リカルドの部屋を出ると、黒崎は懐に手を伸ばした。


 険しい瞳で周囲を見回す。



黒崎

…………



 分厚い絨毯じゅうたんが続くホテルの廊下。


 人影は見当たらない。


 誰かが潜んでいる気配も感じられない。



天野勇二

(……随分と警戒しているな)



 額からは滝のような脂汗。


 青い顔には死相が浮かんでいる。



天野勇二

(何者かの『襲撃』を恐れているな……。ここで殺されることも覚悟してやがる。『毒蛇』が狙われているのは、紛れもない真実だということか……)



 天野は襟元を確認しながら声をかけた。



天野勇二

黒崎よ。
襲撃や尾行を警戒しているなら非常階段を使おう。
エレベーターに乗れば階数を見破られるぞ。

黒崎

ああ……。
そうだな。


 黒崎がひとつ頷く。


 どこか呆れた表情で天野を眺めた。


黒崎

お前は相変わらずの『天才クソ野郎』だな。
『毒蛇』にも遠慮なく啖呵たんかを切りやがって……。
よくそこまで冷静でいられるな。

天野勇二

理由は単純さ。
俺は全ての状況を理解していない。
お前が説明しないからだ。


 責めるように黒崎を睨む。


黒崎

……ああ、悪いな。
さすがに説明すべきだろうな。

天野勇二

当然だ。
階段で話そう。



 天野たちはホテルの非常階段に出た。


 一流ホテルのためか。


 それとも高層階のためか。


 階段を利用している人影はない。


 それでも黒崎は慎重に口を開いた。



黒崎

俺が『毒蛇 セルペント・ヴェレノーゾ』に会い、身柄を保護すべきか判断する……。
そう説明したな。
悪いがあれは嘘だ。
既に外務省はリカルドを保護することを決定している。


 ささやくような小声で告げる。


 天野は小さく頷いた。


天野勇二

そんなことは初めから察している。
お前の役目はリカルドが『本物』なのか確認すること。
そして、リカルドへの『襲撃』があれば上層部ボスに報告することなのだろう?


 黒崎は頷き、愚痴るように言った。


黒崎

その通りだ。
ヤツは一流の殺し屋。
しかも毒物のプロ。
ボスから「単独で面取めんとりして来い」と命じられた時は耳を疑ったよ。

天野勇二

お前は昔も今もボスの『捨駒お気に入り』だな。
出世が遠そうで同情するよ。
なぜリカルドは日本政府に救援SOSを出したんだ?


 皮肉を交えながら核心の質問を飛ばす。


 黒崎はじっと天野の顔を見つめた。


黒崎

……これは『民間人』に喋ることではない。
だから、俺は今から『独り言』を呟く。
そのつもりで聞け。

天野勇二

ああ、いいだろう。


 天野が軽く頷く。


 黒崎は階段を下りながら語り始めた。


黒崎

リカルドが日本で目撃されたのは数日前のことだ。
それまで俺たちはヤツが来日したことを掴んでいなかった。

まさに『最悪』といえるタイミングだったよ。
俺たちは『アメリカ大統領の娘』の対応で手一杯。
さすがにマークしきれない。

その隙を狙い、リカルドは『誰か』と接触した。

天野勇二

『誰か』とは何者だ?
リカルドと同じ『殺し屋』か?

黒崎

それはまだ不明だ。
だが『取引相手』であることは間違いないだろう。
リカルドは『誰か』『毒物』を売りつけたのさ。


 黒崎は悔しげに顔を歪めている。


 この表情を見る限り、外務省は本当に『取引相手』素性すじょうを掴んでいないのだろう。


黒崎

リカルドは多種多様な『毒物』を扱う男だ。
しかもその全てを『現地で精製する』という癖を持っている。

つまり入国時も出国時も『毒物』を所持しないんだ。
現地で『毒物』を作り上げ、すぐさま売り飛ばす。
だからこそヤツを逮捕するのは難しい。

天野勇二

『現地』で精製する……。
つまり、リカルドの『取引相手』「日本国内で毒物を使う予定がある」ということか。

黒崎

その可能性が高い。
だから日本政府はリカルドの身柄を保護してでも『取引相手』の情報が欲しいのさ。

天野勇二

なるほどな……。
『取引相手』の見当はついてないのか?



