―国立大学の役割と存在の意味―
2021年8月25日
「岡山大学を正常化する会」
代表 森田 潔(岡山大学前学長)
このたび、岡山大学の教職員有志を中心とした「岡山大学を正常化する会」が発足しました。現在、全国の国公立大学では様々な問題が起こっており、残念ながら岡山大学も例外ではなく、大学そのものの存在価値を問われる危機的な状況に遭遇していると認識しております。
本来、大学が果たすべき使命を真に担うのは、優れた大学人そのものであり、各学問領域において教育、研究、社会貢献を行う学部、研究科、部局を構成する個々の教職員とそこに集う学生こそが大学の主役であります。そして、大学は、学内民主主義によって運営されてこそ大学の価値を高め発展させることが可能となります。現学長及びそれを支える数名の大学執行部は、日本という民主主義を奉じる国家において、大学の存在そのものの意味を決定づける大学自治と学内民主主義の大切さの基本的な認識の欠如をもって、あたかも現大学法人法においては、自分たちにすべての権力が委ねられているかのごとく間違った解釈で大学を運営し、現在の岡山大学の劣化を伴う深刻な問題を発しているものと思われます。
大学における優秀な人財の活用、登用は、大学の存在価値そのものが問われる死活問題と言えます。研究科、学部の人事においては、その講座の研究、教育を担うべき優秀な人財を、各部局がそれぞれの学識をもって学内民主主義の下に選考し、その結果を最大限尊重して任命の任を果たすのが学長の務めであります。そもそも学長個人の力量として、大学のすべての学問領域、研究領域を理解できるような学識や十分な根拠をもってその優劣を判断できる能力など持ち合わせているはずもありません。学長が恣意的に権力を行使して、個人的な感情をもって人事を行っている岡山大学の現状は、危機的な状況におかれていると言わざるを得ません。
現学長が、これまで各所に行使してきた、また行おうとしている恣意的な人事行為は、当人の担当能力をはるかに超えた不適切な人事が含まれ、将来に大きな禍根を残すものでもあります。また、昨今、行われた岡山大学病院長、医学部長、教授選考に見られる実態は、法の下で学内民主主義をもって適切に選ばれた部局の人選を現学長および執行部が恣意的に無視し、自らへの距離感をもって人事を行っています。このような状況は、教職員の精神的萎縮をもたらし、岡山大学の研究、教育、社会活動の劣化を招き、大学評価ランキングのこれまで以上の低下につながると危惧しております。
また、現執行部が就任以来打ち出している聖域なき人事凍結の施策は、教職員の士気を下げ、大学の機能劣化を著しく招いており、執行部の権力の温床にもなり、悪循環をきたす最大の要因ともなっています。現在、国立大学がおかれた経営的環境は当然厳しいものであり、人事政策は大学の帰趨を左右する非常に重要な位置づけであります。しかし、運営費交付金の減額をもって学内の人事を凍結、人件費を絞り込もうとする発想は、いわば家庭の家計簿管理の発想であり、学内教職員の士気と活動力を著しく低下させ、大学の真価を創造している主役は誰であるのかという基本的な認識を欠いており、本来、大学がとるべき施策ではありません。岡山大学は、競争的学外資金を獲得できる無形の教育、研究資産と優れた人財を豊富に有しており、また岡山大学には100億円にのぼる現金資本資産、また他大学に類を見ない広大なキャンパスを市街地に有する巨大な固定資産もあり、経営手腕を発揮して学内の士気を高め、大学の発展に必要な資金を獲得することこそ学長および執行部の行うべき仕事であります。
学校教育法第九十三条においては、「教授会は、学⻑等がつかさどる教育研究に関する事項について審議し、及び学⻑等の求めに応じ、意⾒を述べることができること」とされ、教授会は意思決定機関ではないとされています。国立大学法人法第十一条で学長には、「大学の長としての職務を行うとともに、国立大学法人を代表し、その業務を総理する」とあります。法律の解釈しだいでは、学長に大きな権限が付託されているようですが、法人法第十二条には、「学長の選考は、人格が高潔で、学識が優れ、かつ、大学における教育研究活動を適切かつ効果的に運営することができる能力を有する者のうちから、学長選考会議が定める基準により、行わなければならない」と学長の資質について義務規定として厳しく定めており、学長の職務権限行使の大前提となっています。
