冷戦(読み)れいせん(英語表記)Cold War

翻訳|cold war

日本大百科全書(ニッポニカ)「冷戦」の解説

冷戦
れいせん
Cold War

第二次世界大戦後、相対立するイデオロギーアメリカ合衆国、ソビエト連邦の二大国が、核戦力を背景に世界的規模で対決し、ときには熱い戦争Hot Warにまで発展した国際政治上の現象。「冷戦」ということば自体は、アメリカの政治家バルークBernard Mannes Baruch(1870―1965)が演説で用いたものを、同じくアメリカの代表的な評論家リップマンが連載記事の題にして以来、常用語として定着した。「冷たい戦争」ともよばれる。

[藤村瞬一]

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第二次世界大戦末期から連合国のアメリカ、イギリスとソ連との間に相互不信が芽生え、1945年のドイツ降伏後、ヨーロッパの戦後処理をめぐって対立が顕在化した。西側からの冷戦の先触れとしては、1946年のイギリス首相チャーチルの「鉄のカーテン演説」、アメリカ国務長官バーンズの「シュトゥットガルト演説」などがあるが、本格的な冷戦の開始宣言は、1947年の「トルーマン・ドクトリン」「マーシャル・プラン」の発表であろう。とくに内戦下のギリシア、トルコへの援助を宣言した「トルーマン・ドクトリン」は米ソの対立を鮮明にした。

 またアジアでも、朝鮮半島の南北分裂国家の誕生(1948)、国共内戦後の中華人民共和国の成立(1949)など、緊張の舞台は拡大した。

[藤村瞬一]

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1948年のチェコスロバキアのクーデター「チェコ二月革命」による共産党の政権奪取は、西ヨーロッパ諸国に衝撃を与えた。また、この時期最大の緊張は、ドイツ占領4国のうち、アメリカ、イギリス、フランスの通貨改革に抗議したソ連による、1948~1949年のベルリン封鎖である。これに対しアメリカは、ただちに大規模な空輸作戦で対抗し、一触即発の危機を迎えた。ついでアメリカは、イギリス、フランスなど西側諸国12か国と1949年に北大西洋条約機構(NATO、ナトー)を成立させ体制を固めた。この年ドイツは東西に分裂、それぞれ米ソ二大陣営に組み込まれた。一方、ソ連側も1955年に東欧7か国とワルシャワ条約機構を設立し、ヨーロッパは二分された。

 この間、アジアでは南北に分断された朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)した(1950~1953)。中国に支援された北朝鮮と、米軍を中心とする国連軍が激しい戦火を交え、双方に数十万の戦死者(一般市民を除く)を出した。

[藤村瞬一]

第一次緩和目次を見る

このころアメリカの核の独占は1949年のソ連の原爆保有宣言により崩れ、それどころか水素爆弾の開発ではソ連が優位にたった。また、1953年ソ連の独裁者スターリンの死去、朝鮮戦争の休戦協定、1954年インドシナ戦争の終結を迎えて、アメリカ側に緊張緩和を受け入れる姿勢がみえてきた。1955年、久しぶりの米英仏ソ四大国首脳会談が開かれ、世界から「ジュネーブの雪解け」と歓迎された。この時期のソ連の指導者フルシチョフは、核ミサイルの対米優位を背景に平和共存を訴えつつも、ソ連外交の舞台を中東、アフリカ、中部アメリカに拡大していった。

[藤村瞬一]

第二次緊張目次を見る

1961年、大統領にケネディが就任すると、アメリカはソ連に対し厳しい姿勢を示した。これに対しフルシチョフも譲らず「ベルリンの壁」を構築、続いて数十メガトン級の水爆実験を連続して行い、ソ連優位を示した。加えて1962年にキューバにミサイル基地を設けアメリカ国民を驚かせた。対するケネディは、さらにミサイルが搬入されるのを阻止するためキューバ海域を封鎖し(キューバ危機)、米ソはあわや核戦争の寸前まで至ったが、ソ連の譲歩でことなきを得た。

