第9回
ヘクター=ネリ・カスタネダの発見も独在論的に解釈されねばならない
Ⅰ 前回の段落20の図の描き方にかんする落穂拾い
1 前回の最終段落(段落21)において、「以上述べたことと本質的に同じことがふたたび時間にかんしても反復適用されうること等々、この議論はまだまだ続きがありうるが、……」と言ったが、この時間への再適用等々の議論は、やっていると切りがないうえに、本質的には同じことの繰り返しなのでその内容も容易に推測のつくものでもあるので、これ以上は続けず、今回はむしろ、ザハヴィの議論のそれに続く部分について、少しばかり検討してみたいと思う。
2 しかしその前に、一点だけ段落20にかんする落穂拾いをしておきたい。段落20の図の制作においては、出発点が「中心をもたないのっぺりした通常の世界像」であった。そこを出発点として「しかし実は、その内部に在るとされている人間たちのうちの一人がその世界そのものを(というかおよそすべてを)はじめて開いているという異様なあり方をしていることに気づく(一体こいつは何だ?)。すると世界像に歪みが生じ、……」と続いていた。しかし、ある意味では当然のことながら、実際の順序はこれとは逆であろう。出発点はむしろ、なぜか「世界そのものを(というかおよそすべてを)はじめて開いている」捉えがたい何かであるということにこそあるだろう。それが〈私〉が存在するということの原初的な意味であろう。そこを出発点として、後になってその捉えがたい何かが、実は*「その内部にいる人間たちのうちの一人」であるという事実(これは真に驚くべきことである!)を知らされる、というのが事の成り行きだろう。もちろん、そう捉えたとしても、「……すると世界像に歪みが生じ、いびつな世界像が出来上がる」から後の、そこでの主要な論点であった部分の議論に変わりはない、とはいえるとしても、その部分の違いが気になる方々も多いに違いない。
*この「実は(in reality)」は文字どおり「実在においては」という意味であり、それゆえに話を逆にして、「実は」とはそもそも、この「捉えがたい何か」を「その内部にいる人間たちのうちの一人である」と認める世界像においてはという意味なのだ、と見ることもできる。
3 それが実際の順序だとしても、まず第一に、そのプロセスは図に描きにくい。出発点が図的な捉え方ではないからである。その「捉えがたい何か」から出発しておのれ自身をおのれから開けている世界の内部にある一存在者であると捉える(に仕立て上げる)ことは、絵で描こうとすれば最初からクラインの壺のような絵を描かざるをえないことになるだろう。そうなると、その次の、他者もまた形式上はその自分と同じあり方をしているという議論は、クラインの壺的な構造の内部に複数のそれと同型のクラインの壺的構造が存在する(それが累進する)というほとんど表象不可能なものとなることになるだろう。
4 そして第二に、この考え方の場合、ともあれまずは、〈私〉(だけ*)が存在することになるので、〈私〉の存在は他のあらゆるものと(形式的にも事実的にも)切り離されたまったく特別のものとならざるをえない。その場合、他者たちは〈私〉から開かれている世界の内部に現れる存在にすぎないのだから、いかなる意味でも〈私〉と同型の存在者である可能性はなく、もし万が一同型とみなすとすれば、それは何らかの都合で作られた一種の作り話であることになるだろう。いやそれ以前に、そもそも〈私〉の外にある実在的世界そのものが作り話であることになるはずだと思われるかもしれないが、他者以外の外界の実在性にかんしては、カント的であれフッサール的であれ、ともあれ超越論的に構成するということが可能ではあろう**。その場合、そのやり方の延長線上に他者たちの実在を位置づけることはもちろん可能ではあろう***が、そのようなやり方で、彼らを自分と同型のものと(というよりはむしろ自分を彼らと同型のものと、と言ったほうが適切だろうが)見なすことは不可能であろう。この断絶を埋めるやり方は決して見出せないであろう。
*たとえ「だけ」ではないとしても、すべては〈私〉との関係でのみ存在することは否定できない。