一役員が、学長選考に際して教職員による意向調査の実施や、学内人事における学内民主主義を否定して、「社長を選挙で選ぶ企業があるでしょうか」と発言しています。“利潤”の追求こそが社員の最大の共通目標であり、株主総会という最高意思決定機関が別途存在する企業と、国家・国民のために学術研究をし、社会に貢献する人財を育成することを目的とした公的機関の国立大学との根本的な違いを理解しているとは思えない発言であります。国立大学がその使命を果たすためには、ある程度保障された学内自治と学内民主主義は何より大切であり、それが大学の自由闊達で生き生きとした教育・研究環境を生み出し、大学の発展と存在する意味をもたらすものと思っております。
日本における人口減少、少子高齢化、特に大学に入学する18歳人口の半減化に直面する国立大学に向けられた「国立大学には文系学部は要らない」とか「国立大学は、現存の半数の数で足りる」といった行政から加えられる圧力に対して、岡山大学は、これまで常に対峙する姿勢で臨んできました。優秀な役員の力を結集し、また学内の教職員に相当の努力をいただきながら数々の競争的資金や寄付を獲得し、学内教育改革を行いながら、大学を改革、開放に向かわせ、自由闊達な精神を元に国際化を進めることで、持続的な発展を支える力を備えてきました。いかに岡山大学を強くして独立精神を貫き、学生とともに誇りある大学を築くことができるのかが、大学人たる岡山大学構成員全員の思いでありました。
これまでにも、岡山大学には、アンブレラ方式などによる他大学と合併を促す提案が常に出ておりました。このような状況下において、現執行部には岡山大学の独立性と誇りを担保し、教職員、学生および同窓生が納得できるような正しい方向性を提示し、決断、対処することができ得るのか大変憂慮する状況と思います。
昭和27年の創立以来、広島市民の医療を中心的に担い、岡山大学関連病院の中でも最大で、岡山大学の力の象徴でもあった広島市民病院の院長職を、今回初めて広島大学の元教授が就任すると言うことになったのは、広島大学と岡山大学の学長および広島市長との三者会談の交渉の末であり、その過程から学長の資質の差が明らかに表れた結果といわれております。
大学は、教職員が心を一つとして、各々の存在価値を認めあい、互いを尊敬してこそ、その力を結集できるものと思います。それを支えるのは学内の民意を最大限大切にして、その涵養を図ることにより、裾野から力を蓄えていくという学内民主主義の姿勢だと思います。学長とは、品格と高潔さを持ち、学識の広さから多数の教職員の尊敬をもとに、意見は異なっても優秀な役員とともに大学の進むべき方向性を的確に示し、そして最終決断を実行することで、学生、大学院生、同窓生、留学生、研究生、そして教職員、岡山大学に関わる全ての構成員に誇りと尊厳をもたらすことが使命であります。それほどの重責であり、それこそが、国立大学の学長ガバナンスの正しい位置づけと思います。
私は、前学長としてすでに公職を辞した人間であります。退任したアメリカの大統領は公的な場では政治的な発言を控え、物言わぬ習わしのごとく、一度退いた人間と現在を担う人間は、公の場では互いを批判するべきではなく、歴史が功罪を決めるべきであります。しかし、現学長とそれを支える数人の執行部の言動と行動は、歴史を待つことなく前時代を中傷、誹謗することで自分たちの活動を正当化するという手法を用いています。その結果が、良い成果をもたらすことなく、憂慮すべき岡山大学の現状を招いていることを鑑み、私は声を上げる決心をいたしました。アメリカのトランプ前大統領に対して、退任したオバマ元大統領が慣例を破って、公の場で政権を非難する活動を開始したと同じ気持ちであります。彼ら現執行部の言動、行動は、当時の役員、執行部、またそれを支えていただいた教職員、学外有識者の方々に対する非難であり、しかも、非難するかつての共同責任を有する役員に自分自身が存在していたという欺瞞に、時代を支えてきた皆さんに大変非礼であると確信したからであります。
教職員からの悲鳴、不安の声が私の耳にも未だ日々届いてくる現状、それが日増しに大きくなっている現状に心を痛めております。岡山大学を心から誇りに思う一人のOBとして、現在岡山大学に籍を置かれている教職員の皆様、また、岡山大学に対して責任ある立場でもある学外有識者の皆様、ぜひ現状の問題と今後の岡山大学について真剣に考えていただきたく、今こそ、岡山大学に刷新が必要な事態に直面していると信じております。
このホームページで、多くの方々が岡山大学の現状を正当に認識していただき、「正常化」に向けて考えていただき、自ら発信してくださることを願っております。これからも、岡山大学の正常化に向けて、私自身も皆様に発信を続けていきたいと思っております。そのような意見が重なり、大きな声となり、やがて山として動けば、必ずや岡山大学は本来の力を発揮して、独自の存在感を持つ素晴らしい国立大学に発展すると期待しております。