[藤村瞬一]

第二次緩和目次を見る

キューバ危機が過ぎると、一転して米ソは歩み寄った。それは東陣営では中ソの対立が激化し、西陣営ではフランスのドゴールが独自路線をとり始めたからである。加えてアメリカは、ケネディ時代に本格的に介入したベトナム戦争(1961~1973)で民族解放戦線の抵抗に手をやき、米ソは冷戦の休戦を強いられたのである。

 1969年に西ドイツ首相に就任したブラントは「東方政策」を行い、1970年ソ連とソビエト・西ドイツ武力不行使条約、ポーランドと国境承認条約を結び、1972年東西両ドイツ基本条約を成立させるなど、もう一つの緊張緩和をもたらした。これを受け、1972年米ソ間でもニクソン、ブレジネフの間で戦略兵器制限交渉(SALT、ソルト)の合意が成立した。長い間対立していた米中両国も、同年のニクソンの訪中を機に、1979年の国交回復へとつながった。また、ヨーロッパの緊張緩和は、1975年ヘルシンキに東西35か国が集まったヨーロッパ安全保障協力会議(CSCE。1995年よりヨーロッパ安全保障協力機構=OSCE)で最高潮に達した。

[藤村瞬一]

最後の緊張と終結目次を見る

1981年にレーガンがアメリカ大統領に就任すると、アフガニスタンに派兵していたソ連を激しく非難、ふたたび米ソ間は険悪となった。とくにアメリカによる中距離核戦力(INF)の配備決定はソ連を刺激し、戦場となる西ヨーロッパからも反対の声が高まった。

 しかし、ソ連の実力者ブレジネフの死去(1982)後、1985年に指導者となったゴルバチョフは、国内にペレストロイカ(改革)路線を進め、対外的にはアフガニスタンからソ連軍を撤退(1988)させた。これに対しアメリカ側も態度を軟化させ、1987年中距離核戦力全廃条約に調印。さらに1989年、アメリカ大統領に就任したブッシュは、通常戦力の規制のためのヨーロッパ通常戦力条約(CFE条約)、危機回避のための信頼・安全醸成措置Confidence and Security Building Measures(CSBM)の交渉を推進するなど、軍縮の動きは急速に進展していった。同年12月マルタ島での米ソ会談でG・H・W・ブッシュ、ゴルバチョフ両首脳は劇的な「冷戦終結」の共同宣言を発表、1990年ドイツ統一、1991年ソ連崩壊を経て、第二次世界大戦後45年続いた冷戦は終結した。

[藤村瞬一]

『『岩波講座 現代6 冷戦――政治的考察』(1963・岩波書店)』『D・F・フレミング著、小幡操訳『現代国際政治史――冷たい戦いとその起源』1~4巻(1966~1970・岩波書店)』『L・J・ハレー著、太田博訳『歴史としての冷戦』(1970・サイマル出版会)』『金学俊著、鎌田光登訳『朝鮮戦争』(1989・サイマル出版会)』『船橋洋一著『冷戦後』(1991・岩波書店)』『松岡完著『1961 ケネディの戦争』(1999・朝日新聞社)』『松本重治編『世界の歴史16 現代――人類の岐路』(中公文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「冷戦」の解説

