真っ赤なポルシェが『由比ヶ浜ゆいがはま』に停まった。



 運転席から天野の姿。



 助手席から涼太の姿が現れる。



 涼太は大きく伸びをして、青空を浴びて輝く湘南の海を眺めた。



佐伯涼太

……ふぅ。
いい天気だね。



 台風が過ぎ去った後の海。


 波は穏やかに揺れている。


 思ったより砂浜は汚れていない。


 台風がゴミを吹き飛ばしてしまったのだろうか。


 砂浜を歩いている人影はない。


 嘘のように静かな由比ヶ浜がそこにあった。



佐伯涼太

…………



 涼太は眩しげに瞳を細めた。


 ゆっくり砂浜の一角へ向かう。


 涼太以外の人間にとっては『なんてことのない砂浜』のひとつ。


 目印となるものを置いている訳ではない。


 それでも忘れることのできない場所。



佐伯涼太

……綾瀬さん……



 涼太は砂浜に手を置いた。


 笑顔で語りかける。



佐伯涼太

……なんだか、こうやって君に話しかけるのは、すごく久しぶりな気がするね。
僕は毎週ここにいたのに。
いつでも君と話せたのに。
ずっと無視していてごめんよ。



 唇を噛みしめる。


 綾瀬は怒っているだろうか。


 それとも悲しんでいるだろうか。


 どんな表情を浮かべて自分の言葉を聞いているのだろう。


 前はきっと笑顔で相槌あいづちを打ってくれていると信じていた。


 今は、よくわからない。



佐伯涼太

ねぇ、綾瀬さん……。
僕はずっと、君のことを忘れないって、そう思ってる。



 涼太が呟いた。


 見えない綾瀬の表情を思い浮かべながら。


 ゆっくり言葉を続ける。



佐伯涼太

でもさ、『記憶』って残酷でさ。
忘れたくないって強く思ってるのに、少しずつ薄れていくんだ。
まるで消えてしまうかのように薄れていくんだ。

僕はそれが悲しかった。
君のことが薄れてしまうのが悲しかった。
僕の中から君がいなくなってしまうことが悲しくて、ずっと申し訳ないと思ってた。



 砂を握りしめる。


 思い起こすのはひとつの場面。


 綾瀬との『最後のデート』。


 あの時、涼太はひとつの『別れの言葉』を贈った。



佐伯涼太

だって、僕は君に言ったから。

『忘れない』って。

大好きだった君のことを。
君との思い出を。
君が僕を愛してくれたことを……。

その全てを忘れない。
ずっと君のことを忘れないって、僕はあの時、そう誓ったんだ。



 涼太は顔を歪めた。


 胸の奥が震えている。


 感情が弾けそうだ。


 心の奥底に穴が開いて、全てが弾け飛んでしまいそうだ。


 涼太は震えながら言った。



佐伯涼太

でも……。
そこで僕は気づくんだ。
僕はこれまでに、何度も、君のことを忘れていたって……。

大人になった君と過ごした時間なんかない。
君が病気で苦しんでいる時も傍にいなかった。
君に手紙すら出さなかった。
君を何ひとつ励ますことができなかった。
僕は君を守ってなんかいなかったんだ。

むしろ、君が苦しんでる時に、僕は……僕は……!



 涼太は顔を覆った。


 強くまぶたを閉じる。














 闇の中。



 涼しげな潮風が頬を撫でる。



 潮の香りを強く感じる。



 寄せては返す波の音が、なぜか優しげに聴こえる。








綾瀬清美

……さよなら。
いつまでも元気でね。








 闇の向こうから声が聴こえた。



 あれは小学校の卒業式。



 あれは綾瀬との別れ。



 あれは手放してしまった初恋。



 あれはいつまでも心にのしかかる幼き日の後悔。



 どうして、あの時、綾瀬に想いを伝えることができなかったのか。



 あの時、一歩でも踏み出していれば。



 ほんの一歩で良かったのに。










 ねぇ、綾瀬さん。


 連絡先を教えてよ。


 綾瀬さんに手紙を出したいんだ。


 また、綾瀬さんに会いたいんだ。


 中学生になったら、どこかに2人でお出かけしない?


