日本プロレス界の父で1963年12月15日に39歳の若さで亡くなった力道山(本名・百田光浩)の命日にあたる15日、東京・大田区の池上本門寺で「没58年法要」(59回忌)が営まれ、次男の百田光雄(73)、孫の力(40)の親族、藤波辰爾、秋山準の現役レスラー、ストロングスタイルプロレスの新間寿会長、小橋建太氏ら関係者約70人が参列した。
力道山は、1950年に大相撲を引退しプロレスラーに転向し、52年に日本プロレス協会を設立。日本初の本格的プロレス興行となった54年2月19日に蔵前国技館で木村政彦とタッグを組んでシャープ兄弟と対戦し、前年にスタートしたテレビ放送と共に戦後復興の象徴となり国民的ヒーローとなった。
ジャイアント馬場、アントニオ猪木ら昭和プロレスの隆盛を支えた多くの弟子も育てたが、63年12月8日に赤坂のナイトクラブで暴力団員の男に刺され、1週間後の12月15日に都内の病院で39歳の若さで亡くなった。
父の命日に光雄は「僕もちょっとひとつ道を間違えれば、あそこの墓石の横に名前を刻まないといけない状況だったんですが」と末期の肺がんを患っていたことを告白した。
がんが分かったのは今年2月。白内障の手術をするために検査したところ、糖尿が判明。糖尿の数値を抑えるために検査した時に肺の上部に腫瘍が判明。ステージ4の肺がんだったことが発覚したという。当時を光雄は「検査するまで自覚症状は全然なくて、検査もレントゲンでは、肺に腫瘍があることはわからなくてCTでわかったんです」と明かした。
3月上旬に自宅のある茨城県つくば市内の病院に入院。80キロ台だった体重は、わずか1か月で「51、2キロまで減った」と30キロも激減した。入院中は手術することはなく5月下旬の退院まで抗がん剤と放射線の治療に専念した。過酷な治療にも「普通の人は、僕の状況だと痛みもかなり激しくて、かなりキツイらしいんだけど、俺は気にならなかった。気持ちだけは昔から強いし、痛みにも強いんで…違和感はあったんですけど、そういう意味でも結構、しぶといなと自分で自分のことを思います」と笑顔で振り返った。
退院した時は自身の体が「筋肉が何もなくなって、『わっ!何だこれ』って、しわくちゃな体になったんだけど」と明かしたが、今はジムにも通いトレーニングも再開した。「年齢もいっているんで、無理なことすると逆に負担になっちゃうんだけど軽く練習もやっているんで、試合ができるできないは分からないですど、もう1度リングに上がるようなつもりで頑張りたい」と復帰を誓った。
現在の治療は、2週間に1回、病院で点滴を行っている。「がん細胞はなくなったわけじゃないんですが、先週、見たMRIとCTでは転移も見られないってことだったんで、それがなければ、このままいい方向に向かってくれればいいなと思っています」と明かした。この日、父の命日で墓前に手を合わせ「ウチの父親からもうちょっと来るのは後にしろよと言われたのだろうと思います。父が俺を助けてくれたのかなぁと思います」と感謝。法要には全日本プロレスからプロレスリング・ノアで後輩だった小橋氏と秋山も参列し久々に対面した。2人と再会に「僕が棺おけに入る前の顔を見に来てくれたのかな」と笑わせ「だけど久しぶりに僕の顔を見に来てくれて会えたのはうれしいです。見に来てくれるのは気にかけてくれているのかなと思うんで…藤波選手も来てくれて…本来は父の法要ですけど、半分は僕の顔を見に来てくれたのかなと思うんでうれしいです」と明かしていた。