箱根湯本はこねゆもとの駅近く。


 早川はやかわの渓谷沿いに建てられたホテル。


 自家源泉かけ流しの露天風呂を楽しめるのにリーズナブルな料金で宿泊できる、というコスパを重視した旅行客に人気のホテルだ。


 しかも露天風呂は24時間利用可能。


 天野は温泉の入り口に立ち、慎重に周囲を警戒していた。



天野勇二

よし……。
他には誰もいないな……。



 時刻は深夜2時。


 温泉に入っているのは1人だけ。


 それを確かめ『貸切中』の札をかける。


 念のため扉を施錠せじょう


 上半身裸となり洗い場へ向かうと、親しげに『先客』へ声をかけた。



天野勇二

いよう。
湯加減はどうだ?



 身体を洗っていた先客が振り返る。


 驚きの声をあげた。






飯塚尚樹

あ、あれ……?
えっと、確か……。
芸能事務所の人でしたっけ……?



 風呂には『前島悠子の元カレ』こと飯塚の姿。


 「ぽかん」と口を半開きにしている。



天野勇二

そうだ。
芸能事務所のSPこと天野だ。
話したいことがあってな。
君が1人になる時を待っていたのさ。

飯塚尚樹

話したいこと……?
えっと……。
そのために、わざわざここまで……?

天野勇二

ああ、そうだ。


 天野は平然と頷いた。


飯塚尚樹

そ、そうなんですか……。


 飯塚はたちまち不安になった。



 なぜ、自分がここに宿泊していることを知っているのだろう。


 調べたのだろうか。


 尾行でもしていたのだろうか。


 『芸能界』とはそこまでするのだろうか。



 飯塚の困惑をなだめるように、天野は穏やかに微笑んだ。


天野勇二

怯えることはない。
君とは平和的に『交渉』したいんだ。

飯塚尚樹

交渉……?

天野勇二

昼間は乱暴なことを言ったが、あれは本心じゃない。
前島タレントの手前、強気な態度を示す必要があったんだ。
君には悪いことをしたな。

飯塚尚樹

は、はぁ……。

天野勇二

わかっていると思うが、交渉したいのは『写真』のことだ。
どんな『写真』なのか詳しく教えてくれ。
そして、売ってほしい。
決して公表しないと誓約書も書いてほしいんだ。


 とても穏やかな口調だ。


 昼間に見せた『本職の極道』の気配を消している。


 飯塚は安堵あんどし、素直に言った。


飯塚尚樹

いやぁ……。
実は『写真』なんか持ってないんですよ。
昔の悠子は……前島さんは、すごく写真が嫌いな子で、1枚も撮らせてくれなかったんです。
今思えば、無理言ってでも撮らせてもらえば良かったなぁ……。


 気恥ずかしげに頭をかく。


 天野は冷静に飯塚を見つめた。


 この男は目を見るだけで、ある程度の心理を読んでしまう。


 特に『嘘』を見破るのは得意中の得意。


 飯塚の顔に『嘘』の気配はない。


 それでも念のため尋ねた。


天野勇二

本当かい?
君は『恐喝』していたぜ。
前島が困る『ネタ』を握っているんじゃないのか?

飯塚尚樹

いやいや……。
ネタなんか持ってませんよ。

天野勇二

さすがに信じがたいな。
『隠し撮り』することも容易かったはずだ。
『動画』や『手紙』もうまく使えば『恐喝』のネタになる。

これが最後の質問だ。
本当に何も持ってないのかい?


 飯塚はヘラヘラと笑みを浮かべた。


飯塚尚樹

本当ですってば。
昼間だって『恐喝』するつもりじゃなかったんです。
誤解させてすみません。
前島さんに迷惑をかけることは………


 ふいに天野が右腕を動かした。


飯塚尚樹

えっ?



 それは突然の行動だった。


 威嚇いかくはもちろん、警告の言葉もなかった。


 身構える暇もなかった。


 腹部に重い衝撃が走り、膝をつき、猛烈な吐き気が込み上がるまで、飯塚は何が起きたのか理解できなかった。



飯塚尚樹

ごほっ……!
い、いてぇ……!



