その夜、二宮は遅くまでオフィスに残っていた。



 とにかく仕事が終わらない。



 時計の針は21時を指しているが、まったく帰れる気がしない。



 しかし、上司の藤原はあっさり身支度を始めていた。



藤原雄大

それじゃお疲れ。
お前らも早めに帰れよ。

樹莉乃

はーい。
今日は藤原さん早いですね。
まだ21時ですよ?
もしかしてデートですかぁ?

藤原雄大

デート?
そんなのじゃねぇよ。


 藤原が嫌そうに二宮を見つめる。


 そして、小さな舌打ち。


 不快そのものといった表情で言った。


藤原雄大

今日は声を出しすぎたからなぁ。
どっかの使えない新卒のおかげで喉が枯れてんだ。
一杯飲んで帰るよ。

樹莉乃

いいなぁー。
私も飲みに行きたいなぁ。
またどこか連れて行ってくださいよ。

藤原雄大

おっ、そうか?
じゃあ一緒に行くか?

樹莉乃

今日は無理ですってば。
ぜーんぜん仕事終わらないですもん。

藤原雄大

お前にも苦労をかけるな。
『ポンコツ』の面倒をみてもらって感謝してるよ。
じゃあ、また明日な。

樹莉乃

はーい。
お疲れ様でぇーす。


 二宮は慌てて立ち上がった。


 オフィスを出ようとする藤原に声をかける。


二宮翔太

あ、あの、藤原さん……。
今日は、本当にすみませんでした……。

藤原雄大

……うん?
ああ、もういいよ。
まだ残るのか?

二宮翔太

はい……。
まだ実績データの更新が終わらなくて……。

藤原雄大

そうか。
遅くまで悪いな。
ただな、厳しいこと言って悪いんだけどよ……。


 呆れたように言葉を続ける。


藤原雄大

あんまり残業するな。
うちはブラック企業じゃない。
ちゃんと『働き方改革』をしてくれ。

はっきり言うけど、お前みたいな仕事できないヤツの残業なんて、無駄もいいところなんだ。
そう評価されることは覚えておけよ。



 二宮の肩を軽く叩き、足早に立ち去る。


 二宮は呆然と藤原の背中を眺めた。


 ぽつりと呟く。



二宮翔太

『無駄』か……。
どれだけ頑張っても、そう言われるんだな……。
社会って厳しいや……。



 肩を落としながらデスクに戻る。


 樹がため息を吐きながら言った。


樹莉乃

こら二宮ニノ
ぼんやりしない。
今日は終電までに終わらせるよ。

二宮翔太

はい……。
すみません。
僕のせいで、飲みの誘いを断らせてしまって……。

樹莉乃

……うん?
飲み?
なんのこと?

二宮翔太

いや今、藤原さんに誘われてたじゃないですか……。


 樹はじっと二宮を見つめた。


 どこか冷たい表情だ。


 肩をすくめながら言葉を吐き出す。


樹莉乃

……ふぅ。
まぁいいや。
とにかく仕事して。
うちは残業代なんか出ないんだからね。

二宮翔太

は、はい……。
あの、今日は樹さんにも迷惑をかけて、本当にすみませんでした……。

樹莉乃

それは終わったことでしょ?
天野さんは怒ってなかったし、あんたも反省したんだろうし。
もういいから仕事に戻りなさい。

二宮翔太

は、はぁ……。


 二宮は小首を傾げながらデスクに戻った。


 チラリと樹を見つめる。


二宮翔太

(そういえば……。樹さんは何も言ってこないな……)


