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ドイツ歴史博物館などでは、「パウルス元帥、罠に落ちた将軍」などと説明されてます。元々、スターリングラード方面の第6軍司令官は、もっと気骨がありガチガチのナチス党員だったライヘナウ元帥が担当するはずだったのですが、1942年春にスターリングラード方面への攻勢が始まる前に脳梗塞で死亡したので、彼の部下だったパウルスが繰り上がって第6軍司令官となったのです。だから、ドイツ国防軍の人事でも応急的なものでした。 パウルスは将軍としては気が弱い性格でありスターリングラードに第6軍が包囲された後に、マンシュタインの率いるドン軍集団が救出作戦を開始した時にマンシュタインは、「パウルスの第6軍もソ連軍を背後から攻撃して救出作戦に呼応するように」と要請しましたが、ヒトラーが「パウルスの第6軍はそのままスターリングラード市内に留まって町の攻略を続けるように」と命令したので、パウルスはヒトラーの命令に従いました。パウルスは権力を持つヒトラーに逆らう勇気がなかったのです。 その後、マンシュタインの救出作戦が失敗して第6軍が降伏しそうになると、ヒトラーは突然にパウルスを元帥へと昇格させました。プロシア陸軍以来の伝統で、「元帥の率いる部隊は降伏しない」ということがあったことを、ヒトラーは利用したのです。ですが、やはり部隊の窮状を見かねてパウルスは1月31日に降伏しました。 その後、ソ連捕虜となった後にスターリンを初めとする共産党幹部から厚遇されて「反ヒトラー運動に参加してくれないか」と頼まれると、ここでも権力者のスターリンの言いなりとなってドイツ将校同盟に参加します。自分を追い詰めたヒトラーに対する恨みもあったのでしょう。そして、戦後は東ドイツのライプチヒに豪邸を与えられて、スターリングラード戦の戦記を編纂している最中に病気になって死亡しました。 ヒトラーとスターリンという2人の独裁者に翻弄されたから、「罠に落ちた将軍」と説明されているのでしょう。 写真はドイツのツォッセンの旧国防軍練兵場での写真で、僕が2006年7月にツォッセンの博物館で撮影した。同盟国日本軍の大島大使とその部下たちが1939年にツオッセンを訪問した時の写真。前列左から2人目の長身の男が大佐時代のパウルスで、その右隣の小柄な男は当時の駐ドイツ大使だった大島浩陸軍中将。 僕がこの写真を撮影した後に近くで座っていると、博物館員のおじさんが嬉しそうにスマイルを浮かべて僕の顔を見ながら通り過ぎていったのだった。
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質問者からのお礼コメント
面白いエピソードありがとうございました。
お礼日時:2017/2/1 18:24