 驚いて顔を上げる。


 そこに立つのは拳を握り、殺気をみなぎらせる天野。


 この時、ようやく飯塚は「腹を殴られたんだ」と気がついた。



天野勇二

くだらねぇ……。
お前はくだらねぇな……。

幼稚園で教わらなかったのか?
悪いことをしたら素直に謝りましょう、とな。

もう我慢の限界だ。
処刑してやる。



 飯塚の頭を掴む。


 強引に露天風呂の湯船まで引きずっていく。



飯塚尚樹

な、なにをす……ぎゃあ!



 乱暴に組み伏せて、飯塚の顔を湯船に叩きつける。


 天野は狂気の笑みを浮かべた。







天野勇二

おい小僧……。
言ったはずだぜ。
『俺たちをナメるな』とな……!


この後に及んでもグダグダとつまらねぇ言い訳を喋りやがって。
生意気なクソガキだ。
お仕置きしてやろう。


 もがく飯塚の頭を掴み上げる。


 湯船の中に押しつけた。


飯塚尚樹

……ッ!

がぼばっ……!

や、やめ、やめて……!


 手足をバタつかせて抵抗。


 しかし、天野はとんでもない力で飯塚を押さえつけている。


 跳ね除けることができない。


天野勇二

どうした?
苦しいのか?
やめてほしいのか?

だったら認めろよ。
お前は存在しない『写真ネタ』で女を恐喝したんだ。
黙ってやる代わりにヤラせろと、肉体関係を迫った最低最悪のゲス野郎なんだ。


 何度も、何度も。


 飯塚の顔を湯船に押し付ける。


 苦悶くもんの悲鳴を無視して。


 まるで何かの遊戯ゆうぎを楽しむかのように。


天野勇二

自分がどれだけ醜い所業に手を染めたのか、本当は理解しているのだろう?
だから哀れな言い訳を繰り返すのだろう?

早く認めろよ。
そして俺様と前島に詫びろ。
例え『写真ネタ』が存在しなくとも、お前のやった行為は『恐喝』なんだ。

死ぬ前に謝罪したほうが利口だぞ?


 天野は本気だ。


 このままだと殺される。


 飯塚は必死の口調で叫んだ。


飯塚尚樹

……す、すみません!
しました!
恐喝しました!
どうしても、悠子の気が引きたくて……!
許してください!


 天野はニタリと唇を歪めた。


天野勇二

やっと詫びたか。
俺様をナメやがって。
カタギの人間だと甘く見るなよ。
お前の『個人情報』を入手することは容易い。
ここで殺すことも容易いんだ。


 飯塚の耳元に唇を近づける。


 狂気に満ちた声を吐いた。


天野勇二

いいかクズ野郎。
これが最後の警告だ。

二度と前島悠子に近づくな。

あの小娘に関わったことを公言するんじゃねぇ。
アイツの経歴キャリアけがす時、それはお前の人生が終焉しゅうえんを迎える時だと悟れ。
わかったな?


 飯塚は必死に頷いた。


飯塚尚樹

は、はい!
もう二度と、近づきません!
こ、こ、殺さないでください……!


 青ざめた顔で叫ぶ。


 天野は舌打ちしながら飯塚から離れた。


 飯塚は酸素を求めて咳き込んでいる。


 天野はそれを見下ろすと、


飯塚尚樹

……ぎゃん!


 背中を思い切り踏みつけた。


 嫌そうに吐き捨てる。


天野勇二

チッ……。
ちっとも楽しくない。
クズを処刑する時とは、もっと愉快で悦楽えつらくに満ちた時間になるはずなんだがな……。

やはり、腕の一本でも折るか。
アキレス腱を切るのも悪くない。
いっそのこと、指の骨を全て粉砕してしまうかな……。

飯塚尚樹

ひぃぃ……!



 飯塚の顔がこれ以上ないほどの絶望に染まった。


 下半身が温泉ではないもので濡れている。


 初めて味わう人生最大の恐怖。


 ガタガタ震えながら言った。



飯塚尚樹

お、お願いです……!
もう、勘弁してください……!
本当に、前島さんには、近づかないって、約束しますからぁ……!



