今回は表現の自由の話題です。前々回『山田太郎、ついにこども『家庭』庁でもデマを言い始める』を書いたとき、山田太郎の動画を見たわけですが、そこで気になる発言がありました。
それは、表現規制のフェーズが変わったという言葉です。この言葉自体は、主に自由戦士からも時折聞かれるものです。意味合いとしては、従来表現規制は右派や保守派が訴えるものだったにもかかわらず、昨今は左派やリベラルが訴えることが多く、むしろ保守派自由を認める傾向にあるというものです。
こうした認識は端的に事実誤認です。自民党は現在も様々な表現規制を進めていますし、一方のリベラルは表現の規制しようとはしていません。というか、日本においてリベラルが表現規制できるほどの権力を握った事例が稀です。
ではなぜ、こうした事実誤認がまかり通ってしまうのでしょうか。今回の記事はこの問題を解きほぐすものです。
こう見ると、やはりリベラルだって規制を目論んでいると思いたくなるかもしれませんが、そもそも、右派と左派の「規制」を表面上同じ結果になりそうだからという理由で同じものであるとみなすのは早計です。最終的な結果こそ似ていますが、それぞれの「規制」には大きな違いがあります。
左派やリベラルが主張する「規制」の大きな特徴は、それが他者の権利を擁護しようとした結果として生じるものであるという点です。上掲の請願も『子供の性搾取被害悪化の現状に鑑み』とあるように、これは子供の性被害を防ぐという目的のために表現規制という手段を用いようという発想です。規制そのものが目的なのではなく、本来の目的を達成しようとする過程で生じる規制であると言えます。
こういう特徴があるので、左派やリベラルが「規制」を主張した場合、対処方法は明白です。その規制が目的に貢献しないことや、別の方法で権利を擁護できると説明すればいいのです。逆に言えば、その説明に何ら説得力がなければ無力に終わりますが。
一方、右派や保守の規制は明白に、規制そのものが目的となっています。これは保守派の規制の主な根拠が道徳観や価値観にあり、その中では性的な表現が存在するという事実自体が悪であるとみなされているからです。このことは、かつて安倍晋三や山谷えり子が主導して「行き過ぎた性教育」なるものを止めさせようと奮闘したことが物語っています。そもそも何をもって行き過ぎていると判断するのかとか、それの何が悪いのかといったことは碌に説明されていません。彼らにとっては「行き過ぎた性教育」が悪であることは自明であるので、説明が必要ないのです。以前の記事で取り上げた、こども庁がこども家庭庁に改名された主要な原因の1人であろうと思われる高橋史朗に至っては、ジェンダーフリーにすら嫌悪感を示していますが、そこに合理的な説明がされたことはありません。
こうした価値観に基づく規制の代表例が、刑法175条によるわいせつ物規制です。この法律により、創作者はあらゆる創作物において性器を直接的に描写することができなくなっていますが、ここに合理的な理由はありません。リベラルのように人権をベースに考えれば、イラストの人体の性器や、成人にのみ流通することが明白な作品において性器を修正する合理性は皆無です。しかし、道徳観をベースに考えれば、そうした表現が存在していること自体が悪いことなので規制すべきだという発想になります。
こうした理由に基づく規制の訴えに対抗するのは極めて困難です。なぜなら、第一に、規制の理由そのものに合理性がないため反論が不可能だからです。存在しない合理性を否定することはできませんし、そもそも合理的な理由で規制を訴えているわけではないため理由に合理性がないことを指摘することは何の意味も持ちません。
第二に、表現の存在そのものを悪とみなし規制すること自体が目的となっているため、落としどころを探ることも不可能だからです。目的が別にあれば、規制以外の方法を提示することも可能です。しかし、保守派の規制は存在そのものを認めない性質のものですから、落としどころなどありません。自由戦士が普段から口にするがごとく、一度譲ったら無限の撤退戦を迫られることになるのです。
ところが、自民党は無所属時代の山田太郎の立ち回りで気づいたはずです。マンガやアニメの表現の自由を認めることは、自分たちの道徳観を阻害するものではなく、むしろ手助けするものだと。山田太郎が一生懸命になって女性差別に関する国連の勧告を潰そうとしている様子を見れば、賢明な保守政治家ならそう思ったはずです。
