その時、天野と土井は東京駅のホームに立っていた。


天野勇二

飛騨ということは……。
『のぞみ』で名古屋まで行って、『ワイドビューひだ』に乗り換えってとこか。

土井健太

勇二くん、詳しいんだね。
おで、新幹線なんて修学どょこういだいだよ。

天野勇二

俺様は天才だからな。
あの時、全ての路線図と駅名を暗記したんだ。


 そんな自慢話をしながら、天野はホームへの出入口をチラチラ見ていた。


 ホームへと続く上り階段。


 目当ての姿は上がって来ない。


天野勇二

(やはり、儚い夢だったな。そうさ、それが現実なんだ)


 出入口に背を向ける。


 天野は気分を変えるように言った。


天野勇二

土井よ、くどいようだが俺様は医者のボンボンだ。
また何か奢らせろ。

土井健太

いいよ。
本当に申し訳ないよ。

天野勇二

いいんだ。
俺様がそうしたいんだ。
そうだなぁ、グリーン席でも奢ってやるか。


 困惑する土井を無視して、天野はグリーン席のチケットを購入した。

 土井はすっかり恐縮している。


土井健太

勇二くんには本当にお世話になっちゃったね。
いつか恩返しすでゅよ。

天野勇二

気にするな。
ほれ、グリーン席のチケットだ。

土井健太

あでぃがとう。
きっとおで、人生で最初で最後のグディーン席だよ。


 天野が「次はビールとおつまみでも買ってやるかな」と思案していると、ホームにひとつの声が響いた。



前島悠子

師匠! 師匠!?
どこですか師匠!



 前島の声だ。


 天野は飛び上がるように叫んだ。


天野勇二

ここだ!
もっと後ろだ!
こっちにいるぞ!

前島悠子

ああ! いました!
師匠! 土井さん!
間に合った!


 前島が美緒の手を引き駆けてくる。


 土井は驚いてその姿を見つめた。


土井健太

み、美緒さん……?
な、なんで……?


 美緒は息を切らせながら土井の前に立った。


森崎美緒

はぁ、はぁ……。
健太さん……。
お、お久しぶりです……。

土井健太

ひ、ひ、久しぶでぃ、だね……。
え、どうして、美緒さんが……?

森崎美緒

悠子ちゃんが、健太さんが行ってしまうと、教えてくれたんです……。


 土井は困惑し、前島を見つめる。

 前島は「てへへ」と舌を出し微笑み、天野に小声で話しかけた。


前島悠子

どうですか師匠。
ちゃんとあのメモだけで指示を読み取りましたよ。

天野勇二

弟子よ、上出来だ。
本当に美緒を呼んでくるとは思わなかった。
褒めてやろう。

前島悠子

ありがとうございます。

……でも、正直まだわかりません。
美緒さんは迷ってました。

天野勇二

ああ、それでいいさ。
来ただけで十分だ。


 美緒はじっと土井の顔を見上げた。


 何度か深呼吸し、震える口を開く。


森崎美緒

健太さん……。
何も言わずに東京を離れてしまうなんて……。
寂しいです。
悲しいじゃありませんか……。

土井健太

で、でもさ……。
おでたち、別でちゃったかだ……。

森崎美緒

そう……ですよね……。


 美緒は深く頭を下げた。


森崎美緒

私、健太さんに謝らなくてはいけません。
あんなにお世話になったのに、別れの言葉を告げようとは考えませんでした。
私は最低の女です。
本当にごめんなさい。


 土井は慌てて首を横に振った。


土井健太

そんなことないよ。
美緒さんは最低じゃない。
そんなこと気にしないで。


 美緒は頭を上げた。

 もう一度、土井の純朴な顔を見つめる。



 土井は何も変わらない。


 闇の世界と同じだ。


 純朴で優しい声。


 思いやりに満ちた瞳。


 かつても、こんな瞳で見つめてくれたのだろう。



 美緒の瞳からボロボロと涙が溢れた。


森崎美緒

私は、最低です……。

こんなに優しいあなたを、醜いと思ってしまい、自分にはもっと豊かな生活があるかもしれないと、考えてしまいました……。

ごめんなさい……。

こんな私に、瞳なんて必要なかったんです……。


 土井は困惑しながら声をかける。


土井健太

いいんだ。
おで、ブサイクだ。
美緒さんにはもっと相応しい人がいでゅって思う。
美緒さんの目が見えでゅようになった。
そでだけで満足だよ。
おでのことは本当にいい。
美緒さん、幸せになって。