 青ざめて命乞い。


 ボロボロ泣き出している。


 それを見て、ようやく天野の溜飲りゅういんは下がった。



天野勇二

……いいだろう。
それを守るなら生かしてやる。

だが、次はないぞ。
次は温泉ではなく地獄に沈めてやる。
寛大かんだいな俺様に感謝しやがれ。

飯塚尚樹

は、はい……!


 ブルブル震えながら頷く。


 その顔に『嘘』の気配はない。


 天野はそれを確かめて言った。


天野勇二

お前は本当に浅はかな男だ。
本気で『恐喝』するつもりはなかったくせによ。
例え『冗談半分』だったとしても、あんなことを言えば、こうやって手酷いむくいを受けるのさ。
良い勉強になっただろう。


 飯塚がぐったりうなだれる。


天野勇二

俺様はな、近くでお前の顔を見ていたんだ。
前島に『拒絶』された時の、お前が浮かべていた顔をな。
まるで『捨てられた犬』のようだったよ。
寂しげで、悲しげで、情けないガキの顔そのものだった。


 偉そうに言葉を続ける。


天野勇二

お前もきっと、かつては本気で『恋』をしたのだろう。
それは『国民的アイドル』と呼ばれ、老若男女ろうにゃくなんにょから愛されるスターの可能性ポテンシャルを持つ女だった。

お前は無意識の内にそれを見抜いた。
初めて気づき、見出し、その魅力に触れ、全てを手にした。
それなのに、つまらない理由で女の手を放してしまった……。

お前はそのことをずっと『後悔』していたのだろう?



 飯塚が驚いて天野を見上げた。



天野勇二

お前は信じていたんだ。
自分が『後悔』を引きずっているように、前島もお前の存在を『トラウマ』として引きずっているはずだと。
それが忌み嫌う記憶だとしても「国民的アイドルの中に自分の存在がある」と信じていたんだ。



 その言葉はいかづちのように飯塚を打った。


 驚愕の表情で天野を見つめる。



飯塚尚樹

……なんで……。

どうして……。

そんなこと、わかるんですか……?



 震える唇を開く。


 天野は呆れたように答えた。



天野勇二

俺様は『恋』なんて感情を知らないが、それぐらいは理解できるさ。
好きな女を困らせて注意を引く。
小学生クソガキの思考だ。

だが、如何せん手口が悪すぎる。
深く反省しなければ、いつかこれ以上のしっぺ返しを喰らうぞ。



 飯塚は苦しげに肩を落とした。


 ぽつりと、呟く。



飯塚尚樹

……あの頃……。

僕は本当に……。

バカだったんです……。



 涙に濡れた顔を歪ませる。



飯塚尚樹

いや、今もそうか……。

どうしても行ってほしくなかった……。

だって、悠子は、僕のことなんか、心底どうでもいいって顔をしていて……。

本当は、あの時のことを、ちゃんと謝りたかったのに……。



 飯塚の嗚咽おえつが露天風呂に響く。


 天野はじっとそれを眺めた。


 吐き捨てるように告げる。



天野勇二

忘れることだな。
どうやって忘れるかは自分で考えろ。
前島はそうやって過去を乗り越えた。

まぁ、お前にも救いはあるさ。
少なくとも『見る目』だけはあるんだ。
人間性はクズで、性根は腐っており、身勝手で、この先の人生が祝福に満ち溢れることはない。
それでも『見る目』だけはあった。
それだけを誇ればいいさ。

俺様は正直、お前のことさえ羨ましく感じ…………うん?


 天野は小首を傾げた。


天野勇二

羨ましい?
なぜだ?
妙なことを言ったな。

とにかく、もう忘れろ。
二度と俺たちに近づくなよ。



 天野はそう言って露天風呂を後にした。


 『貸切中』の札を投げ捨てる。


 ホテルを出るとスマホに着信が入った。


 画面には見覚えのある名前が表示されている。



天野勇二

ほう……。
やはりかかってきたか。


 感心しながら電話に出る。


川口由紀恵

天野様。
お久しぶりです。
川口でございます。

天野勇二

久しいな。
こんな時間にどうした?