道徳観、という言葉を使うと、やはり右派のそれと左派のそれが同一視されるかもしれません。しかし、当然両者の考える道徳は異なります。左派は人権の擁護を主体に考えるのに対し、右派のそれは基本的に家父長制の維持を目的としています。
家父長制の維持が意味することの1つは、女性の人格を認めず道具的に扱うということです。女性(というよりは家長以外の全員)を家族の成員のうち下位に置き、家長が都合よく使役できる道具とみなすのが家父長制の特徴です。そうした発想は、女性を性的に使用できる道具として認識したうえで行われる表現行為と相性のいいものです。自民党的には、そうした表現が世に蔓延してくれていたほうが、家父長制の考え方が自明のように思われるので都合がいいでしょう。
こういうわけで、自民党は二次元の表現の自由をお目こぼしすることにしました。オタクの中にはそれで十分じゃないかという人もいるかもしれませんが、こうした自由はどのみちいつか消え去るものです。そうなったとき、オタクたちに対抗手段はありません。それ以外の表現の自由はすべてなくなっているので。
しかし、自由戦士は曲がりなりにも、表現の自由を訴えています。表現という抽象概念を扱おうとしています。であれば、表面にあるものではなく、その奥にあるものを理解して扱うことができなければいけないはずです。表面に見えている表層的な具体物に惑わされるような能力では、到底表現という抽象物を扱うことはできないでしょう。
問題は、こうした短絡的な誤認を山田太郎も広めているということです。わざとなら不誠実ですし、気づいていないなら無能です。やはり、自民党を排さない限り表現の自由はあり得ないでしょう。
それは、表現規制のフェーズが変わったという言葉です。この言葉自体は、主に自由戦士からも時折聞かれるものです。意味合いとしては、従来表現規制は右派や保守派が訴えるものだったにもかかわらず、昨今は左派やリベラルが訴えることが多く、むしろ保守派自由を認める傾向にあるというものです。
こうした認識は端的に事実誤認です。自民党は現在も様々な表現規制を進めていますし、一方のリベラルは表現の規制しようとはしていません。というか、日本においてリベラルが表現規制できるほどの権力を握った事例が稀です。
ではなぜ、こうした事実誤認がまかり通ってしまうのでしょうか。今回の記事はこの問題を解きほぐすものです。
似て非なる理由
「フェーズが変わった」という誤認の最大の理由は、そもそもリベラルが主張する表現批判を「表現規制」と読み替えてしまう短絡的な1ビット思考です。自由戦士の主張する「リベラルの規制」の9割は単なる批判活動であり、到底規制と呼べるものではありません。とはいえ、リベラルも人間ですから、たまには表現規制らしいことを言うことがあるのも事実です。先日提出された『子供の性搾取被害悪化の現状に鑑み、国連勧告に沿った児童買春・児童ポルノ禁止法の第三次改正を求めることに関する請願』も、政府の対応によってはイラストなどの表現も含めた規制につながる恐れがあります。こう見ると、やはりリベラルだって規制を目論んでいると思いたくなるかもしれませんが、そもそも、右派と左派の「規制」を表面上同じ結果になりそうだからという理由で同じものであるとみなすのは早計です。最終的な結果こそ似ていますが、それぞれの「規制」には大きな違いがあります。
左派やリベラルが主張する「規制」の大きな特徴は、それが他者の権利を擁護しようとした結果として生じるものであるという点です。上掲の請願も『子供の性搾取被害悪化の現状に鑑み』とあるように、これは子供の性被害を防ぐという目的のために表現規制という手段を用いようという発想です。規制そのものが目的なのではなく、本来の目的を達成しようとする過程で生じる規制であると言えます。
こういう特徴があるので、左派やリベラルが「規制」を主張した場合、対処方法は明白です。その規制が目的に貢献しないことや、別の方法で権利を擁護できると説明すればいいのです。逆に言えば、その説明に何ら説得力がなければ無力に終わりますが。
