河瀬が由比ヶ浜ゆいがはまで倒れた翌朝。



 天野は真っ赤なポルシェを走らせて鎌倉かまくらへ向かった。



 目的地は河瀬がいる病院。



 ロビーには先客の姿があった。




佐伯涼太

……あっ、勇二じゃん。
おはよう。
来てくれたんだね。



 涼太が声をかけた。


 満面の笑みを浮かべている。



天野勇二

河瀬の母親から連絡があってな。
お前はいつ来たんだ?

佐伯涼太

ついさっきだよ。
僕のほうにも連絡があってさ。

天野勇二

もう河瀬には会ったのか?



 涼太は嬉しそうに頷いた。



佐伯涼太

今、会ってきたよ。
マジで結衣ちゃんの『記憶』が戻ってた。
まだ完全じゃないけど、ゆっくり色々なことを思い出してる。
外傷が悪化した気配もないって。
これならすぐに全ての記憶を取り戻せるだろうってさ。



 天野は「ふぅ」と息を吐いた。


 安堵あんどの笑みを浮かべる。


天野勇二

そうか……!
いや、良かった。
どうなるかと思ったぜ。
俺も河瀬に挨拶して来よう。

佐伯涼太

あ、ちょっと待って。
その前に言っておくことがあるんだ。

天野勇二

言っておくこと?
何があるんだ。

佐伯涼太

結衣ちゃんは『僕たちと出会うまで』の記憶を取り戻してるんだ。
むしろそれ以降のことを全て忘れちゃってる。
つまりね、僕たちのことは何も覚えてないんだよ。


 涼太はさらりと言った。


 苦笑しながら言葉を続ける。


佐伯涼太

正確に言うとね、『元カレ』に車から蹴り飛ばされた後からの記憶が欠如してるんだ。

結衣ちゃんは驚いてたねぇ。
今は9月でしょ。
『夜の湘南に置き去り事件』があったのは7月。
目覚めたら2ヶ月も経過して『夏休み』が終わってるんだもの。
結構がっくりしてたよぉ。



 涼太はヘラヘラと軽薄けいはくな笑みを浮かべている。


 そこに河瀬の両親がやって来た。


 天野を見て嬉しそうに頭を下げる。


 2人とも心からの笑顔を浮かべている。


 天野は軽く挨拶を交わすと、涼太に尋ねた。



天野勇二

河瀬には『安江に殴られたこと』を話したのか?

佐伯涼太

それは言ってない。
ご両親とも相談したんだけどさ、そのことは内緒にしようって話になったんだ。


 天野はゆっくり首を横に振った。


天野勇二

それでは話が通じない。
なぜ2ヶ月も眠っていたのか、理由を知りたがるはずだ。
それに河瀬は事件の被害者。
『元カレ』は逮捕されている。
場合によっては供述を求められるぞ。


 涼太が「うんうん」と頷く。


佐伯涼太

警察にはご両親から事情を説明してもらうよ。
目撃者は多いし、『元カレ』は犯行を認めてるし、ある程度は考慮されると思うんだよね。

天野勇二

河瀬にはなんと説明するんだ。

佐伯涼太

『元カレ』が結衣ちゃんを車から蹴り飛ばした。
結衣ちゃんはその時に頭を打って意識を失った。
そのことで『元カレ』は逮捕されちゃった……。


そんなシナリオを伝えようかなって。

天野勇二

なんだと?
なぜそんな『嘘』を……。



 天野は思わず涼太の顔を睨みつけた。


 両親の顔も睨みつける。


 それぞれの顔にはどこか気まずい表情が浮かんでいる。


 天野は嫌そうに息を吐いた。



天野勇二

……そうか。
『安江に殴られたこと』を思い出させたくないのか。


 涼太が頷いた。


佐伯涼太

そういうこと。
結衣ちゃんは『殴られたこと』にひどく怯えてる。
無理してそのことを思い出させる必要はないと思うんだ。

もちろん全てを隠しきれるとは思わない。
いつか本当のことを知るかもしれない。
でも、わざわざ言う必要もないよね。

天野勇二

お前と出会ったことも、お前と『交際』していたことも教えないのか?