 階段を下る足を止め、黒崎は真剣な表情で天野の顔を見つめた。


 口唇を強く噛みしめている。


 これから吐く言葉を天野に告げるべきなのか、悩んでいるのだ。



黒崎

……まったく見当がつかない。

殺し屋プロ』なのか。
民間人カタギ』なのか。
工作員エージェント』なのか……。

何ひとつ判明していない。
だが、ひとつだけ『噂』が存在する。
上層部はそれが確かな情報だと踏んでいるんだ。

天野勇二

『噂』だと?
それはなんだ?

黒崎

それがな……。
どうも『取引相手』『パレスチナ』の人間らしいんだよ。

天野勇二

なんだと……!?



 天野の表情が一気に真剣味を帯びた。



天野勇二

『パレスチナ』だと!?

まさか……!
いや、そうか……!
そういうことか……!

『取引相手』がリカルドの『毒物』で狙っているのは『アメリカ大統領の娘』なのか!?



 黒崎は感心したように口唇を歪めた。



黒崎

話が早くて助かる。
その通りだ。

『取引相手』は現在来日中の『大統領の娘』の暗殺を計画している可能性が高い。
つまり、これは単なる『テロ事件』でも『毒物事件』でもない。

『パレスチナ・イスラエル問題』に絡んだ紛争ふんそうのひとつだ。



 天野は襟元に手をやりながら、額に浮かんだ脂汗を拭った。


 顔には明らかな動揺が浮かんでいる。


 天野ほどの男でも我を忘れかねないほどの動揺。


 それも無理はない。


 さすがにこの『情報』は天野の想定を遥かに越えていた。




 『パレスチナ・イスラエル問題』




 それは世界を悩ます戦争のひとつ。


 いつか『第三次世界大戦』にまで発展するのではないか、とも恐れられている国際問題だ。


 発端は20世紀初頭のイギリス外交。


 アラブ人を主とするパレスチナ人と、国を持たないユダヤ人に「パレスチナの土地を与える」と約束したことが始まりだった。


 『パレスチナ』とユダヤ人が建国した『イスラエル』。


 2つの『国』がひとつの領土を取り合う血みどろの紛争だ。



天野勇二

発端は米国アメリカ大統領』の『過激な発言』か。
確かに先週、大統領はパレスチナ問題に関する厄介な宣言を出したな。


 黒崎は静かに頷いた。


黒崎

そうだ。
『大統領』は先週、

「イスラエルの首都は『エルサレム』である」

と宣言した。
国連は『テルアビブ』がイスラエルの首都であると決議していたのに、それを蹴り飛ばしたんだ。
ご丁寧にも、

「イスラエルのアメリカ大使館もエルサレムに移す」

とまで付け加えてな。



 『エルサレム』とはパレスチナ・イスラエルにある街の名前。


 古代イスラエル・ユダ王国の首都であり、イエス・キリストが処刑された地であり、ムハンマドが昇天したといわれる場所。


 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の聖地だ。


 パレスチナとイスラエルが最も重要視している土地でもある。



天野勇二

その宣言は知っている。
また『過激な発言』を飛ばしやがったと思ったぜ。

黒崎

ああ、さすがに過激すぎる。
イスラエルのエルサレム実効じっこう支配を容認したようなものだ。
それは言い換えれば、

「ユダヤ人こそがエルサレムを統治するに相応しい」

と認めたようなもの。
パレスチナ人はもちろん、キリスト教やイスラム教信者としては見過ごせない宣言だ。
パレスチナの反米感情は一気に高まったことだろう。



 アメリカは『ユダヤ系アメリカ人』の発言力が強い国だ。


 そのためアメリカ大統領は『ユダヤ系』の支持を集めるため、イスラエルに関する前向きな姿勢を示すことがある。


 今回の『宣言』もそのひとつ。


 黒崎は疲れたように言った。



黒崎

もし、このタイミングで『大統領の娘』が襲撃されれば……。
しかも犯人が『パレスチナ』『アラブ人』『イスラム圏』の人間だった場合、パレスチナ問題は更なる混沌に叩き落とされる。