川口由紀恵

とぼけないでください。
悠子ちゃんを叱って、ようやく白状させました。
箱根で『デート』したらしいですね。
どうせそんなことだろうと思ったんです。


 天野は薄く笑った。


天野勇二

鋭いな。
相変わらず仕事のできる女だ。

川口由紀恵

茶化さないでください。
ちゃんと夜までに悠子ちゃんを送り届けてくれましたから、今回は特別に目をつぶります。
でも、もうやめてくださいよ。


 心を鬼にして言葉を続ける。


川口由紀恵

天野様との『関係』が発覚すれば、悠子ちゃんのアイドル生命が終わりかねません……!
絶対に『朝帰り』なんかさせないでくださいね!

天野勇二

あっはっは。
お前は心配性だな。
そんなことに興味はないさ。

川口由紀恵

そのお言葉を信じております。
それと、もうひとつ……。


 声の調子を改めて尋ねる。


川口由紀恵

天野様も『元カレ』にお会いしたんですよね?
宜しければ詳しく教えていただけませんか?

天野勇二

ああ、そのことか。

川口由紀恵

そうです。
さすがに驚きました。
『元カレ』の存在がおおやけになったことは、これまで一度もなかったんです。

恐らく問題にはならないと思いますが、『写真』と『恐喝』は厄介です。
場合によっては警察に届けなければなりません。

天野勇二

それはもう解決した。
写真ネタ』は存在しない。
『元カレ』が前島に近づくこともないだろう。
安心してくれ。

川口由紀恵

えっ?
解決した……?
ま、まさか……!


 川口は驚いて尋ねた。


川口由紀恵

どういうことですか!?
まさか『元カレ』に会ったんですか!?
い、今、天野様は、どちらにいらっしゃるんですか……!?

天野勇二

まぁ、もういいだろ。
俺様は眠いんだ。
切るぞ。


 天野はあっさり電話を切った。


 スマホの電源も落とす。


 大きく背を伸ばしながら箱根の夜空を見上げた。



天野勇二

まったく……。
東京と箱根の2往復は疲れるな。
こんなことなら宿をとっておけば良かったぜ……。



 箱根の美しい夜空。


 東京では見られないきらめく星々。


 無数の輝きに抱かれながら、天野はニヤニヤと悪い笑みを浮かべていた。






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つばこ

担当「つばこさん、今回のエピソードの挿絵ですが」
つばこ「はい」
担当「『乙女ゲー的師匠』と『露天風呂フルボッコ』。どちらか片方だけ描いてもらえます。どちらにしますか?」
つばこ「『露天風呂フルボッコ』でお願いします(即答)飯塚の泣きっ面が見たいです(迫真)」
 
 
川口さんが言った通り、天野くんは夜までに箱根を立ち去り、前島ちゃんを自宅(東京)まで送り届けております。
つまり「箱根に1泊しないで帰るんですか!? 温泉は!? 師匠と混浴っていうドキドキイベントはないんですか!? 読者もそういうの期待してると思いますけど!!!」みたいなことを叫ぶ前島ちゃんをシカトし、ポルシェを走らせたワケですねぇ(´∀`*)ウフフ
 
そんなこんなで『初デート編』も次回の後日談がラスト!
いつも応援やコメント、本当にありがとうございます!(*´Д`)

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コメント 53件

  • ルキ@永年戦争パンドラの箱

    天野くんの行動がすごく早い。
    二度と前島さんに会わせる気無かったんだろうな。

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  • 佐倉真実

    挿絵ってこれかーい笑

    それにしても天野くん、いい兆候ですね…(* ´ ω`*)

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  • 朝の眠り子

    確かに裸だったけど、思ってたんと違う…

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  • バルサ

    笑笑笑…天野くん達ね、そっちか~(^^;やられたな(^^)

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  • みと@第3艦橋OLD


    冗談半分でも、下衆な絡みをしてくる酔っ払い共にも
    天野の制裁を。

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