佐伯涼太

もちろん。
僕はさ、それがお互いにとってベストだと思うんだよ。

元々僕たちの付き合いなんて浅かったワケだしさ。
別に思い出す必要もないね。
むしろ『元カレ』に殴られたことを思い出すほうが心配なんだ。



 天野はもう一度、河瀬の両親の顔を見つめた。


 どこか気まずそうにうつむいている。


 若干の迷いがある。


 それでいいのだろうかと困惑している。


 しかし反論をあげようとはしなかった。



天野勇二

だが……。
本当にそれで良いのか?
お前は河瀬の『恋人』だろう?


 涼太は呆れたように笑った。


佐伯涼太

何をバカなこと言ってるのさ。
僕は『嘘の恋人』でしかないよ。
それにいくらなんでも子供JKとの交際なんて長くは続けられないからね。


 涼太は胸元から数枚の写真を取り出した。


 神社で仲睦なかむつまじく寄り添う『仮初かりそめの恋人カップル』。


 河瀬のアルバムに追加したものを回収したのだ。


 それを2つに破きながら言った。


佐伯涼太

僕はどこかで結衣ちゃんを捨てる必要があった。
いつか結衣ちゃんの前から消える必要があったんだ。
今がまさにその時だよ。


 河瀬の母親が深々と頭を下げた。


河瀬の母親

すみません……。
あんなに結衣のことを気遣きづかってくださったのに……。

佐伯涼太

いいんですよ。
逆にちょっと申し訳なかったかな、とも考えてるんです。
僕が変な『嘘』を吐いたせいで、結衣ちゃんの快復が遅れたのかもって。

河瀬の母親

そんなことありません……。
結衣が元気になっていたのは、間違いなく涼太くんのおかげですから……。

佐伯涼太

そう言っていただけるなら幸いです。
本当に僕のことは気にしないでください。

じゃあ勇二、結衣ちゃんのお見舞いに行こうよ。
悪いんだけど、今のカンジで話を合わせてくれるかな?


 天野は軽く頷いた。


 両親は納得している。


 涼太もそれで良いと満足している。


 それならもう天野が口を挟む余地はなかった。


天野勇二

……わかった。
お前がそう言うならそれでいい。
河瀬に会おう。



 天野は河瀬の病室へ向かった。


 ゆっくり扉を開け放つ。


 そこには友人たちと談笑だんしょうしている河瀬の姿があった。



河瀬結衣

あっ……!



 河瀬が涼太の顔を見上げる。


 ぺこりと頭を下げた。


河瀬結衣

えっと……。
涼太さん……でしたよね。
なんだか、とてもお世話になったみたいで……。
ありがとうございます。


 辿々たどたどしく頭を下げている。


 他人行儀な姿だ。


 記憶の中から『佐伯涼太』という存在が抜け落ちているのだ。


佐伯涼太

ううん。
気にしないで。
僕は何もしてないからさ。

河瀬結衣

そうなんですか……?
でもなんか、友達がみんな涼太さんに御礼を言えって……。

佐伯涼太

あはは。
そんなのいらないよ。
マジで気にしないで。


 涼太が苦笑する。


 天野はその身体を押しのけ、河瀬の前に立った。


 じっと小柄な女子高生の顔を見下ろす。



河瀬結衣

……?



 河瀬は不安げに天野を見上げた。


 感情を失ったおぼろげな顔ではない。


 出会った時と同じ。


 どこにでもいるような女子高生。


 何か違うとしたら、記憶の中から『天野勇二』という存在が抜け落ちているだけ。


 天野はひとつ息を吐き、優しげに言った。



天野勇二

……良かったな。
君が元気になって何よりだ。

河瀬結衣

は、はぁ……。
どうも……。
えっと、あなたは……?

天野勇二

俺は天野勇二という者だ。
涼太の友人さ。
つまらないものだが、一応『差し入れ』を持ってきた。


 天野が紙袋を差し出す。


 河瀬はそれを見て驚いたように言った。


河瀬結衣

あっ……。
もしかして、チョコレートケーキですか?