** たとえば、〈私〉に現れるさまざまな事象のうち、ある特定の規則に従って現れる事象を〈私〉とは独立の実在と見なす、というような仕方で。
*** たとえば、〈私〉に現れるさまざまな事象のうち、ある特定の規則に従って現れる事象を、〈私〉とは独立の存在者のうち特に心をもつ存在者とみなす(というような規則を付け足す)というやり方で。
5 これに対して、前回の私の図の描き方では、〈私〉は他人たちと同様にふつうの人間であることが始めから前提されている。問いはあくまでも、「それなのになぜかこいつだけが……」という形で立てられている。この描像においては、「なぜか一人だけ例外的な変なやつがいる!」と言ってももちろんよいのではあるが、むしろ「建前上前提されていることが現実にそのとおりに成立しているやつがなぜか一人だけいる!」と言ったほうが正確である。すなわち、本当に目から世界が見え、口の中で味を感じ、喜びや悲しみを直に感じる、何かをしようとする……等々、のやつがなぜか一人だけ存在しており、なぜか一人しか存在していない、ということである。ウィトゲンシュタインの冠の比喩を逆手に取って表現するなら、建前上はどの駒もみな冠を被っているとされているけれど、本当に被っている駒は一つしかなく、しかし一つはある!ということになるだろう。ここに見て取るべきことは、いわば例外的な額面どおりさが実現しているという事態なのである。
6 額面どおりであることが例外的であるとはすなわち、人々に平等に心や意識があるという建前上前提されている世界像は実のところは額面どおりには実現されていない、ということでもある。前回の図の描き方は、今回に新たに提示したような図の描き方によって示されるような独我論的問題が出発点を逆にして客観的世界の実在から出発しても形を変えてなお残る(残らざるをえない)ことを示している。そして、このような形で提示されることによって、この問題のもつこれまで見逃されがちであったポイントが、そこだけ純化された形で取り出されたことになるわけである。
7 今回に新たに提示したような図の描き方によって示されるむきだしの独我論的問題は、そのまま額面どおりに受け取るなら、文字どおりの意味でそれについて語るということができない。というよりも、語るということの意味そのものが成り立たないと言ったほうがよいかもしれない。そもそもそれしか存在していないのだから。にもかかわらず、あえて(あるいは何らかの無思慮から)それを語ったならば、どういうことが起こるであろうか。意外なことのように思われるかもしれないが、それはこれまで哲学の歴史において何度も繰り返し起こってきたこと、すなわち第三ステップの段階で起こることと混同されてしまうということである。この捉え方の内には、第三ステップをそれとして独立に捉える見地が内在していないために、第一ステップの段階で起こることがそのまま第三ステップの段階で起こることに読み換えられて(読み換えられたということ自体が気づかれずに)伝わってしまうという錯誤が起こりがちなのである。私の見るところでは、デカルトやバークリはもちろん、彼らを批判したカント*も、さらにその後のフッサールや大森荘蔵**なども、すべての観念論的な傾向の哲学がじつはこの混同に基づいて成立している。
*「時間と空間において在るもの(現象)はそれ自体としては何ものでもなく、たんなる表象であり、われわれの内に(知覚の内に)与えられているのでなければ、およそどこにも見出されない」(B522)といった種類のカントの諸主張は、第一人称が最初から複数形であるという一点において、カントの為そうとしたことのすべてを初発から台無しにしていると私は思う。
**とりわけ大森哲学のこの側面について、たまたまいま同時に、近刊の『現代思想』大森荘蔵特集号に載る論文を書いているので、この傾向を共有する諸議論の本質の抉り出しは大森で代表させることにして、ここではその詳述は省略することにする。
8 逆に、前回に提示したような図の描き方に従えば、「私」の主体としての用法が適用可能であるような(すなわち誤同定の不可能性が認められるような)他者の存在がいかにして可能なのかをそこから理解することができるだろう。これはすでにしてわれわれが承認している言語の「用法」の確認にすぎないのだが、その「用法」が(すなわち言語規則が)どのような存在論的前提に基づいて初めて可能になっているかということを教えてくれるはずである*。特殊な存在論的前提とはもちろん、前回の図の描き方でいえば、第三ステップにおいて作り出される矛盾を含んだ世界像に示されているもののことである。これはいわば、前段落で「文字どおりの意味でそれについて語るということ……の意味そのものが成り立たない」と言ったそのあり方そのものが、そのまま概念化され形式化され一般化されて、他の主体たちにもそのまま認められるようになる、という極めて特殊なあり方である。ここで重要な点は、第一にはなぜか例外的に額面どおりに実現しているという非概念的な端的な事実であり、第二にはそのこと自体が概念化されて一般的に反復されるという事実である。第一段階の「しかなさ」がそのような仕方で保存されるためには、それがあくまでも現実性の(実存の)しかなさでなければならない。その現実性(実存)が現実性(実存)という概念となるという点がこの問題の肝であり、もしそうでなければ、他者におけるそのことの反復実現を考えてみることもできないであろう**。