冷戦
れいせん
Cold War

第2次世界大戦後,アメリカとソ連,およびその同盟国の間で展開された公然の,しかし限定的な敵対関係。冷戦は政治的,経済的,および宣伝工作の前線で戦われ,実際に武器をもって戦う場面は限られていた。「冷戦」という言葉を初めて用いたのは,アメリカの大統領顧問であったバーナード・バルークで,1947年,議会でこの言葉を使っている。第2次世界大戦の終結が近づき,ナチス・ドイツが 45年に降伏すると,アメリカ,イギリスとソ連の同盟関係にゆるみができ始めた。ソ連は 48年までに,東欧の各国に左翼政権を成立させつつあった。アメリカとイギリスは東欧が永久にソ連の支配下におかれ,またその影響を受けた共産勢力が西欧で権力の座につくことを恐れた。一方,ソ連は今後ドイツが新たな脅威になったときのそなえとして東欧の支配を固める決意をしており,また共産主義を全世界に広げようとしていた。
冷戦はアメリカがマーシャル・プランによる復興支援を通じて各国をアメリカの影響下に置き,ソ連が東欧に公然と共産主義政権を樹立した 47年から 48年にかけて,もはや動かぬ流れとなった。冷戦は 48~53年にかけて頂点に達した。この間,ソ連は西ベルリンを封鎖 (48~49) ,アメリカと同盟国はヨーロッパにおけるソ連の脅威に対抗する北大西洋条約機構 NATOを創設 (49) ,ソ連が初めて国産核弾頭を爆発 (49) させ,アメリカの核兵器独占に終止符を打った。中国では共産党が権力を掌握 (49) し,ソ連が支援する北朝鮮の共産主義政権が 50年,アメリカが支援する韓国を侵略し,朝鮮戦争が勃発した。冷戦の緊張は 53~57年にかけていくぶん緩和されるが,それはおもにソ連の独裁者スターリンが 53年に死亡したためである。以後も東西のにらみ合いは終らず,ソ連圏に属する諸国の統一軍事組織,ワルシャワ条約機構が 55年に創設され,また同年,西ドイツの NATO加盟が認められている。
冷戦が再び緊張をはらんだのは 58~62年にかけて,米ソ双方が大陸間弾道ミサイルを開発し,62年,アメリカの都市を核攻撃できるキューバにソ連がミサイル基地を建設しはじめたことによるキューバ・ミサイル危機が発生 (62) し,両超大国は戦争の瀬戸際まで行った。この危機は,米ソ双方とも核兵器を使用する覚悟ができていないことを明らかにした。ほどなくして,両国は 63年,大気圏内・宇宙空間・水中の核兵器実験を禁止する核実験禁止条約を結んでいる。米ソ双方は冷戦期を通じて,ヨーロッパでの直接的な軍事対決を回避し,実際の戦闘行為は同盟国が相手方に寝返るのを阻止したり,かつての同盟国を転覆させる場合に限られていた。こうしてソ連はその国の共産党政権を維持するため,部隊を東ドイツ (53) ,ハンガリー (56) ,チェコスロバキア (68) ,アフガニスタン (79) に送った。アメリカもまた,グアテマラの左翼政権転覆 (54) に手をかし,キューバ侵攻 (61) を支援し,ドミニカ共和国 (65) とグレナダ (83) に侵攻し,共産主義の北ベトナムが南ベトナムを支配下におくのを阻止するためベトナム戦争を行なった。
しかし,60,70年代と進むにつれ,米ソの2極構造は国際関係におけるより複雑なパターンへと席を譲り,世界はもはや2つの明確に敵対するブロックに分けることができなくなった。主要な分裂は 60年,ソ連と中国の間で起り,両者の亀裂は年ごとに深まり,共産圏の団結を打砕いた。一方,西欧と日本は 50,60年代にダイナミックな経済成長を達成し,アメリカの優位が低下した。国力の乏しい国々も超大国の脅しにしばしば抵抗するようになった。 70年代の緊張緩和は,72年と 79年にそれぞれ第1次と第2次の戦略兵器制限条約 SALTが調印されたことに典型的に現れている。しかし,80年代初めに新たな緊張の時代が到来し,両国は大規模な軍備増強を続けるとともに,第三世界に対する影響力を競った。冷戦が終結への一歩を踏出したのは,ソ連の新指導者ゴルバチョフが政権の座についた 80年代末であった。彼は体制の全体主義的側面を取除き,政治制度の民主化に着手した。ソ連圏に属する東欧諸国の共産党政権が 89~90年にかけて崩壊したときも黙認した。また,東ドイツ,ポーランド,ハンガリー,チェコスロバキアで民主政権が権力の座についてまもなく,東西ドイツが NATOの庇護のもと統一を果したが,このときもソ連は異を唱えなかった。この間,ゴルバチョフの国内改革は彼の率いる共産党を弱体化させ,権力がロシアなど旧ソ連を構成する各共和国に移行するのを許すことになった。 91年末,ソ連は崩壊し,その灰燼のなかから 15の新たな独立国家が誕生した。そのなかには,民主的に選挙された非共産党員の指導者をもつ新生ロシアも含まれていた。こうして冷戦は終った。