 美緒の瞳からさらに涙が溢れる。



 目が見えなくとも、目が見えるようになっても、相手が自分を捨てた女であっても、変わらない優しさを投げかけてくれる。



 美緒は小さく頷いた。


森崎美緒

健太さん……。
私は本当に最低な女です。
前島さんに叱られて、やっと気づきました。

土井健太

ううん。
美緒さんは最低なんかじゃないよ。

森崎美緒

いいえ、最低です。
こんな私が、健太さんの傍にいる資格はありません。
それでもどうか、お願いです。


 美緒は祈るかのように両手をあわせた。



森崎美緒

どうか、もう一度だけ、やり直すチャンスをください。

私やっぱり、健太さんのことが忘れられない……ううん、健太さんの存在を、改めて思い出しました。

健太さんが好きです。

これからも健太さんの隣にいさせてください……。



 天野は驚いて美緒を見つめた。


 美緒は完全に、かつてまとっていた純真なオーラを取り戻している。



 土井はさらに困惑し、オロオロと語りかけた。


土井健太

ダ、ダメだよ。
美緒さん、おでとじゃ幸せになでないよ。

森崎美緒

なれます。
ずっと私は健太さんと一緒にいて、幸せだったんです。

土井健太

だけど、今の美緒さんのカレは、おでにないものを沢山持ってでゅ。
もっと幸せになででゅんだよ。

森崎美緒

いいんです。
私が健太さんといたいんです。
この瞳をくれたのは健太さんなんです。
健太さんの姿を見つめるための瞳です。
私はそのことを忘れ、ダメな女になっていました……。
どうか、お願いします。


 土井はブンブンと強く首を横に振った。


土井健太

そ、そでは違うよ。
おではわかったんだ。
おでは美緒さんと別でた。
お金も返してもだった。
おではもう、いいんだ。

森崎美緒

も、もうダメですか?
やっぱり私のことが許せませんか?

土井健太

ゆでゅすもなにも、おでは美緒さんをうだんでない。
美緒さんには、おでじゃなくて、相応しい人がきっといでゅ。

おでだって恩着せがましいことはしたくない。
確かにお金を出した。
でも、美緒さんを 『買った』わけじゃない。
恩人だかだって、いつまでも愛さなくちゃいけないことはないよ。


 土井は純朴な笑みを浮かべた。


 美緒の手をそっと握る。


土井健太

美緒さんが幸せになでゅこと、そでがおでの幸せだ。
美緒さんは本当の幸せを掴もうとしていでゅ。
おではもう、美緒さんのとなでぃに立つことはないんだ。


 それは確かな『決別』の言葉だった。


 美緒は悲しそうに口元を押さえた。


森崎美緒

そんな……。
お願いです。
健太さん、裏切った私を許してください!
私は健太さんの傍にいて幸せでした!
まだ私は、健太さんの全てと向き合いたいんです!

土井健太

もういいんだ。
本当にいいんだ。
美緒さんはこの街で幸せになってください。
おでは、いなくなでゅかだ。


 美緒は言葉を失った。


 土井は美緒を拒絶している。


前島悠子

土井さん!
待ってください!


 前島が思わず詰め寄った。


前島悠子

美緒さんは本当に大切なことを思い出したんです!
土井さん!
受け止めてあげてください!


 土井はその言葉にも首を振った。


土井健太

ううん。
おで、ひとでぃで行くよ。
もう決めたんだ。

前島悠子

どうしてですか!?
美緒さんは来たんですよ!?
イケメンセレブじゃなくて爆弾岩がいいって言ってるんですよ!

土井健太

きっと、美緒さんはこんだんしてでゅんだ。
長い目で見でば、今のカレのほうがいいに決まってでゅ。

前島悠子

それを決めるのは土井さんじゃありませんよ!
どうしてそんなに、自分を犠牲にするんですか!?