 夜でも構わないから。


 映画でも観に行く?


 水族館も悪くないよね。


 そうだ、神社のお祭りにでも行ってみようよ……。








 そんな約束を交わして。



 2人が再会する日を決めて。



 その時に交わす言葉も決めて。



 顔をあわせたら「そっちの中学はどう?」「新しい友達はできた?」なんてことを尋ねるんだ。



 スマホを買ってもらう年齢になったら、夜遅くまで電話したり、SNSで他愛のない会話を続けたりして。



 君の具合が悪くなったら真っ先に駆けつける。



 君が入院したら毎日お見舞いに行くよ。



 君の好きな花で病室を飾ろう。



 小学生の時みたいに人形を作ろう。



 試験前には一緒に勉強しよう。



 同じ高校に行けたらいいね、なんて相談をして。



 やがて君の手をさりげなく握れるようになったら。



 君に気持ちを打ち明けるんだ。













君のことが好きだよ


初めて会った時から


綾瀬さんのことが好きなんだ

















 涼太はゆっくりまぶたを開けた。



 太陽の輝きが飛び込んでくる。



 しかし、もう涼太には何も見えなかった。



 見えるのは涙でにじんだ世界だけ。



 一歩を踏み出すことができなかった、綾瀬のいない世界。



 幸せにしなければならない人を、幸せにすることができなかった世界だ。







佐伯涼太

綾瀬さん……。

ごめん……。

本当にごめんよ……。




 泣きながら呟く。


 いったい何度、こんな妄想にとらわれたことだろう。


 河瀬と再会した夏祭りの夜。


 あの時も、涼太は「ここに綾瀬がいたなら」と思いながら、神社の境内を眺めていた。






 賑やかに鳴り響く祭囃子まつりばやし


 色鮮やかな露天の明かり。


 その中に綾瀬を思い浮かべる。


 どんな浴衣を着ているのか。


 露店を見てどんな喚声をあげるのか。


 賑やかな祭りの風景を、どんな顔で眺めているのか。


 夏祭りだけではない。


 鎌倉にある全ての『デートスポット』と呼ばれる場所で同じことを繰り返した。






 湘南の海を見下ろす高台。


 縁結びで有名な神社。


 古民家を改装したカフェ。


 紅葉の美しい長谷寺はせでら


 イルミネーションに彩られた江ノ島えのしま


 湘南の海岸線から見る初日の出。


 雪が降れば顔をしかめて。


 梅の香りに頬を綻ばせて。


 桜の木の下をともに歩いた。


 あじさいの花びらを数えてみたりして。


 夏が来れば由比ヶ浜に立つ。


 日が暮れるまで、綾瀬の見たがっていた景色を眺める。





 四季折々しきおりおりの景色に綾瀬の面影を重ねた。


 そこにはいない綾瀬と『最後のデート』の続きに浸っていた。


 なぜなら、涼太には「忘れない」だけの思い出がなかったからだ。






佐伯涼太

……僕は、今も後悔してる。

もっと君と話すことができたのに。
君とどこかに出かけることができたのに。
君をもっと深く知ることができたのにって……。

そんな後悔ばっかりだよ。
この後悔は消えることがないんだろうね。



 目元を拭う。


 改めて綾瀬のいない景色を見つめる。



佐伯涼太

だけど、僕はひとつ、わかったことがあるよ。

もしかしたら、未来の僕は、君を思い出すことが減るのかもしれない。
誰かに恋をしたり、結婚したりすることもあるのかもしれない。
それでも、僕の中から君の存在が消えることはない。

なぜなら……。
君が、僕の『本質』だから。



 涼太は立ち上がった。


 あの日、綾瀬を抱いて歩いた砂浜。


 同じ道を辿る。



佐伯涼太

あの日、からかわれている君を助けたこと。
君に一目惚ひとめぼれしたこと。
今も君が心の片隅にいること。
君を看取みとったこと。
君に愛されたこと。
そして、君の分まで生きていくこと……。

