い
映画を撮っている」と東大で
話題になり、東大五月祭で
東大学祭期間中にフィルムを
われわれが貸し出して上映され
ていた。無声映画。
私は雀卓を囲むシーンで、
メンタンピン三色ドラドラで
あがる役でカメオ出演している。
その作品の最初のテロップで
私は書いた。私が書いた。
「この作品はフィクションです。
実在の人物団体とは一際関係
ありません」
と。
そして、その丸坊主強制教師を
「人の尊厳を解さぬ教師」役で
出演させた。
出演オファーは監督がうまく
やった。
ただ、黙って、取調室のような
部屋で主人公の生徒が何かを
訴えているのに、にやりとしな
がら不遜な顔で手を組んでただ
頷いているだけの役だ。
私の仕込みはテロップのトラップ
だった。
ラッシュは出演教師も全員で
観たが、その時に私の担任の
現国教師は「おい、イッサイが
一切でなく一際になってるぞ。
誤字だろう」と言った。
その時、敵もさるもので、例の
ターゲットの坊主教師はニヤリ
として私を見据えて黙して語ら
ずだった。
その坊主教師が「誤字だ」と口
にしたならば、「いえ先生。これ
はヒトキワでございます。読み
間違いですか?どうなさいます
か?」とバリカンを目の前に
出すつもりだった。
これは用意周到にバリカンも
密かに用意していた。
プランCでは全学占拠バリスト
も計画していて、その教師の
坊主強制の横暴を弾劾し、職員
会議において処断させる大衆
団交を組織する手はずだった。
そして、血盟者は全員同意した。
当然報復で内申書はゼロになる
可能性もある。
もしかすると機動隊導入で退学
になるかもしれない。
血盟者たちは大検を取得して
学力だけで試験を突破し大学に
合格をするつもりでいた。
これは、すべて組織的に水面下
で計画された。
第一、監督の生徒自体が国際
組織第四インターナショナル
の奴だった。ナチズム的な暴虐
に対してはレジスタンス的な
権謀術数の徹底抵抗戦線での
実力行使は当然にして張りめぐ
らす。私はしかるべき国家権力
介入の際の局地防衛の戦闘配置
等を組織する防衛委員長の役目
を隠密で担っていた。
すべては水面下のフラクション
による決定だ。用意周到にそれ
は計画されていた。

だが、その坊主教師は作品まで
作っての大掛かりなトラップ
まで仕掛けたその企みを見抜
いたようで、一切誤字指摘を
言葉では言わなかった。
一点突破の全面展開は思わぬ
ところで肩透かしとなった。
所詮、いくら抵抗戦線を築こう
としても高校生の稚拙さだった。

作戦はスカったが、われわれ
が作った映画はごく狭い文京
区内では人気を得た。東大の
学際でもウケは良かったようだ。
われわれの高校の文化祭上映で
は「自慰行為シーン」がある
ために見てられないとして
会場を飛び出した女子高生も
いたが。

その坊主教師はその後、うちの
高校を見限って国立千葉大の
大学教員になった。
担任だった現国教師もうちの
高校を離れて開成高校に転任し、
そして開成で副校長(教頭)に
までなった。元早大ブントの
叛旗派で年は私のちょうど10上。
「君たちは僕のこのくだらない
講義を聴いているくらいならば、
学校サボって鎌倉でも行って
海でも見て世を考えたたほう
がいい」と教壇で言ってた
教師だ。私は翌日実行した。
また、今では考えられないだ
ろうが、その教師の自宅に
呼ばれて、奥さんの手料理で
私のバイク仲間の友人ともども
歓待してくれた。
「いけるクチなんだろ?」と
サントリーローヤルとオールド
のダルマどっちがいい?と言わ
れて三人で教師自宅で痛飲した。
そういう時代だった。
だって、教師が生徒を強制的
に文字読み間違いしたら丸坊主
にするような時代だから。
都内の進学校でもそれだった。
ちょい前の中学の時などは、
教師が生徒を廊下に正座させて
グーでスボコ殴りなどは当たり
前だ。1970年代は。
暴力の時代。
そして、暴力と抵抗の時代。
それが1970年代だ。
あの私たちの映画を製作した
スタッフの生徒の多くは都の
西北の杜の大学に進んだ。
だが、ほぼ全員が中退。国内
では中退者が異様に多い大学
でもあったが、主人公の奴な
どはその後、やはり大学やめて
写真家になって東南アジアを
放浪してアジアの子どもたち
を撮影してちょい有名な写真家
になっていた。
また、中退後に本物の陶芸家
になった奴もいれば、謀略好き
からか音楽関係でちょい名の
あるプロデューサーになってる
やつもいる。

そしてR大。
ここは戦略的にオルグに入って
駐屯した。
しかし、オルグしきらんやった。
白金スチャラカ学院大やブルー
マウンテン大とは異なる独自の
気風のある大学で、常駐しても
オルグは困難だった。
高校時代からウンドのお兄さん
たちとサークルボックスで慣れ
親しんだ駿河台のチョコレート
大学とはかなり違う気風だった。
駿河台チョコ大は梁山泊だった。
それは高校時代から知っていた。

思い出深い池袋とR大。
それが名曲「大阪で生まれた女」
の原曲には出てくる。
それをレポしたブログ記事を
見つけたので思い出した次第。



 

この記事についてブログを書く
« 「枯木鳴鵙図」宮本武蔵 | トップ | 渋谷のピロシキ »