*『世界の独在論的存在構造』の255-6頁においては、超越論哲学の他者バージョンは、その外界バージョンが暗に物理法則の存在を前提にしていたのと同様に、暗に言語規則の存在を前提にしている、と言われている。
**いうまでのないことであるが、時間における〈今〉についても同じことがいえる。諸々の「今」たちのうちで〈今〉だけが現実に冠を被っている! しかし、その現実性はどの「今」にも必ず伴うとされているものなのであり、そうでなければならないのだ。
9 その例外的なあり方がそのままの形で概念化・形式化・一般化されるのでなければ、「私」の主体としての用法の誤同定不可能性が一般的に成り立つ(すなわち他者にも認められる)という事実は説明がつかないであろう。しかし、ある意味ではむしろ話は逆でもあるだろう。まさにそのことこそが「始めから前提されて」いたことでもあるからだ。なぜなら、「〈私〉は他人たちと同様にふつうの人間である」とはつまり「他人たちは〈私〉と同様にみなそれぞれ《私》である」ということだからである。ここには累進的な循環構造が認められなければならない。そうでなければ、そもそも独在性問題が人に通じて一般的な問題として(も)認められることはありえず、また独在性問題には必然的に二義性がつきまとい、必然的に矛盾が内在することもありえない。
Ⅱ ザハヴィのそれに続く議論
10 さて、本題の「ザハヴィの議論のそれに続く部分について」の「少しばかりの検討」に入りたい。読まれればわかることだが、その議論は本質的には直前の「落穂拾い」の反復となる。ザハヴィは続けて、ヘクター=ネリ・カスタネダの「彼――自己意識の論理学についての研究」の議論を自分の考察に結びつけている。「Xは彼自身(=自分)がφであることを知っている」と言うことは、彼が「私はφである」と言うことによってしか区別して表現することができないある特殊な知識を彼に帰属させることである、とカスタネダは言う。カスタネダの中心的な主張は、この意味での「彼」、すなわち「彼※」は、このように「私」を媒介とする以外のいかなる指示のメカニズムによっても分析不可能な独自の論理的カテゴリーを構成している、ということにある*。
*彼が実際に使用している記号は「※」ではなく「*」だが、それを私はここで注のための記号として使用していて紛らわしいので、ここでは代わりに「※」を使うことにする。「彼※」とはその人の「私」の視点を介在させないと正しい意味が理解できない「彼」の用法だが、日本語であれば「自分」という語を使うのが自然な場合が多い。また「少しばかりの検討」というのは、ザハヴィが取り上げているこの問題だけを検討し、関連するカスタネダ自身の議論は検討しないという意味を含んでいる。
11 以下に挙げる例文は、カスタネダ理論に基づいてザハヴィが自分自身にかんして作った例文を私が私自身にかんして作り直したものであり、それに続く説明は、この例文についてザハヴィが(『自己意識と他性』訳書22-3頁、原書10頁において)言っていることを多少説明の仕方を変えて言い直したものである。
1a. 私は私が千葉県に住んでいることを知っている。
1b.『世界の独在論的存在構造』の著者は彼※が千葉県に住んでいることを知っている。
2.『世界の独在論的存在構造』の著者は『世界の独在論的存在構造』の著者が千葉県に住んでいることを知っている。