イスラエルのパレスチナへの攻撃は過激さを増し、アメリカもそれに参戦し、当然ながらパレスチナ側も激しい抵抗を試みる……。

和平を望む人間からすれば最悪の展開だ。
第三次世界大戦が開戦しても何ひとつ不思議じゃないのさ。


 天野は拳を握り、熱い息を吐いた。


天野勇二

だから日本政府は『毒蛇』を保護するのか。
確かに優先すべきは『殺し屋の確保』より『世界の平和』だ。

黒崎

アメリカとしても『大統領の娘』が暗殺されることは避けたい。
日本政府も国内で戦争の火種を生み出したくはない。
おまけに『モサド』が動き出している、という噂もあってな。



 『モサド』とはイスラエルの諜報機関ちょうほうきかんだ。


 『世界最強の諜報機関ちょうほうきかんと呼ばれており、そのスパイ技術は他国を圧倒する。


 リカルドの『取引相手』がパレスチナと繋がっているのであれば、モサドが動くのも当然といえるだろう。


 天野は納得したように言った。



天野勇二

そうか……。
『モサド』が日本政府に伝えたんだな。

『大統領の娘』が暗殺されようとしている。
『毒蛇』が関与している可能性が高い。
大事おおごとになる前に阻止しろと……。

黒崎

そうだ。
イスラエルの中にも和平を望む人間はいる。
しかも『大統領の娘』の夫はユダヤ系アメリカ人なんだ。
いくらイスラエルがパレスチナを潰したいと考えていても、『同族』の妻が暗殺されてほしいとは考えちゃいない。


 黒崎は肩をすくめた。


 震える天野の顔を苦笑しながら眺める。


黒崎

フフフ……。
どうした天野。
顔色が悪いぞ。
お前もここまでの話になれば、そんな顔をするんだな。

天野勇二

当たり前だ。
ようやくお前が『回りくどい言い方』をした理由が理解できたぜ……。


 何度も熱い息を吐き、言葉を続ける。


天野勇二

だが俺様にとっては『大統領の娘』が殺されようが、パレスチナとイスラエルがドンパチやろうが、日本がアメリカから制裁を受けようが、何ひとつ知ったことじゃない。

俺にとって重要なのは『毒蛇』の身柄。
そしてアイツが持つ『解毒剤』だけだ。

お前らが何を考えていてもレイチェルと会わせ…………。



 そこで天野は口唇を閉ざした。


 黒崎は冷たい瞳で天野を見ている。


 その表情を見て、天野はようやく黒崎の『意図』を理解した。



天野勇二

……そうか。
そういうことか……。

黒崎よ。
貴様の狙いはそれか。
俺様がレイチェルの件でリカルドと接触しないよう、布石を打ったというワケか……!



 全身から殺気を解き放つ。


 燃える双眸そうぼうで黒崎を睨みつけた。



天野勇二

俺がリカルドを連れ出せば、日本政府は『毒蛇』の身柄を保護できなくなる。
それは『大統領の娘』の暗殺をくわだてている『取引相手』の情報が入手できないことに等しい。

だから『バックアップ』を依頼し、この場で全ての事情を明かしたのか。
俺の動きを牽制けんせいし、『毒蛇』に「手を出すな」と告げるために。


 吐き捨てるように言葉を続ける。


天野勇二

ふざけやがって……!
世界の平和を守るために、俺様の友人に「黙って毒殺されろ」と言うのか!?