一方、右派や保守の規制は明白に、規制そのものが目的となっています。これは保守派の規制の主な根拠が道徳観や価値観にあり、その中では性的な表現が存在するという事実自体が悪であるとみなされているからです。このことは、かつて安倍晋三や山谷えり子が主導して「行き過ぎた性教育」なるものを止めさせようと奮闘したことが物語っています。そもそも何をもって行き過ぎていると判断するのかとか、それの何が悪いのかといったことは碌に説明されていません。彼らにとっては「行き過ぎた性教育」が悪であることは自明であるので、説明が必要ないのです。以前の記事で取り上げた、こども庁がこども家庭庁に改名された主要な原因の1人であろうと思われる高橋史朗に至っては、ジェンダーフリーにすら嫌悪感を示していますが、そこに合理的な説明がされたことはありません。
こうした価値観に基づく規制の代表例が、刑法175条によるわいせつ物規制です。この法律により、創作者はあらゆる創作物において性器を直接的に描写することができなくなっていますが、ここに合理的な理由はありません。リベラルのように人権をベースに考えれば、イラストの人体の性器や、成人にのみ流通することが明白な作品において性器を修正する合理性は皆無です。しかし、道徳観をベースに考えれば、そうした表現が存在していること自体が悪いことなので規制すべきだという発想になります。
こうした理由に基づく規制の訴えに対抗するのは極めて困難です。なぜなら、第一に、規制の理由そのものに合理性がないため反論が不可能だからです。存在しない合理性を否定することはできませんし、そもそも合理的な理由で規制を訴えているわけではないため理由に合理性がないことを指摘することは何の意味も持ちません。
第二に、表現の存在そのものを悪とみなし規制すること自体が目的となっているため、落としどころを探ることも不可能だからです。目的が別にあれば、規制以外の方法を提示することも可能です。しかし、保守派の規制は存在そのものを認めない性質のものですから、落としどころなどありません。自由戦士が普段から口にするがごとく、一度譲ったら無限の撤退戦を迫られることになるのです。
手駒にできるならお目こぼし
「フェーズが変わった」誤認のもう1つの理由は、保守派が明らかに、自身に都合がいいために性的表現の自由を認めるという戦略を取り始めているという点です。その最たる例が、山田太郎の出馬を認めたことでしょう。それ以前の自民党の立場なら、マンガアニメの自由だけを主張する山田太郎だったとしても疎ましく思っていたでしょう。ところが、自民党は無所属時代の山田太郎の立ち回りで気づいたはずです。マンガやアニメの表現の自由を認めることは、自分たちの道徳観を阻害するものではなく、むしろ手助けするものだと。山田太郎が一生懸命になって女性差別に関する国連の勧告を潰そうとしている様子を見れば、賢明な保守政治家ならそう思ったはずです。
道徳観、という言葉を使うと、やはり右派のそれと左派のそれが同一視されるかもしれません。しかし、当然両者の考える道徳は異なります。左派は人権の擁護を主体に考えるのに対し、右派のそれは基本的に家父長制の維持を目的としています。
家父長制の維持が意味することの1つは、女性の人格を認めず道具的に扱うということです。女性(というよりは家長以外の全員)を家族の成員のうち下位に置き、家長が都合よく使役できる道具とみなすのが家父長制の特徴です。そうした発想は、女性を性的に使用できる道具として認識したうえで行われる表現行為と相性のいいものです。自民党的には、そうした表現が世に蔓延してくれていたほうが、家父長制の考え方が自明のように思われるので都合がいいでしょう。
こういうわけで、自民党は二次元の表現の自由をお目こぼしすることにしました。オタクの中にはそれで十分じゃないかという人もいるかもしれませんが、こうした自由はどのみちいつか消え去るものです。そうなったとき、オタクたちに対抗手段はありません。それ以外の表現の自由はすべてなくなっているので。
表面ではなく根を見よ
表面が似ているという理由で、本質的には全く異なるものを同じであるかのように扱うという愚行は頻繁に行われるものです。そのたびに我々は、それがいかに愚かで誤った行為であるかの言語化を強いられます。しかし、自由戦士は曲がりなりにも、表現の自由を訴えています。表現という抽象概念を扱おうとしています。であれば、表面にあるものではなく、その奥にあるものを理解して扱うことができなければいけないはずです。表面に見えている表層的な具体物に惑わされるような能力では、到底表現という抽象物を扱うことはできないでしょう。
問題は、こうした短絡的な誤認を山田太郎も広めているということです。わざとなら不誠実ですし、気づいていないなら無能です。やはり、自民党を排さない限り表現の自由はあり得ないでしょう。