この三つの言明は、どれも「永井均は永井均が千葉県に住んでいることを知っている」と言っているのであるから、同じことを言っているともいえるはずである。しかし、この三つの言明が言っていることは違う。1aと1bは2が真であるときに偽であることができ、逆もいえるからだ。2が真であるときに偽でありうるとは、(1aについてならば)私が記憶喪失となり、『世界の独在論的存在構造』の著者が千葉県に住んでいることを知っていても、それが私であることを知らないことが可能だからであり、(1bについてならば)『世界の独在論的存在構造』の著者が記憶喪失となり、『世界の独在論的存在構造』の著者が千葉県に住んでいることを知っていても、それが彼※自身であることを知らないことが可能だからである。2が偽であるときに真でありうるとは、(1aについてならば)私は私が千葉県に住んでいることを知っていても、私がかつて『世界の独在論的存在構造』という本を書いたことを忘れてしまっていることがありうるからであり、(1bについてならば)『世界の独在論的存在構造』の著者は彼※が千葉県に住んでいることを知っていても、彼※がかつて『世界の独在論的存在構造』という本を書いたことを忘れてしまっていることがありうるからである。
12 ここからわかることは、「私」や「彼※」と「『世界の独在論的存在構造』の著者」とは指示する対象が(世界内に並列的に存在している対象としては)同一だが、その同一対象を指示する経路が異なる(どう異なるかにかんする私自身の説明は次の段落13ですぐなされる)ため、1aや1bと2の間には(真理値の違いに現れるような種類の)意味の違いが生じている、ということである。すなわち、「『世界の独在論的存在構造』の著者」にかんして「彼は彼※が千葉県に住んでいることを知っている」と言われるとき、そこで言われていることは、当該の人物が世界内の対象の一つ(であるある一人の人物)を同定して、その人物に「千葉県に住んでいる」という述語を帰属させている、ということではないのだ。「彼※」という記法を導入することによってカスタネダが剔抉した事実は、まず、人はいかなる第三人称的特質をも経由することなしにある人物が自分であることを端的に知ることができ、次に、そのうえさらにその仕組みの働きそのものを第三人称的な言明の内部に組み込むことができる、ということである。どうしてそんなことができるのだろうか。
13 まず、どうして端的に知ることができるのか。それはもちろん独在性によって、すなわち、それ「しかなさ」によってである。ザハヴィはこれを同定を介さない根源的な直接的自己意識の存在によってであると見なしているが、そうであることはできない。人間たちがみな対等にそのような根源的な直接的自己意識を持つだけなら、それらの直接的自己意識たちのうちのどれが私自身のそれでどれが他人のそれであるかを、すなわちその直接的自己意識的存在者たちのうちのどれが私でどれが他人であるかを、識別する根拠はどこにも与えられないことになるからである。言い方を変えてもっと端的にいえば、その直接的自己意識をもつ者たちのうちにただの普通の人間ではなくなぜか私であるという特殊なあり方をした人間が存在する理由がどこにもないことになるからである。ここには、その種の仕組み(たとえば前反省的自己意識のような)の追加では決して説明のつかない別の問題、別の事実が介在していなければならないのだ。別の問題とはタテ問題に対するヨコ問題であり、別の事実とは本質(中心性)に対する実存(現実性)である。どれが私であるかを(いかなる同定も介在させずに)直接的につかむことができるのは、この実存(端的なこれしかなさ)の事実に拠っている(そしてそれ以外の仕方に拠ることは不可能である)。その端的な実存(現実性)の事実(現実にそれしか与えられていないという端的な事実)がここに介在するのでなければ、直接的な自己意識の「直接性」といわれているものがそのようなものとしてはたらくことはそもそもできない*。しかし、それがいったんそのようなものとしてはたらいた後では、その介在の仕方の型そのものが形式化・概念化されて、一般的な第一人称の働き方の型として捉えられ、さらにそれが第三人称的な言明の内部にも保存可能になるわけである。このようにして1aの「私」から、そのはたらき方を保持したまま、1bの「彼※」が生み出されることになる**。
*本質的には最初に検討した前回の段落20の図の制作過程と同じことだが、より絵画的に表現してみるならば、ここでいったん世界は、これまでののっぺりした(みんなが対等に存在する)世界から、その世界の中のある一人の人間であるはずの者から、そこからだけ、開かれる捩じれた世界へといわば裏返されなければならない。しかも、実のところはもともとそちらの世界しか与えられてない(のっぺりした、みんなが対等に存在する世界のほうはじつは理念的な構想物 (つくりもの)にすぎない)という事実に、いわば目覚めなければならない、ということになる。
