夏の酷暑こくしょが過ぎ。



 涼しげな風が吹き始める9月。



 涼太はそのほとんどを鎌倉かまくらで過ごした。




 まだ河瀬の記憶は戻っていない。


 復学の許可も出ていない。


 それでもリハビリは順調。


 感情は萎縮いしゅくしたままだが、笑顔を浮かべることも多くなってきた。



佐伯涼太

ほら、見てよ。
写真をプリントしてきたんだ。
僕と結衣ちゃんの写真だよ。



 週末の日曜日。


 涼太は河瀬を連れて海に来ていた。


 アルバムの中に何枚かの写真を入れる。


 神社の境内けいだいでおどける涼太。


 その肩に寄り添う河瀬。


 仲睦なかむつまじい『恋人』のセルフィーだ。



河瀬結衣

涼太さん……。
おかしな顔してる……。
変なの……。

佐伯涼太

そうかなぁ?
結衣ちゃんと一緒だから、テンション上がっちゃったのかもね。

河瀬結衣

これ……。
前に行った神社だよね……?

佐伯涼太

そうだよ。
先週末にデートした神社だね。

僕たちはここで『夏祭り』を楽しんだことがあるんだ。
結衣ちゃんってば、こんなに大きな『わたあめ』を頬張ってさぁ。
あれも可愛かったな。

河瀬結衣

そうなんだ……。



 河瀬はアルバムをじっと見つめた。


 新しい涼太との思い出。


 しっかり覚えている。


 しかし『夏祭り』を思い出すことができない。



河瀬結衣

ごめんね……。
お祭りのこと、やっぱり思い出せない……。
すごく大切なことがあった気がするんだけど……。

佐伯涼太

ああ、いいんだってば。
それは気にしないで。

河瀬結衣

確かね、誰かに言われたんだ……。
どうして涼太さんがお祭りに行ったのか。
それがわからないといけないよって……。
そう言われた気がするの……。


 涼太は小首を傾げた。


佐伯涼太

ふぅん?
誰に言われたんだろうね。
でも気にすることないよ。
まぁ、僕の『イケてる浴衣姿』を覚えてないのは、ちょっぴり残念だけど。


 おどけた口調で告げる。


 河瀬が驚いて涼太を見上げた。


河瀬結衣

涼太さん……。
浴衣を着てたの?

佐伯涼太

そうだよ。

河瀬結衣

見たい……!
すごく、見たい……!
涼太さんの浴衣姿、すごく見たい……!

佐伯涼太

あははっ。
じゃあどこかのお祭りに行ってみようか。
お揃いの浴衣を着てみるのも楽しいかも。

河瀬結衣

お、お揃い……!
それ素敵!
でも、ちょっと……。
恥ずかしいかな……。



 河瀬の頬が微かに染まっている。


 まだ感情はおぼろげ。


 意識の半分は夢の彼方。


 それでも徐々に感情が戻ってきている。


 河瀬は確かに快復しつつあった。



佐伯涼太

もし良かったら、これから浴衣を買いに行く?
浴衣姿でデートしてみようか?


 爽やかに提案する。


 河瀬は少し迷った後、ゆっくり首を横に振った。


河瀬結衣

ううん……。
今日はここがいい。
ここで、涼太さんと一緒にいたい……。



 そう言って『由比ヶ浜ゆいがはま』を眺める。


 どんよりした曇り空。


 強い風が吹き、海は荒れ気味。


 うなるような風音が波をかき混ぜている。


 台風が近づいているのだ。


 夜になれば大雨が降るだろう。


 あまり美しいといえる海の風景ではなかった。



佐伯涼太

結衣ちゃんはここが好きだね。
毎週来てるけど、飽きたりしてない?

河瀬結衣

全然飽きない……。
だって、ここは私たちが出会った場所なんでしょ……?

佐伯涼太

そうだね。
僕たちが出会った大切な場所だよ。

河瀬結衣

また、お掃除したいな。
ちょっと汚れてるし……。


 河瀬が砂浜を指さした。


 確かに砂浜は汚れ始めている。


 台風の強い風にあおられ、様々なゴミが散乱している。


佐伯涼太

今日は掃除しなくていいよ。
台風が来てるもの。
むしろ危ないから海に近づくのはやめておこうね。

河瀬結衣

でも、涼太さんはいつも掃除してたんでしょ……?