 藤原には「『使えないポンコツ』には後で厳しく言っておく」と告げていたのに。


 きっと忘れているのだろう。


 もう自分は『厳しく言っておく価値もない』ということだろうか。


 二宮は肩を落としながらPCを叩いた。





 結局、終電までに仕事は終わらなかった。


 樹と山下を見送り、薄暗いオフィスでPCを叩き続ける。



二宮翔太

……はぁ。
ダメだ。
終わらない。
これは徹夜かもな……。



 朝までに終わらせないと、複数の自治体に迷惑をかけてしまう。


 そうなれば、また藤原から怒号を浴びせられるだろう。



二宮翔太

そもそも、これは藤原さんの仕事のはずなのに……。
なんで帰るかなぁ……。



 一般的な会社でいえば、藤原の役職は『課長』に相当する。


 必然的に『会議』や『報告』に『部下の管理』といった業務が舞い込み、『ふるのう』の通常業務は後手に回ってしまう。


 その負担が二宮にのしかかっているのだ。



二宮翔太

もう眠い……。
なんか、栄養ドリンク買おう……。



 二宮はオフィスを出てコンビニへ向かった。


 渋谷しぶや東口の陸橋りっきょうを歩く。


 深夜の渋谷しぶや


 さすがに人通りは少ない。


 昼間であれば会社員や学生が交差する陸橋にも人気はない……はずだった。



二宮翔太

……あれ?
あの人……。
もしかして、天野さんかな……?



 長身の男が立っている。


 『みかんの王子様』こと、天野勇二だ。


 険しい形相で国道を見下ろしている。


 耳元のイヤホンに手をやりながら、何かを語りかけている。


 誰かと電話しているのだろうか。


 素通りしようかと思ったが、昼間に多大な迷惑をかけた相手だ。


 二宮は勇気を出して声をかけた。



二宮翔太

あの……。
天野さん……。
『ふるのう』の二宮です。
今日は本当にすみませんでした……。

天野勇二

……二宮だと?


 天野が振り返って二宮を見つめる。


天野勇二

これは驚いたな……。
ああ、そうか。
君のオフィスはすぐそこだったな。

二宮翔太

こんな遅くまで渋谷に……。
お忙しいんですか?

……あ、いや、違いますね。
天野さんは学生だから……。
『飲み会』とかですか?

天野勇二

そんなものじゃないさ。
俺はふざけた『ストーカー』を尾行して………


 天野の言葉が途切れた。


 どこか気まずそうに口元を押さえている。


二宮翔太

……えっ?
ストーカー?
それって……?

天野勇二

い、いや、何でもない。

……おい涼太りょうた、少し外れる。
そっちは任せたぜ。


 イヤホンを外し、二宮に向き直る。


 すぐに爽やかな笑顔を浮かべた。


 『みかんの王子様』の登場だ。


天野勇二

二宮はこんな遅くまで仕事か?
大変だな。

二宮翔太

いや、そんなことありません。
僕は仕事が遅くて……。
それより今日は、本当に申し訳ございませんでした。


 改めて頭を下げる。


 天野は呆れたように笑った。


天野勇二

もう気にするなよ。
間違いは誰にだってある。
誰かが死んだワケでもないんだ。
次から気をつければいいさ。

二宮翔太

いえ、そんなことありません。
天野さんの貴重なお時間を無駄にしました。
『みかん』もダメにしてしまい、生産者の方には申し訳ないと思ってます……。

天野勇二

まぁ、そうだな。
『みかん』と『農家』には、謝罪の気持ちを持っていたほうがいいだろう。


 天野は二宮の持っているビニール袋を眺めた。


 缶コーヒーや栄養ドリンクが入っている。


天野勇二

ほう……。
まだ残業するつもりなのか。

二宮翔太

あ、はい……。
明日までの仕事があるんです。
今はちょっと、休憩しようかと思って。

天野勇二

もし良ければ、1本いただけないか?
俺も休憩しようと思っていたんだ。

二宮翔太

えっ?
こんなのでいいんですか?