 天野は一瞬だけ目を丸くした。


 すぐに呆れたように微笑む。


天野勇二

……そうだ。
友達と一緒に食べてくれ。

河瀬結衣

ありがとうございます。
えっと、天野さん……でしたよね。
私とどこかでお会いしたんでしょうか?

天野勇二

ああ、少し前にな。
じゃあ、俺たちは帰るよ。


 天野はきびすを返した。


 もう話すことは何もない。


 涼太がそれに合わせて言った。


佐伯涼太

それじゃ僕も帰ろうかな。
結衣ちゃん、お大事にね。

河瀬結衣

は、はい……。
どうも……。


 河瀬がぺこりと頭を下げる。


 かたわらの友人たちが戸惑いの表情を浮かべている。


 涼太はそれにウインクを飛ばし、病室を出て行った。




 河瀬の両親に挨拶をして。


 ついでに担当医にも別れを告げて。


 病院の出口を目指す。


 天野は廊下を歩きながら尋ねた。



天野勇二

なぁ、涼太よ。
あれで良かったのか?

佐伯涼太

バッチリだよ。
ごめんね。
話を合わせてもらってさ。

天野勇二

別に構わないさ。
どうせ河瀬たちとは親しい仲じゃないんだ。
どんな決断をしようが知ったことじゃない。
だが、お前はあれで良かったのか?

佐伯涼太

良かったに決まってるよ。
もうガチのハッピーエンド。
最高の結末だね。
僕の予想を遥かに超えた完璧すぎるハッピーエンドだったね。


 涼太は呆れたように笑った。


佐伯涼太

ていうかさぁ……。
今だから言っちゃうけど、結衣ちゃんと付き合うのはマジでしんどかったんだよね。

僕には『女子高生』に手を出す趣味がないんだもの。
好きでもない『子供』のカレシ役を演じるのはキツかったねぇ。
せめて『セックス』できればラクだったのにさ。


 軽く肩を振り回す。


佐伯涼太

そもそも僕は『恋人カノジョ』なんか作りたくないんだ。
そんなの欲しいとも思わない。
女の子なんてパコれればそれでいいのよ。

僕の好みはまず『グラマラスバディ』の持ち主であること。
あとはすぐにヤラせてくれること。
それ以外の女の子に興味なんかないよ。


 大きく伸びをする。


 窓からは爽やかな秋風が吹いている。


 それを胸の奥まで吸い込む。


佐伯涼太

いやぁ、マジで清々した。
このまま交際が続いたらどうしようか不安だったんだ。
結衣ちゃんのお父さんなんてさ、

涼太くんが良ければ娘との真剣交際をお願いしたい。

とか言ってたんだよ?
冗談キツイって。
マジありえないっての。


 大きく息を吐く。


佐伯涼太

つまりは「結婚を前提に真剣交際しろ」ってことでしょ?
あんな同情みたいな関係で『結婚』できるワケないじゃん。

僕はもっと遊びたいんだ。
もっと『ナンパ』や『コンパ』がしたい。
もっとたくさんの女の子とパコパコしたい。

この展開は僕にとってガチのハッピーエンド。
本当に良かった。
これ以上の結末はないね。


 涼太はヘラヘラ笑っている。


 いつもと同じ軽薄けいはくな口調。


 呆れるほどのチャラい男。


 天野は深く息を吐き、その横顔をじっと見つめた。




天野勇二

そうか。
でも、お前……。
泣いてるぜ。




















佐伯涼太

……えっ?