 黒崎は静かに首を横に振った。


黒崎

そこまでは言わん。
お前の友人は外務省が責任を持って保護する。

天野勇二

バカなことを言うな。
貴様らの保護ほどアテにならんものはない。

黒崎

理解してくれ。
これは重要な国際問題だ。
お前に動かれては世界が困るんだ。

天野勇二

知ったことじゃねぇよ。
俺様が拒否したらどうするつもりだったんだ?
懐に隠し持っている拳銃で撃ち殺すのか?


 天野は素早く『護身用のメス』を取り出した。


 迷いなく黒崎の首筋に突きつける。


天野勇二

俺様をナメるなよ。
友人の命が救えるなら、貴様程度の命なんぞ軽く消してやる。
本気で俺を止めるつもりなら、もっと早く撃ち殺すべきだったな。



 黒崎は生唾を飲み込み、死の輝きを放つ小さな刃物を見つめた。


 ゆっくりと両手を広げる。



黒崎

天野……。
だから言ったんだ。
この話を聞けば、『民間人カタギ』の生活に戻れなくなるかもしれない……とな。



 そして乾いた笑みを浮かべた。



黒崎

それに誤解するな。
俺はお前を殺したくない。
お前を遠ざけるつもりなら、初めからこの場に呼んでないさ。
若干、気になることもあってな。

天野勇二

気になること?
それはなんだ。

黒崎

『レイチェル』のことだ。
このタイミングで『毒蛇』との接触を望むなんて、あまりにタイミングが良すぎると思わないか?



 天野はメスを突きつけたまま、静かに黒崎に近づいた。


 メスが黒崎の薄皮を切り裂く。


 微かな真紅の血が流れる。


 天野はニタリと口元を歪めた。




天野勇二

クックックッ……。

黒崎よ。
バカなスパイだ。

『毒蛇』は一瞬で見破ったぞ。
お前、何も気づいていなかったのか。




 背筋が凍るような悪魔の笑み。


 黒崎が困惑の表情を浮かべる。


 天野は黒崎の耳元でささやいた。




黒崎

………!




 天野は静かにメスを下ろした。


 血が一滴、小さな刃物から零れ落ち、階段を赤く濡らしていた。







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つばこ

※この物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。
 
 
本当はもっとパレスチナ問題について書いたのですが、長くややこしくなるので頑張って省略しました。(実在の人物及び団体とは一切関係ないし)
とても複雑でややこしい国際問題です。
うまくお伝えできなかったら申し訳ございません。
 
また黒崎が天野くんを連れ出したのは、彼への『牽制』というより『ボス』への恨みが主なのかもしれませんね。
さすがに1人で『毒蛇』と会うのはコワイ。
それなら信用できる天野くんを誘ってみよう、ボスにバレたら怒られるけど知ったことか、アイツ強いから助かるかもしれないし……なんてことを考えていたのかなぁ、という気がします。
 
さぁ、なんか過去最大スケールの事件になりましたが、天野くんはどうするのかな!?
いつも応援やコメント、本当にありがとうございます!∠( ゚д゚)/

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コメント 41件

  • rtkyusgt

    襟元どうしたのかな?

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  • にゃんこじろう

    民間人に戻れない以前に、天才クソ野郎は既に一般民間人ではないwww

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  • 実在の人物・組織とは関係ない…???イギリスの二枚舌外交のせいで拗れたのを上手くまとめられてすごくわかりやすいなと思いました笑 規模が大きくなってきて本当に毎回楽しみになります〜( ´ ▽︎ ` )

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  • ちょぱ

    時事問題に詳しくなれた気がする

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  • バルサ

    リアリティーな話しですね笑
    しかし、天野くんは何に気付いたのかさっぱり分からん(^^;;どういう展開になるか楽しみー(≧∇≦)涼太は大丈夫かな?天野くんが、世界よりも親友の命が大事なんだね!

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