第三話:白雪姫と夏の記憶
高校一年の夏。
私こと
その人の名前は、
正直に告白すると、最初はちょっと怖かった。
高校生になった彼は、腐敗した魚のような目をしており、人を寄せ付けない雰囲気を
最後に会った小学生のときから、外見や雰囲気は大きく変わっていたけれど……根っこのところは何も変わっていなかった。
みんなに優しくて、困っている人をそれとなく助ける、とても優しい人。
そんな彼を見ることができて、本当に嬉しかった。
ただ……同時に不安もある。
白凰高校での交友関係はとても狭く、唯一の友達らしき人は金髪ピアスの不良。
あまりよく眠れていないのか、授業中は基本的にずっと居眠りしており、目元にはいつもクマがあった。
彼のご家庭の事情は……幼なじみということもあって、それなりに知っている。
小学六年生の頃、
多額の借金を抱えた彼らは、
それからほどなくして、母親は消息を絶ち、父親は
葛原家は
これは妹の
根が真面目な彼は、自由奔放なお父さんに代わって、家計を支えているそうだ。
(貧困の
でも幸いなことに、葛原くんは日本一の名門高校――白凰に合格している。
ここをきちんと卒業すれば、明るい未来が開ける。
だから――。
「――葛原くん、お勉強をしましょう」
私はあるとき、勇気を出してそう声を掛けた。
「……なんで?」
彼は露骨に嫌そうな顔をする。
「一か月後、
これは持論だけれど、『人間の意思力』は弱く、『環境の矯正力』は強い。
「勉強を頑張ろう」「勉強をしよう」という意思だけで、これを成すことは難しい。
「勉強せざるを得ない環境」「勉強が当たり前の環境」に身を置くことで初めて、勉強という苦行を成し遂げられるのだ。
つまり、まず変えるべきは環境。
過程と結果は、後から自然についてくる。
「いや、そういう模試ってけっこう高いだろ? うちの家にそんな余裕はねぇから」
「それなら問題ありません。今は夏の新入生募集期間中、
「……無料」
長きにわたる極貧生活のためか、彼は無料と言う言葉に滅法弱い。
これは既にリサーチ済みだ。
「……無料、無料か……」
葛原くんの鉄壁の意思が揺らいだところへ、追撃の一手を繰り出す。
「しかも今回は、受験者全員にシャーペンと消しゴムが無料で配布されます」
「…………まぁ、たまにはテストもいいかもな」
彼は筆箱に入った小さな消しゴムを指で
一か月後、駅前にある駿鉄予備校へ。
偶然にも、私の一つ前が葛原くんの座席だった。
(試験慣れとかしてなさそうだけれど、大丈夫でしょうか……。忘れ物とか、マークシートの書き方とか……)
そんな風にチラチラと様子を
氏名:アソパソマソ。
「……っ」
思わず、
こういう変な名前で受験する人がいるという話は、
まさかそれが自分の目の前で行われるとは、まったく予想だにしていなかった。
(はぁ……。まぁ、いいでしょう)
今回の目的は、『受験戦争』という場に葛原くんを引きずり出すこと。
試験会場に来た時点で、その目的は達成されたも同然。
その後、問題と解答用紙が配られ――第一回高校一年生全国統一模試が始まった。
最初の科目は英語。
単語のアクセント・文法の正誤・短めの会話、本格的な長文読解。
順調に問題を解き進んでいき、机上に置いた腕時計に視線を向けたところで――気付いた。
(あっ、もう寝てる……)
葛原くんは机に突っ伏し、完全に沈黙している。
試験終了まで後三十分強。
どうやら、途中で力尽きてしまったようだ。
それからしばらくして、『キーンコーンカーンコーン』とチャイムが鳴った。
「――試験終了です。筆記用具を置いてください」
その後、試験監督の指示に従って、答案用紙を後ろから前へ回していく。
私はまったく微動だにしない寝坊助さんの背中をちょいちょいと
「
「ん゛ぁ……。あ゛ー……おぅ……」
彼は寝ぼけまなこをこすりながら、言われた通りにプリントを回した。
「随分と眠たそうですが……昨日はあまり眠れなかったんですか?」
「ふわぁ……まぁな。遅くまでずっと
「内職、ですか……。それは何時ごろまで?」
「確か、七時過ぎだったかな……」
「夜の?」
「今朝の」
「それ、もはや徹夜じゃないですか……」
葛原くんはその後も、ずっとうつらうつらと船を漕ぎながら、なんとか試験に向き合っていたけれど……。
いつもだいたいテスト時間の半分ほどで、すやすやと眠ってしまっていた。
(……内職、ですか……。それは仕方がありませんね)
家計を支えるための大切なお仕事。
そこは、私が口を挟んでいいところではない。
もしかしたら……先生が葛原くんになんの注意もしなかったのは、彼の過酷な生活環境を知っていたからかもしれません。
(…………余計なお節介、でしたね)
全てのテストが終わった後、私は葛原くんに謝った。
自分の手前勝手な善意を押し付け、彼の希少な時間を奪ってしまったことを謝罪した。
すると彼は、「気にすんな。ちょうど消しゴムを切らしてたところだ」と言って、ぶっきらぼうに笑った。
葛原くんは、やっぱりとても優しい。
ぶっきらぼうで、ひねくれていて、素直じゃないけれど……根っこのところは本当に温かい。
それから一か月が経ち、試験の結果が返却された。
「……や、やった……」
私の結果は600点満点中――537点。
今回は『難問奇問のオンパレード』だったため、総合点は前回よりも少し下がってしまったけれど……。
(これなら、お父様にも喜んでもらえるはず……っ)
私は期待を胸に膨らませながら、
しかし――。
「はぁ……くだらぬ」
お父様は深いため息のもと、
「
激昂した彼は、手元のグラスをこちらへ投げ付けた。
ガラスの砕け散る音が響き、私の足元にいくつもの破片が飛び散る。
「まったく……どうしてお前は、こんなに出来が悪いのだ? 本当に儂の血を引いておるのか? えぇ゛!?」
「……申し訳ございません……っ」
「いいか、よく聞け。お前のしているくだらぬ努力など、なんの意味も持たぬ。一銭の
お父様はそう言って、席次表の頂点を指さした。
神宮寺渚。
その名前は、これまで嫌というほど聞かされてきた。
神宮司財閥の次期総裁候補筆頭。
中学・高校の全国模試で、『常に1位』を獲り続ける怪物。
私のような『偽物』ではなく、『本物の天才』。
「……むっ、あの神宮司が2位? であれば1位は…………ふんっ、ふざけた名前だ。気に食わん」
お父様は
(……
一つだけ、思い当たる節があった。
だけど、さすがにそれはあり得ない。
いくらなんでも、そんなことがあるわけない。
私は恐る恐る学力ピラミッドの頂点を確認し――
「……う、そ……」
1位600点アソパソマソ。
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