 涼太は驚いて目元を拭った。


 そこは温かい涙があった。



佐伯涼太

あれ……。
なにこれ……。



 何度も目元を拭う。


 止まらない。


 涙が溢れて止まらない。




佐伯涼太

……ほんとだ。
泣いてるじゃん……。
久しぶりに、泣いてる……。





 涼太は手のひらを見つめた。



 瞳からこぼれ落ちる涙。



 なぜ泣いてるのだろう。



 よくわからない。



 なぜこんなに涙が止まらないのか。



 なぜ拭っても拭っても溢れ出るのか。



 わからない。






佐伯涼太

……いや、そうじゃない……。

僕はわかってる……。

わかってるんだ……。






 涙の理由はわかっている。



 少し前から気づいていた。



 そのことを認めたくなかった。



 認めてしまうと、大切なものを失ってしまうような気がしたから。




佐伯涼太

なんだよ……。

あんなの、卑怯じゃんか……。

マジありえないっての……。




 涼太が苦しげに呟いた。


 膝から力を失い、その場にしゃがみこむ。




佐伯涼太

記憶を失ったのに……。

色々なことを全部忘れたのに……。

家族の顔さえ覚えてなかったのに……。

僕のことだけ覚えてるとか……マジでありえないよ……。




 拳を握る。


 力なく床に叩きつける。




佐伯涼太

あんなのズルいって……。

おまけに、僕とのことを何もなかったかのように忘れちゃってさぁ……。

こっちはどうすりゃいいってんだよ……!




 廊下に涼太の静かな泣き声が響いた。


 通り過ぎる看護師や患者たちが、驚いて泣きじゃくる涼太を眺めている。




 天野は涼太の肩を抱き上げた。


 病院の外に連れ出し、空を見上げる。


 台風が去った後の青空。


 突き抜けるように青い。


 天高く、どこまでも澄み渡る、秋晴れの空だ。




 天野は涼太が泣き止むまで、タバコを吸いながら空を眺めていた。






佐伯涼太

……ごめん。
勇二、もう大丈夫……。
恥ずかしいところを見せたね……。




 涼太が立ち上がった。


 ハンカチで目元を拭き、鼻をすすり、大きく深呼吸する。


 天野と同じように秋晴れの青空を見上げる。


 苦笑しながら口を開いた。



佐伯涼太

……なんか、前にも似たようなことがあったね。
あの時は夏だったな。

天野勇二

そうだな。
あの時は、太陽の輝きが恨めしく感じたもんだよ。

佐伯涼太

僕もそうだよ。
勇二、いつもありがとう。
僕の傍にいてくれて。
いつも僕の友達でいてくれて。

天野勇二

水臭いことを言うな。
俺たちは『コンビ』じゃないか。

佐伯涼太

ふふっ……。
そうだね……。



 涼太ははかなげに微笑んだ。



佐伯涼太

もうちょっとだけ、付き合ってくれる?
綾瀬さんに会いたいんだ。

天野勇二

ああ、構わないぜ。
墓参りに行くのか?



 涼太は静かに首を横に振った。


 涙で濡れたハンカチをポケットにねじ込む。


 青空を見上げながら言葉を紡いだ。



佐伯涼太

由比ヶ浜ゆいがはまに行くよ。
やっぱり綾瀬さんは、まだあそこにいると思うから。






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つばこ

いつの間にか泣けなくなった。
どんな涙も、あの時に比べたら『嘘』のように感じてしまうから。
 
涙が嘘を洗い流して。
青空を見上げて。
壊れかけの心を引きずって。
彼はもう一度、忘れることのできない場所に立つ。
 
次回、『嘘つき編』クライマックス!
いつも応援やコメント、本当にありがとうございます!(๑•̀ㅂ•́)و✧

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コメント 42件

  • たかとら

    瞬き聴きながら読んだら泣いてしまった

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  • 佐倉真実

    鼻の奥が痛い…( ; ; )涼太くん、好きだな〜〜〜なんで現実世界にいないかな〜〜〜〜( ; ; )

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  • なめこ@この2人を娘にしたい人

    あかん、、
    泣いてるぜ?
    のとこあかん、、(T-T)

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  • 麒麟です。Queen親衛隊

    私までチョコケーキで天野くんを連想するようになってしまった(・∀・)

    ほんと、神回神作品ですね!!

    涼太の心をいつも支えてくれていたのが天野くんってのも、ほんといい。
    名コンビだよ✧*。

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  • nao

    ヤバい。泣けました(;Д;)(;Д;)

    涼太良い奴。チャラチャラしてるけど
    本当は優しい人だもんね。
    自分のことはお構い無しに相手の幸せだけ考えて...

    涼太、いい友人を持ったね。
    いつも強がってるけど、ちゃんと涼太のことを
    理解してくれてる。、

    この回はホントに神回です。

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