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知恵蔵「冷戦」の解説

冷戦

米ソの対決が、軍拡競争、イデオロギー対立、諸地域の政変・内乱・ゲリラ活動などと結び付きながら進行した国際的緊張状態。現実の戦争(hot war)と対比した表現。その第一次元は、米ソ対決。両国はブロックの頂点に立ち、核兵器体系をもって対峙(たいじ)した。自己の体制の優位を確信し、相手方を国内的には抑圧的、対外的には攻撃的とみるイデオロギーを信奉。第二次元は、第2次大戦後の欧州や旧植民地地域などで頻発した、体制選択をめぐる政変や内乱。冷戦は米ソ対決と地域・国内の流動状況とが連動して激化していった点が特徴で、「国際的内戦」と形容された。まず1940年代後半に欧州で開始。50年代半ばより断続的に交渉や対話を模索する緊張緩和(デタント)が生じ、軍事的にもNATOとワルシャワ条約機構(WTO)との対峙に固定化した。ところが第三世界では、冷戦の前線が極めて流動的で、米ソの介入がしばしば危機を生んだ。その頂点はキューバ危機で、核共滅の瀬戸際を体験した米ソが平和共存に転じる契機となった。アジアでは、朝鮮戦争、ベトナム戦争を焦点に米中対立を軸に冷戦が持続。70年代に入ると米中が接近し、多中心化が進んだ。70年代後半、カンボジア、ニカラグア、エチオピア、アンゴラなどで紛争が生じ、79年のソ連のアフガニスタン侵攻前後から米ソは対立を深めた。81年、米レーガン政権は軍拡と限定核戦争論を掲げ、欧州を中距離核戦力(INF)による核の戦場と想定。この70年代末から80年代前半の米ソ対決と地域紛争を、新冷戦と呼ぶ。これは軍事対決の性格が濃く、米ソが他国のモデル国家として権威を失墜した点に特徴がある。

(坂本義和 東京大学名誉教授 / 中村研一 北海道大学教授 / 2007年)

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百科事典マイペディア「冷戦」の解説

冷戦【れいせん】

cold warの訳。第2次大戦後の米ソ両国間および両国を中心とする二大勢力の対立状態。この用語は1947年―1948年ころから使われ始めた。実際の戦争手段にはよらないが,背後に核兵器をかかえた〈恐怖の均衡〉状態で,単なる国家的対立ではなく,資本主義と共産主義というイデオロギーの対立でもある。1991年のソ連邦解体により冷戦は終結したといわれる。もっとも,民族・人種対立の表面化,南北ギャップの増大,資本主義的格差の世界化など,〈ポスト冷戦〉状況がどのような展開を示すか不明確なことも事実である。→デタント
→関連項目アメリカ合衆国衛星国SDI北大西洋協力会議クライバーン国際連合国連軍シュワルナゼ信頼醸成措置ソビエト連邦第2次世界大戦鉄のカーテン東欧革命ドミノ理論トルーマントルーマン・ドクトリンNATO非同盟諸国会議封じ込め政策ベルリン問題防衛計画大綱巻き返し政策マクミランU2型機事件ヨーロッパ安全保障協力機構