**この絵画的な表現を続けるなら、本質的には前回の20の図の制作における第三ステップと同じことではあるが、現実にはそれしか与えられていない、ある一人の人間からだけ開かれた、初めから裏返されている世界のあり方が、理念的な構想物 (つくりもの)にすぎない、みんなが対等に存在する、のっぺりした世界の側に再び取り入れられ、その内部に位置づけ直されて、裏返されたあり方を保持したままで表返された世界に再び入り込むことになる、ということである。
14 このことを第4回の段落5で提示した図3と関連づけて、再考してみたい。図3は次のような図であった。
〇、△、◇、■、▽、…、
図3の世界は、現実には■が世界の開けの原点になっており、そこから世界が裏返されていることと、しかしまた■はふつうに□でもあって、そう捉えれば世界はふつうにのっぺりしてもいるということ、この矛盾したあり方が同時に表現された図であった。これを使うと、■が「私」であると同時に(それゆえにまた)「彼※」でもあることになる理由がよくわかるので、これを使って確認してみよう。まず、これを使うと先の三つの文はこう言いかえられることになる。
1a. ■は■が左から四番目の図形であることを知っている。
1b. □は彼※が左から四番目の図形であることを知っている。
2.□は□が左から四番目の図形であることを知っている。
15 この三つの言明は、どれも「□は□が左から四番目の図形であることを知っている」と言っているのであるから、同じことを言っているともいえるはずである。しかし、この三つの言明が言っていることは違う。1aと1bは2が真であるときに偽であることができ、逆もいえるからである。これは、『世界の独在論的存在構造』の著者が千葉県に住んでいることを例にした文の場合と同じことである。いずれにせよ、どうしてそのようなことが起こるのであろうか。図3で考えれば答えは簡単なことだ。この世界において■は他に性質的に同じものが存在しない唯一独自のものだが、それはその四角形性においてもその黒塗り性においてもそうであるので、それを捉える際にはその四角形性によってでも黒塗り性によってでもどちらによっても唯一無二的に捉えることができる。つまり、この世界において唯一の四角形存在であることからでも、この世界において唯一の黒塗り存在であることからでも、どちらからも捉えることができる*。それゆえ■は、四角形性によって捉えても、黒塗り性によって捉えても、同じ一つのものを捉えたことになりはするが、四角形性によっては捉えられていても黒塗り性によって捉えられていないことも、またその逆もありうることになる。このことから、1aと1bは2が真であるときに偽であることができ、またその逆もいえる、ということが容易に理解できるはずである。
*たしかに、この世界には四角形のものも黒塗りのものもその一つしかないといえるのではあるが、二つの「しかなさ」の意味は異なっており、黒塗りによる「しかなさ」のほうは独在性による「しかなさ」なので、通常ののっぺりした世界とは異なる中心化された世界を導入しないと成立しない。図3はこの二種の世界がすでに合体したものだが、近刊の森岡正博氏との共著『現代哲学ラボ・シリーズ第二巻 〈私〉を哲学する』(明石書店)259頁においては、これを二種の世界の接合による「間世界的同一性」の成立として説明しているので、そちらも参照していただけるとまことに有難い。
16 しかし、ここでザハヴィはなぜかそこをまったく問題にしないのだが、この事態の意味を根源的に理解するには1aと1bとの差異をも(むしろそここそを)はっきりと理解しておく必要がある。もとの例文でこの二つの意味は同じ(真理値が変わらない)ことが前提されているのは、1aの「私」が始めから『世界の独在論的存在構造』の著者(=永井均)が発言する「私」であることが前提されていたからである。その場合、1aは最初から1bに従属して捉えられていたことになり、1aと1bが同じ真理値になり、1aから1bが出てくることは、最初からあたりまえのことである。しかし、その仕組みを説明するためにも、何よりもまずは最初の「私」のあり方の特殊性そのものを直に捉える必要があるだろう。1aが1bに最初から従属させられてしまえば、肝心なそこのところがそれぞれの人の持つ直接的自己意識によって簡単に説明し去られてしまうことは致し方がない。その場合、話が最初から「※」のはたらきのほうから始まってしまっており、そもそもそれが何であり、それがなぜこの場合にもなおうまくはたらくのかはじつは謎のままに留まることになる。