佐伯涼太

まぁ、そうだけど。

河瀬結衣

私も手伝いたい……。
涼太さんがしてたことを、私もしてみたいの……。


 涼太は軽く息を吐いた。



佐伯涼太

(まいったな……。なんで結衣ちゃんは『砂浜の清掃』を覚えてるんだろう……。そんなに気になることだったのかな……)



 最近の週末、涼太は色々な場所に河瀬を連れ出している。


 『鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐう』や『小町通こまちどおり』を歩いたり。


 『江ノ電えのでん』に乗って寺巡りをしてみたり。


 それでも必ず、河瀬は最後に「由比ヶ浜に行きたい」と言うのだ。


 そして砂浜を掃除したいとせがむ。


 それが「涼太にとって大切な行為である」と記憶しているのだろう。



佐伯涼太

(それは間違ってないんだけど……。結衣ちゃんを巻き込みたくはないんだよね……)



 小さなため息を吐く。


 砂浜の清掃は涼太にとって大切な行為だ。


 それでも河瀬には関わってほしくない。


 むしろ誰にも関わってほしくない。


 出来ることなら、河瀬とはその話をしたくなかった。






天野勇二

……ああ。
またここに来たのか。




 ふいに天野が現れた。


 右手にひとつの紙袋。


 左手に豪華な花束を手にしている。


 涼太は「ほっ」として言った。



佐伯涼太

結衣ちゃん見てよ。
勇二が来てくれたよ。
今日はどうしたの?

天野勇二

たまにはドライブをしようと思ってな。
ポチを走らせてやったのさ。


 花束を砂浜に置き、気障キザったらしく背後を指さす。


 愛車である「真っ赤なポルシェ」が停まっている。


河瀬結衣

あなたは……。
天野さん……。
涼太さんの幼馴染……。


 河瀬がじっと天野を見上げる。


天野勇二

そうだ。
天野勇二だ。
最近のことはしっかり覚えているようだな。

河瀬結衣

うん……。
どこで出会ったのか、思い出せないけど……。

天野勇二

それで構わない。
どうせ大した思い出じゃないんだ。
むしろ忘れてしまえ。


 天野は軽く笑いながら紙袋を差し出した。


天野勇二

君にプレゼントだ。
銀座で買ってきた。
鎌倉じゃ食えないような『スイーツ』が入ってるぞ。


 河瀬が「はっ」と紙袋を見つめた。


 嬉しそうに呟く。


河瀬結衣

ありがとう……!
なぜか、わからないけど……。
天野さんを見ると『甘い物』が食べたくなるから……。

天野勇二

あっはっは。
不思議だよな。
俺はパティシエじゃねぇのによ。

河瀬結衣

『オペラ』はある?
あれ、大好きなんだ……。

天野勇二

ああ、入ってるぜ。

河瀬結衣

やった……!
食べてもいいかな……?