天野勇二

いいに決まってるさ。
実を言うと、俺はあまり夜が得意じゃないんだ。
さすがに眠くてな。


 二宮は苦笑しながら缶コーヒーを手渡した。


 完璧超人のようなイケメン王子様なのに、夜が得意じゃなくて眠い。


 妙なギャップを感じる。


二宮翔太

安物ですみません。
ぜひ召し上がってください。

天野勇二

すまないな。
埋め合わせはするよ。

二宮翔太

そんなのいいですよ。
それこそ気にしないでください。



 渋谷の街を眺めながら缶コーヒーを口にする。


 賑やかさの消えた渋谷。


 こんな場所で『王子様』と缶コーヒーを飲むとは。


 しばし不可思議な感情を味わっていると、天野が苦笑しながら言った。



天野勇二

なぁ二宮……。
これは、ここだけの話にしてほしいんだが……。

君の上司は厳しそうだな。
あれはなかなか癖のある人間だ。



 二宮は驚いて天野の横顔を見つめた。


 なぜ、急にそんなことを言い出したのだろう。


 天野は軽い口調で言葉を続けた。


天野勇二

色々と言われることが多いと思うが、あまり気にしないことだ。
俺は君に対して不満を持ってはいない。
むしろそれなりに評価しているつもりだ。
だからこそ、今回のプロジェクトはしっかり頼むぜ。



 二宮の頬が思わずゆるんだ。


 天野は普段の二宮を知らない。


 オフィスが震えるほどの怒号どごうを浴びていることも知らない。


 『評価している』と言われても、その言葉が二宮を救うことはない。



二宮翔太

あはは……。
ありがとうございます。
天野さんにそう言われると、なんだか照れますね……。



 それでも二宮は嬉しそうに頬を緩めた。


 相手は同世代の医学生。


 自分よりも遥かに優秀な人間。


 どんな『評価』だったとしても、そのような人間に褒められるのは悪い気分ではなかった。





二宮翔太

でも、自分は本当にダメな社員なんです……。
仕事が遅くって。
同期と比べても、圧倒的に仕事ができないんですよ……。


 同世代という安心感なのか。


 天野という人間の魅力によるものか。


 二宮は思わず愚痴をこぼした。


天野勇二

ほう……。
君が仕事のできない人間とは思えんな。
それだけ周囲が優秀なのか。

二宮翔太

もちろんみんな優秀ですけど……。
僕は単純に『落ちこぼれ』なんです。
毎日怒られてばっかりで。
自分ってこんなにダメだったんだな、って痛感してます。

天野勇二

そんなに辛いなら辞めればいいだろう?
別に今の環境にしがみつく必要もあるまい。


 二宮は呆れたように笑った。


二宮翔太

そんなの無理ですよ。
まだ入社して半年も経ってません。
ここで辞めた人間なんかどこも雇ってくれませんよ。
しかも、ここは大きい会社だし……。
両親も『最低3年』は頑張れって言うんです。

天野勇二

ふぅん……。
そういうものか。
だが、あの上司は厳しそうだからなぁ。
苦労するだろうに。

二宮翔太

わかりますか?
すごく厳しいんです。
同期はみんな『あの人が上司だったら辞めてる』とか言ってて……。

……あっ、すみません。
言い過ぎました。
これ、内緒にしてください。


 天野は優しげに微笑んだ。


天野勇二

フフッ……。
ああ、わかったよ。

どうだ二宮。
このプロジェクトが終わったら、打ち上げでもやらないか?

二宮翔太

えっ?
僕とですか?
いいんですか?

天野勇二

上質な果実酒を出すバーを見つけてな。
『みかん好き』に紹介したいのさ。
それになかなか『会社員』と話せる機会は少ないからな。
どんな日々を過ごしているのか、興味がある。

二宮翔太

それは嬉しいです。
『みかんの王子様』が勧めるバーなら、ぜひ行ってみたいですね。

天野勇二

そうだろう?
それにな……。
俺は『格闘技』たしなんでいるんだ。


 突然、天野が拳を握った。


 二宮の前で軽く振り回す。


天野勇二

ムカつく上司を殴り飛ばしたいと思ったら、俺に相談するといい。
拳を傷めない『殴り方』を教えてやろう。
俺の『ベアナックルブロー』を習得すれば、どんなヤツも一撃で病院送りだ。


 シュッ、シュッ、と拳を振る。


 二宮は思わず笑ってしまった。


 『みかんの王子様』が喧嘩だなんて、まったく似合わない。


二宮翔太

あははっ……!
なんですかそれ。
そんなの聞きたくないですよ。


 二宮が手を叩いて笑う。


 天野もどこか誇らしげに微笑んでいる。


 深夜の渋谷。


 歩道橋に響く笑い声。


 なんか、久々に笑ったかもしれないな。


 缶コーヒーを飲みながら、二宮はそんなことを考えていた。





 その日の朝。


 二宮は会社で夜明けを迎えた。


 仕事が終わったのは早朝。


 やはり徹夜になってしまったのだ。



二宮翔太

(ね、眠い……。でも、今日は今日で大事な仕事があるんだ……。まだ頑張らないと……!)