17 「私」はまずはいきなりただたんにむきだしの黒塗り性によって捉えられるのでなければならない、じつはそれが出発点である、ということこそが問題の本質である。これは、第4回の図でいえば、図3のようにもうすでにのっぺりした客観的(第三人称的)な世界像と合体させられてはいない、図1や図2のような捉え方で捉えられなければならない、ということである。ここを出発点に置かないと、そもそも「※」のはたらきによって何が「私」から「彼」に移行してなお保持されることになるのか、という肝心な点がわからなくなる。ポイントは、「彼」に移行してもなお「私」の場合に特徴的に成立していた「しかなさ」による誤同定の不可能性が保持される、という点にある。もともとの例文は記憶を語る文なので、その記憶は内容はもちろん誤っていることがありうるが、その記憶現象(apparent memory)が与えられているのが「私」にであることそれ自体には誤ってそう捉えるという可能性がそもそもない。このことそれ自体が「彼」に移行してなお保持されるということが「※」の意味でなければならない。
18 独在性は奇跡的な事実であるから、図3の■の成立もまた奇跡的な出来事であり、なぜそれがたんに普通に□でなく■なのかは決してわからないのではあるが、成立根拠が理解不可能なその「しかなさ」が、その無根拠性・奇跡性を保持したまままで、〇や△や…に移行してもなお保持されるのでなければならないのだ。それゆえ、この理解は「※」や一般的な直接的自己意識から始まることはできない*。前回の段落20の描けない図でいえば、これは「この異様さを一般化してみんなに分け与える」第三ステップの成立に相当しており、そこで述べた「異様な突出者は一つしかないという当初の真実と、それと同じものが複数個存在しているという別の真実が共存」する世界がそこで成立することになる。これがすなわち※の力に対応することになるのだ。そこで書いたように、この第三の世界像を認めたとしても、現実にはそのどれかから開ける視点しかありえず、その一つが現実であるならその他はじつは非現実(それぞれがみな現実であると僭称する非現実)であるほかはないのだが、その奇異な実情は必ず各人と相対的(相関的)に存在する主観性という問題に矮小化されて理解されることになる。
*これは、前回の段落19において「分裂の思考実験」について論じたことにも対応している。〈私〉の存在という事実を参照することなしに分裂の思考実験の哲学的含意を理解することは不可能であることに示されているように、独在性の直接的な理解ぬきには一般的な「私」の主体としての用法(における誤同定の不可能性)の根拠を理解することはできず、また「彼※」の意味も理解できないであろう。しかしまた逆に、分裂の思考実験の客観的な理解や、「私」の主体としての用法や「彼※」の意味の客観的な理解を欠いては、〈私〉の存在の奇跡性の意味も理解できないのだ。
19 この第三の世界像の場合、まずは〇や△や□から出発して、あくまでもそこを基盤にして、「彼※」でそれが黒塗りに変わるので、一見したところでは確かに、そこには反省的な自己意識のごときものがはたらいているように見える。しかし、〇や△や□がそのまま自己を反省したところで、それだけで※のはたらきが生じるわけではない。〇であれ△であれ□であれ、自己を(ただそれだけが)そこから世界そのものが初めて開けている唯一の原点である!として捉えざるをえない(と想定できる)のでなければ、※のはたらきなどが生じるはずもないだろう。そこにおいて世界の捉え方の完全な転換が起きなければならないのだ。その「原点性」への、すなわち「しかなさ」への引き戻しこそが、※の真の意味であるほかはない。
20このことは〇にも△にも□にも、だれにでも対等に起こることになったわけだが、それでもなお、現実にはなぜか唯一これだけに起こっている、という捉え方が必ず成立していなければならず、そしてしかし、そこで起こる実存(現実性)の自覚からその形式を借りて、その形式そのものを反復して、このだれにでも対等に起こることが初めて可能になってもいる、という矛盾的・循環的構造こそが不可欠なのだ。だから、これは誰にでも起こることであるにもかかわらず、けっして対等に平板に捉えるということができないという宿命を負っていることになる。カスタネダの※にはそういう秘密が隠されているのだ。