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旺文社日本史事典 三訂版「冷戦」の解説

冷戦
れいせん
cold war

第二次世界大戦中の反ファッショ連合が解体して,米ソの対立が表面化した1947年以降の現象
武力による全面戦争を「熱い戦争」(hot war)と呼ぶのに対し,宣伝と浸透,間接的な経済的・軍事的圧迫手段による戦争をいう。アメリカの評論家W.リップマンが最初に使用。1947年3月のトルーマン宣言,6月のマーシャル‐プランの発表に対し,ソ連と東欧6カ国などはコミンフォルムを結成して,国際関係が緊張した。アメリカの対日占領政策もその中でしだいに変化していった。'90年代初めのソ連・東欧圏崩壊によって終結した。

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デジタル大辞泉「冷戦」の解説

れい‐せん【冷戦】

cold war》武力は用いないが、激しく対立・抗争する国際的な緊張状態。第二次大戦後の米・ソ二大陣営の厳しい対立を表した語。人間関係などに用いる場合もある。冷たい戦争。
[補説]顕在化したのは1947年のトルーマン‐ドクトリンからとされる。1949年のドイツ分裂とNATO成立、1962年のキューバ危機など幾度かの国際緊張をもたらしたが、1989年、マルタ島において米国G=H=W=ブッシュ・ソ連のゴルバチョフ両首脳が冷戦終結を共同宣言した。

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精選版 日本国語大辞典「冷戦」の解説

れい‐せん【冷戦】

〘名〙 (cold war の訳語) 国際間における経済・思想・宣伝など、武力によらないはげしい対立抗争。第二次世界大戦後の造語で、米国とソ連の間の対立関係を称したことに始まる語。冷たい戦争。コールドウォー。また、人間関係などで、それに似た状態にもいう。
※ボロ家の春秋(1954)〈梅崎春生〉「すでに戦ひは冷戦の様相を呈し始めて来たのです」

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世界大百科事典 第2版「冷戦」の解説

れいせん【冷戦 cold war】

第2次世界大戦の終了後,アメリカとソ連はしだいに厳しい緊張関係に陥り,双方が参加する戦争をも起こしかねない緊迫した敵対関係が続いた。この対立はほぼ世界の全体に及び,戦後の国際政治の基本的な対立軸を形成した。この状態を,実際に撃ち合う戦争〈ホット・ウォーhot war〉と対比して一般に〈冷戦〉(コールド・ウォー)と呼んでいる。 1989年秋の東欧諸国で共産主義体制を崩壊させた革命,1990年10月のドイツ統一,そして1991年末のソ連の解体をもって,戦後40年以上にわたり,国際政治の枠組みとなっていた冷戦は終焉した。

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世界大百科事典内の冷戦の言及

【アメリカ合衆国】より

…19世紀末,米西戦争を契機に世界列強となった合衆国は,第1次大戦,第2次大戦を経て超大国となり,政治,軍事,経済,文化の面で決定的な発言権をもち,〈全能のアメリカ〉が意識されるようになった。しかし,1960,70年代,内に人種紛争,外にベトナム戦争という挫折の体験を通し,さらに冷戦の終焉により,アメリカは世界の中の一国として,相対的に自己を位置づけるようになりつつある。【斎藤 眞】
【自然】
 広大な国土をもつアメリカ合衆国の自然は,きわめて多様性に富んでいる。…

【仮想敵国】より

…核兵器あるいは通常兵器に関して見られる軍備競争は,相互に相手を仮想敵国とみなす国と国が,それぞれ軍事的バランスを自国に有利なものにしようと試みることから生ずる交互的な行為である。いわゆる〈冷戦〉は,ソ連を仮想敵国とみなすアメリカと,アメリカを仮想敵国とみなすソ連との間の,戦争なき敵対関係のことを指していう。今日の多極化した世界では,仮想敵国は必ずしも単数である必要はなく,1国と数国,あるいはブロックとブロックが互いに相手を仮想敵国とみなすという関係にあることもまれではない。…

※「冷戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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