天野勇二

そう言うと思って、フォークと皿を用意してある。
アルコールタイプのウェットティッシュもあるぞ。
ちゃんと手を拭けよ。



 河瀬は「こくり」と頷いた。


 しっかり手を拭き、膝の上に皿を乗せて、ケーキを「ぱくぱく」と頬張る。


 相変わらず表情はおぼろげ。


 それでも瞳は嬉しそうに輝いている。


 天野はその様子を眺めながら、小声で涼太に話しかけた。



天野勇二

おい涼太……。
なぜここに来た。
違う場所に連れて行けよ。
台風も近づいてるらしいぜ。


 涼太は疲れたように笑った。


佐伯涼太

うん……。
そうなんだけどね。
結衣ちゃんは、ここが好きみたいでさ。
どこに連れて行っても必ず「由比ヶ浜に行きたい」って言うんだよ。

天野勇二

あまり無理をするな。
気乗りしないなら、はっきり断ってしまえ。

佐伯涼太

そんなのできないよ。
僕ちゃんってば、女の子にはとびきり優しいタイプだからね。


 ニンマリと口元を歪める。


 ケーキを頬張る河瀬を見つめる。


 その視線を、砂浜の一角に移した。




佐伯涼太

…………




 涼太以外の人間にとっては『なんてことのない砂浜』のひとつ。


 目印になるものを置いている訳ではない。


 それでも忘れることのできない場所。 


 初恋の女の子。


 綾瀬清美あやせきよみに永遠の別れを告げた場所だ。




佐伯涼太

…‥僕は、最低なんだよね。




 涼太がぽつりと呟いた。



佐伯涼太

結衣ちゃんと一緒にいるのに、ずっと違う女の子のことを考えてる。
今もそうだよ。
考えることがやめられないんだ。



 苦笑しながら波間を眺める。


 いつもより荒れている波。


 時折、潮風が強く吹き抜けている。


 涼太は自嘲じちょうするように唇を歪めた。



佐伯涼太

綾瀬さん……。
怒ってないかな。

ここは『僕たちの場所』なのに。
初めて僕たちが抱きあえた場所なのに。
全然知らない女の子を連れて来るなんて、ヤキモチ焼いてないといいんだけど。



 天野は何か告げようと口を開いた。


 その時だった。




河瀬結衣

きゃっ……!




 由比ヶ浜に強い風が吹いた。


 突風だ。


 砂が潮風に乗って舞い上がる。



河瀬結衣

ああ……。
落としちゃった……。



 河瀬が悲しげに地面を眺めている。


 突風にあおられて、食べていたケーキを落としてしまったのだ。


佐伯涼太

ありゃま……。
大丈夫?
服、汚れてない?


 苦笑しながら声をかける。


 河瀬の腕とスカートがチョコで汚れている。


 前髪には巻き上がった砂がかかっている。


 涼太はそれを軽く払った。


河瀬結衣

……えっ?


 河瀬が驚いて顔を上げた。


 前髪に触れる涼太の指先を見つめる。


佐伯涼太

ああ、動かないで。
髪の毛に砂がついてるんだよ。


 優しげに砂を払う。


 河瀬はその手を見つめている。


 瞳を大きく見開いて。


 驚いたように凝視ぎょうししている。


 唇が震え始めた。


 顔色が見る見る内に青くなる。


 浮かび上がる恐怖の表情。


 天野が異変を感じた時には、もう手遅れだった。




河瀬結衣

……いやぁぁァッ!




 砂浜にとどろく絶叫。


 河瀬が血相を変える。


 涼太の手を振り払った。




河瀬結衣

いやだ……!
やめて!
来ないで!
叩かないで!
やめてよぉぉっ!




 悲鳴をあげながら走る。


 砂浜を駆けていく。


 涼太は慌てて追いかけ、河瀬の肩を抱きしめた。



佐伯涼太

ご、ごめん!
待って!
結衣ちゃん待って!

河瀬結衣

離してぇ!
いやだ!
やめて!
叩かないで!

佐伯涼太

う、うん……!
わ、わかるけど、落ち着いて!
誰も君を叩いたりしない!
大丈夫だから!

河瀬結衣

怖い……!
怖いよぉ……!


助けて……!

涼太さん、助けて……!



 河瀬の顔がどんどん白くなる。


 喉から漏れるかすれ声。


 口をぱくぱくと開けている。


 手足が麻痺したかのように震えている。


 天野は慌てて涼太を押しのけた。



天野勇二

離れろ。
過換気かかんき』を起こしている。



 河瀬の背中に手を当てる。



天野勇二

河瀬、座るんだ。
目を閉じろ。
ゆっくり息を吐け。

河瀬結衣

涼太さん……!
怖い……!
苦しいよぉ……!

天野勇二

安心しろ。
涼太はここにいる。
何も喋らなくていい。
誰も君を傷つけたりしない。

河瀬結衣

怖い……!
苦しい……!
涼太さん、助けて……!



 河瀬の声が途切れた。


 まるで糸の切れた操り人形のように。


 ぐったりと砂浜に崩れ落ちる。


 意識を失っていた。



天野勇二

くそっ……!
涼太!
救急車だ!
救急車を呼べ!



 河瀬の身体を抱き起こしながら叫ぶ。


 しかし返事がない。


 天野が振り返ると、





佐伯涼太

……あ、ああ……!
……あああ……!





 青ざめて立ちすくむ涼太の姿があった。


 わなわなと震えている。


 倒れる河瀬を見下ろしている。


 浮かべているのは絶望の表情。


 まるで悪魔を見ているような。


 この世に存在する全ての恐怖を見ているような表情だ。



天野勇二

涼太……!