君がくれた全てのことが、決して揺るぐことのない僕の『本質』だったんだ。



 涼太は水平線の彼方を見つめた。



佐伯涼太

どれだけ僕の姿形が変わっても、心の有様が変わったとしても、その事実だけはいつまでも変わらない。
心に残る後悔だって『本質』に変えてみせる。
僕は『君という名の本質』を抱いて生きていく。
それが僕の『生き様』なんだ。



 涼太は手のひらを見つめた。


 そこには温もりがある。


 綾瀬が残してくれた温もりがある。


 決して消えることのない温もりがある。



佐伯涼太

この『本質』がある限り、僕の中から君が消えることはない。
未来とか過去とか、そんなものを超えて僕たちは一緒に生きるんだ。
僕は『新しい恋』をして、ようやくそれに気づくことができたよ。



 涼太は手を伸ばした。


 涙で滲む世界に両手を広げる。


 そこに存在しない存在を抱きしめる。





佐伯涼太

綾瀬さん……。
ありがとう。
僕と出会ってくれて、本当にありがとう。

君の分まで、僕は笑うよ。
君の分まで、僕は泣き続けるよ。




















天野勇二

…………




 天野は遠くから涼太を見つめていた。



 長い時間が過ぎた。



 太陽は水平線に沈みかけている。



 みかん色の夕陽が涼太を照らしている。



 涼太は何かを呟いている。



 その声は聴こえない。



 しかし、涼太が何を綾瀬に告げているのか、なんとなく理解できるような気がしていた。







 月日は流れ。


 金木犀キンモクセイの香りが街を包み。


 すっかり秋めいた10月。


 天野は鎌倉にある病院に立っていた。



河瀬の母親

皆さん……。
今日までお世話になりました。
本当にありがとうございました。



 病院の玄関口。


 河瀬の母親が病院のスタッフに頭を下げている。


 今日は河瀬が退院する日。


 河瀬は満面の笑みを浮かべて、



河瀬結衣

本当にありがとうございます!
これからも通院の際にお世話になると思いますので、改めてよろしくお願いします!



 丁寧に看護師たちへ感謝の言葉を告げている。


 傍らには嬉しそうに笑う友人たち。


 涙ぐんでいる両親。


 誰もが河瀬の退院を祝福している。



天野勇二

ほう……。
あの小娘、なかなか悪くない笑顔を浮かべるじゃないか……。



 天野は遠くからその光景を眺めた。


 声をかけるか迷ったが、もう自分たちは河瀬の前から消えた存在だ。


 話すことはない。


 伝えるべきこともない。


 顔をあわせる理由もない。


 天野は河瀬の背中にひとつの言葉を贈ると、ゆっくりその場を後にした。




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つばこ

かつて、天野くんは荒んだ心の奥底から『本質』を引き寄せました。
前島ちゃんは夢や目標を『本質』と呼びました。
涼太くんは初恋を『本質』に昇華させて生きていくんですね。
そんな生き様を選ぶことで、彼はようやく綾瀬さんを見送ることができたのかもしれません。
 
『嘘つき編』も次回の後日談でラストになります。
最後はやっぱり、あの2人に再会してもらうべきだろうな、と思ってます。
 
ではでは、いつも応援やコメント、本当にありがとうございます!∠( ゚д゚)/

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コメント 34件

  • まこと

    ヤバい、泣きすぎた
    涼太の想いの一行一行に涙が溢れた
    早くいじられキャラに戻ってほしい

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  • 佐倉真実

    チョコケーキの件があるから、もしかしたらいつか涼太くんを思い出して、JKじゃなくなった河瀬さんが、涼太くんを救ってくれるかもしれないなぁなんて淡い期待を捨てられない!

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  • ポンデリング

    涼太……強いな、君は強いよ………幸せになってくれ……

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  • 華満零

    ほんとに切ない…

    涼太が幸せになれますように…!

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  • だいたろう

    綾瀬さんが居なくなって、ポッカリ穴が空いた心を埋めるためにパコ野郎になった涼太君...
    でも、穴が空いた訳ではなく、空いたように感じていた...
    実は本質となり涼太君の根底の部分となっていた...
    自分は学生でまだ全部理解しきってないけどこうなのかな...?

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