放任主義と放置主義 | プラクティス
2014-08-07 02:48:39

放任主義と放置主義

テーマ:ブログ


単なる放置プレーを放任主義というようにすり替えている人が多いので書いておきます。


放置とは、先生が教室にも行かずに、生徒に好き勝手させるような感じです。

放任とは、先生は教室に行って、生徒に自習させるような感じです。


親子で言うと、親は寝ているだけで、子供がゲームしようが何しようがお構いなしなのが放置。

親が山に連れて行って、子供の好きなようにさせるのが放任です。


放任と放置の違いは、放任は任せているだけで、見てはいるのです。

放置は、任せてもいませんし、見てもいません。自分のことが最優先で相手のことなんて見てもいないのです。


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海やプールには、ライフセーバーが居ます。

しかし、ライフセーバーは、泳いでいる人に干渉はしません。

見てはいるけど、干渉はしない。これが放任です。

一方、放置は、放置自転車のように置いたら放りっぱなしで、見てもいないのです。

関心がない。つまり、愛がないのです。


日本では、過干渉の上に、放置プレーという歪(いびつ)な愛情で育てられた子をよく目にします。


子供と外で遊ばずに、学校の勉強と行事は口を出す親がとても増えたからです。

学校の勉強と行事は過干渉。遊びは放置プレーといった具合です。


でも、思い出してみてください。

自分が子供の時に、こういう親はどういう風に見えたでしょう。

勉強のことばかりガミガミ言って、遊んでくれない、見てくれない、何処かへ連れてってくれない。

こう思ったのではないでしょうか。


子供は、子供同士の会話で、友達はお母さんと海へ行ってきたとか、お父さんと山でキャンプしたとか、そういう話をしているのです。

いいなーとか、行きたいとは思っているのです。

でも、親に気をつかって、こういうことを言い出せない子供は、たっくさん居ます。

仮に、言っても親がまともに聞いてくれない子供は、たっくさん居ます。

これが積もり積もると、そのうち親(大人)に期待するだけ無駄となって、大人に何も期待しない子供が育つのです。

しかし、大人は、大人の賢(さか)しさで、やれるのにやれないことを正当化します。

そして、放置プレーを放任主義とすり替えるのです。

それは単に、放置プレーで育てたと言うと、外聞が悪いという親の世間体を守りたいがためなのでしょう。

こういうところも、子供が真似するのです。


これが、過干渉で放置プレーで育った子供たちの特徴です。


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大人は、全国で野球が出来る広場をつぶして、大人に都合の良いデートが出来るような公園に作り替えました。

そうしておいて、子供の球技離れとか、いけしゃあしゃあとしたり顔で言うのです。

子供が変に育っても、それは大人のせいではなく、子供のせいだそうです。

あるいは、キャッチボールもしない親のせいではなく、社会のせいにします。

最近では、子供のいじめや、凶悪犯罪とか、子供がおかしくなっている風潮をマスメディアが煽っていますが、それは結果で、大人が病んでるそのしわ寄せが子供を圧殺しているのです。

原因は、大人にあります。

公園で球技を禁止しておいて、野球離れを嘆くって、本当に、本当に、大人の頭がどうかしているのです。

野球は駄目。サッカーも駄目。道路で遊ぶのは危ないから駄目。

砂場は汚れるから駄目。ジャングルジムは怪我するから撤去。

公園は綺麗だけど子供が遊ぶ場にはなっていない。

これで、一体、何をどうしろと言うのでしょうか。


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放置プレーの大人たちは、見ないで、頭の中の概念をこねくり回して、口だけ出して、何とかしよう、何とかなると思っています。

若者の球技離れと聞けば、若者のせいになるのです。

若者のコミュニケーション障害も、若者のせいになるのです。

しかし、子供は環境を選べないのです。

昔のように、野球が出来る広場があって、野球をするためには頭数を揃える必要があって、そこで子供たちは頭を使って、人を集めて、学年が上とか下とか関係なく遊んで、そうしているうちに、自然と話が出来るようになってきた。そういうバックボーンが根こそぎ奪われているのです。

土壌がないところに、芽が生える訳がないのです。

それを生えない芽のせいにするのは、スケートリンクを無くしておいて、若者のスケート離れとか言うようなものです。


放置プレーの大人たちは、見ないというクセというか習慣が染み付いてしますから、こういうことを無視して、結果だけ知って、言いたい放題言います。そういうところだけ過干渉なのは、やはりそういう親(大人)に育てられたからでしょう。


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放置主義ではなく、放任主義では、見てはいますから、煽るニュースに騙されませんし、鵜呑みにしません。

なぜなら現場を見ているからです。

少し前の映画に、

「事件は会議室で起きているんじゃない現場で起きているんだ」

という台詞がありましたが、まさにその通りなのです。


一方、放置主義では、普段は自分から何もしないくせに、何かがあると相手のせいにして叩きます。

会議室で見ている数字と違うから現場を叩くみたいなことをするのです。


これは、成績表だけ見て、ガミガミ言う親と何ら変わりはありません。


でも、重要なのは、そこに至る過程なのです。

単にさぼって、数字が落ちたのなら、叱るのもやむを得ません。

しかし、そこに「友達との人間関係の悩み」とか何らかの経過があったらどうでしょう。

その場合、死人にむち打つような真似は、人のするべきことではないでしょう。


放任だと思っている放置は、こういう時に、冷たく冷酷なのです。

なぜなら、見てないからなんとでも言えるからです。

会議室での数字だけ見て言う。成績表の数字だけ見て言う。

そして、それらは全部、相手のせい。

放置プレーの人は、放置しているから自分には責任はない、相手の責任100%という屁理屈をもっていて、それが正しいと信じているのです。

しかしそれは、放置自転車の責任は自分には無いと言うようなもの。

育児放棄、教育放棄、その責任は自分でなく、全て相手のせいと言っているのと同じなのです。


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ただ金だけ出している親が、それをもって、育児をちゃんとしていることにはなりません。

それだったら、外に愛人を作って家へろくに帰って来ない親でも、ちゃんと育児していることになってしまいます。

また、家で家事をしていても、外へいっさい連れ出さなければ、やはり、ちゃんと育児をしていることにはなりません。

教育とは、自分は金だけ出せば良いとか、自分は家事だけすればいいとか、自分、自分で、自分勝手に、自分さえ良ければいいと言うのとは違うのです。

上記は、あえて極端に書きましたが、放置プレー、放置主義とは、こういうことです。

で、こういう大人ほど、何かがあった時に、相手のせいにするのです。

なぜなら自分さえ良ければよくて、面倒なことは嫌だからです。

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