 その時、天野は見た。


 亀裂きれつが走り、砕け散ろうとする『涼太の心』を見た。


 天野はもう一度叫んだ。




天野勇二

涼太!
しっかりしろ!
コイツは綾瀬じゃない!
綾瀬はもう死んだんだ!
綾瀬はもう、ここにはいないんだよ!



 雷にでも打たれたかのように。


 涼太の全身が「びくん」と跳ねた。


 震える手でスマホを取り出す。


 天野は唇を噛み締めながら、まぶたを閉じた河瀬の姿を見下ろしていた。








 救急車はすぐにやって来た。


 河瀬を鎌倉の病院まで搬送。


 天野は付き添いながら河瀬の両親に連絡を入れた。



 河瀬が倒れた理由を説明。


 自分たちに不手際があったことを謝罪。


 天野は両親から罵声を浴びせられることも覚悟していたが、



河瀬の母親

……ありがとうございます。
結衣のことを気にかけてくださって。



 両親は天野たちを責めようとしなかった。


 それが天野にとっては苦しかった。



河瀬の母親

結衣はまだ眠っていますが、容態は悪くないそうです。
お医者様は、明日までには目を覚ますだろうと仰ってました。



 天野は軽く頷いた。


 パニックによる『過換気症候群かかんきしょうこうぐん』。


 重症化するものではない。


 むしろ気絶してしまうことがまれだ。



河瀬の母親

結衣が目を覚ましたら、また連絡しますね。
今日のところはお帰りください。



 天野と涼太は両親に頭を下げ、鎌倉の病院を後にした。






 その日の深夜。


 天野と涼太が東京に帰った後のこと。


 台風が関東かんとう地方に上陸し、鎌倉には大雨が降っていた。


 河瀬はゆっくり目を覚ました。



河瀬結衣

……あれ?
ここは、どこ……?



 付き添っていた母親が嬉しそうに声をかける。



河瀬の母親

良かった……。
おはよう。
どこも痛くない?
苦しくはない?

河瀬結衣

うん……。
お母さん、ここはどこ?

河瀬の母親

ここは病院。
あなた倒れちゃったのよ。

河瀬結衣

えっ?
病院?
なんで病院にいるの?

河瀬の母親

涼太くんたちが運んでくれたの。
ちゃんと御礼言いなさいよ。



 河瀬が「きょとん」とした表情を浮かべた。



河瀬結衣

……『涼太くん』
それって誰のこと?

河瀬の母親

涼太くんは涼太くんでしょ。
あなたの『カレシ』じゃないの。



 河瀬はいぶかしげに顔を歪めた。


 まじまじと母親の顔を見上げる。


 呆れたように言った。



河瀬結衣

なに言ってるの?
『カレシ』の名前は『まーくん』だよ。
『涼太くん』って……。
誰のこと?





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つばこ

お気づきの方もいたかもしれませんが、涼太くんの心はずっと緩やかに壊れ続けていたんだと思います。
時が全てを忘れさせてくれる、とかいいますが、彼の場合は時が重症化させたような気がします。
 
たぶん天野くんは気づいていたことでしょう。
ただ、彼はどうしたらいいのか、本当にわからなかったのだと思います。
彼は涼太くんを信じています。
だけどもしかしたら、信じることしかできなかったのかもしれません。
 
『嘘つき編』もクライマックスに入りました。
もうちょっとだけお付き合いください。
いつも応援やコメント、本当にありがとうございますく(`・ω・´)
※2018.11.01 誤字修正いたしました。

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コメント 39件

  • 田中

    涼太…!って言い方が凄く切ない
    天野もこの涼太を見たとき、かなり絶望的な顔してたんじゃないかと思う

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  • LAMP

    涼太は偉いよ…

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  • 佐倉真実

    えっ( ゚д゚)
    まーくんを好きって気持ちだけ残っちゃったらもう元の木阿弥…

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  • のなか

    涼太は深い深い傷を負ってたんだね
    普段の涼太の明るさと笑顔はその裏返しだと思うと余計悲しい

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  • まこと

    やっぱ、忘れたー!
    まー君に振られたとこからか、複雑。
    不幸中の幸い、天野が居なかったら二人とも無事では済まなかった気がする

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