 何本も栄養ドリンクを飲み干し、睡魔との戦いを繰り広げる。


 今日は藤原が担当する商談に同行するのだ。


 休むことなんて許されない。


 しかし、現実は非情だった。



藤原雄大

おい二宮……。
お前、もう帰れ。



 藤原は冷たく言い放った。


二宮翔太

えっ?
で、でも、藤原さんが商談に同行しろと……。
それに他にも仕事が……。

藤原雄大

別に樹と山下だけで十分だ。
お前がいなくても困らねぇよ。


 舌打ちしながら吐き捨てる。


藤原雄大

俺は言ったよなぁ?
『無駄な残業をするな』って。

なんだその汚い顔は。
シャツもスーツもシワだらけじゃねぇか。
お前みたいなヤツを連れて歩きたくないんだよ。
職場にいられても目障りだ。

わかったらとっとと帰れ。
早く俺の視界から消えろ。




 二宮は憂鬱ゆううつな気分で会社を出た。


 肩を落としながら家路を歩く。


 徹夜までして業務を終わらせたのに、それに関するねぎらいの言葉は一切なかった。


 いったい、自分は何のために、この仕事をしているのだろう。



二宮翔太

バカだよな……。
藤原さんが褒めてくれるかもって、ちょっと期待してたんだ……。
そんなことあるはずないのに……。



 アパートの階段をのぼりながら呟く。


 明日出勤すれば、また別の理由で怒られるのだろう。


 それでも休むことは許されない。


 樹や山下に迷惑をかけてしまう。



二宮翔太

だけど……。
もし、怪我でもしたら……。



 休んでも許されるだろうか。


 藤原の叱責しっせきを聞かずに済むのだろうか。


 ただ少しだけ、休んでも許されるほどの怪我をすれば。



 二宮はアパートの階段を見つめた。



 眼下に見える踊り場が、甘美な誘惑をささやいている。



 ふくらはぎの緊張がゆるむ。



 踏み出される足先。



 ゆらりと回転する世界。



 気がつけば、二宮の身体はふわりと宙に飛び出していた。






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つばこ

☆良い子や女性の皆さん必見!天野くん直伝の拳を傷めない殴り方のコーナー☆
 
①まず『メス』を取り出します
②投げます
③続いて『肉を溶かすシュワシュワする劇薬』が入った小瓶を取り出します
④投げます
⑤最後にヤクザから強奪した拳銃を取り出します
⑥撃ちます
※相手が死んでしまう可能性があるので、力加減に気をつけましょう。
 
 
念のため補足しますが、二宮や樹たちは『年棒制』で働いています。
年俸には『見なし残業』の時間が含まれているので、どれだけ残業しても給料は変わらないんですね。
とんでもないブラック企業だと思うかもしれませんが、その代わり初任給はすっごくいい!
デメリットばかりでもないのです!
 
そんなこんなでいつも応援やコメント、本当にありがとうございます!∠( ゚д゚)/

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コメント 26件

  • ИДЙ

    作者コメに持ってかれましたwww www

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  • さーどまん

    年棒制だろうが月給制だろうが雇用契約に基づく給与の場合、契約上で何時間分って書かれてるみなし残業時間超えたら、残業代出さないとダメなんですよー

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  • ちょぱ

    これがパワハラか…恐ろしい

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  • ツシタケ

    働き方改革って、末端の会社員が改革するもんじゃないんですが...

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  • emer

    樹さんはとっても腹黒タイプで、要領がいい=合理的な結果を導けるなら簡単に(自分の気持ちでさえ)嘘をつける人なのかもしれない
    鬼上司は鬼な上に性格悪いけど、私樹さんも怖いなぁ...

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