 前島は何度も土井に語りかける。


 土井はその全てを拒絶している。


 美緒は真っ青な顔を覆い、肩を落としたままだ。


 天野はその光景を見ながら、中学時代の土井の言葉を思い出していた。








ーーー勇二くんに頼むと、イジメっ子が痛い思いしちゃう。そではイヤだよ。








 土井はそう言っていた。



 純朴な笑顔を浮かべ、そう言っていた。



 自分の痛みより、他人の痛みを考える男だった。



 今も何も変わらない。



 優しい男だ。



天野勇二

(……いや、違う)



 天野は首を振った。


 土井の顔を睨みつける。


天野勇二

……違う。
違うぞ土井。
それは『優しさ』なんかじゃない。


 天野は拳をシュッと振り、土井に言った。


天野勇二

土井よ、 『スマッシュ』を決めるんだ。
今がその時だ。

土井健太

え、え?
ス、スマッシュ?


 もう一度、天野は拳を振った。


 拳が勢い良く土井の目の前を通り過ぎ、風圧が頬を揺らす。


 困惑する土井に天野は言った。


天野勇二

土井、お前は優しい男だ。
だが、今のお前を支配しているのは 『臆病』って感情だ。

お前は弱い人間ではない。
その気になればバドミントンの時みたいに、俊敏に動ける強い人間だ。

いつまでウジウジしてやがる?
それとも何か?
美緒さんの裏切りが許せないのか?
捨てられて恨んで根に持っているなら、むしろはっきりそう言えよ。

 

 土井はまた慌てて首を振った。


土井健太

ち、違うよ。
おでは本当に、そんなこと気にしてない。
美緒さんには、感謝しかないよ。

天野勇二

だったら、ここで 『スマッシュ』をぶち込めよ。
お前の根本には、美緒さんを幸せにすることができないんじゃないか、という臆病な気持ちがある。

お前は自信がないんだ。
美緒さんを幸せにする自信がないんだ。

だから誰かを傷つけてでも、美緒さんが欲しいと叫ぶことができない。
お前の『優しさ』は、言い換えればコンプレックスの裏返しなんだ。


 土井は思わず言葉に詰まった。


 そんな土井を見て、天野は怒号をあげた。


天野勇二

お前は美緒さんを幸せにすると誓ったんだろう!?
誰よりも幸せにしたいと願ったんだろう!?

イケメン?
金持ち?
自分は醜くて頭が悪い?
それがなんだってんだ!?

新しい男と一緒にいれば幸せになれるだなんて、 腑抜ふぬけたこと抜かしてんじゃねぇ!
お前がその気になれば全てを超越できるんだよ!

愛する女の幸せを願うなら、まずお前自身が幸せを望め!
世界の全てを敵に回してでも、たった1人を望むんだ!
愛する女の幸せなんて、そう願った未来にしか存在しないはずだ!


 天野は人差し指を気障キザったらしく振り回し、土井の真上を指さした。


天野勇二

見上げろよ。
そこにシャトルは飛んでいる。


美緒さんはここにきた。
スマッシュだ。
スマッシュを決めるんだ。

今も気持ちが変わらないなら、どんな強敵が相手でもかっさらってモノにしろ!

それをしたくないって言うなら、お前は誰も幸せになんかできないクソ以下の汚れた『爆弾岩』だ!
このまま臆病風に吹かれて、せっかく舞い降りたチャンスを逃すのか!?
お前はそんな情けなく弱い男じゃない!

お前ならできるさ!
お前ならきっと全てうまくいくと、俺はずっと信じていたぞ!


 天野の言葉が土井の心を揺さぶる。


土井健太

おでは、おでは……。



 土井は見上げた。


 東京駅のホーム。


 そこに羽を舞い散らしながら飛ぶシャトルが、土井の瞳には見えた。



森崎美緒

健太さん……。
お願いします……。



 美緒が改めて土井を見上げる。


土井健太

み、美緒さん……。


 土井はぎゅっと拳を握った。


 今こそスマッシュを決める時だ。


 土井はそう信じた。


土井健太

……お、おでは、頭がわでゅい。
お金持ちでもない。
爆弾岩って呼ばでるブサイクだ。
おでのとなでぃに立っていただ、美緒さんが笑われでゅかもしでない。

それに、おでは田舎に行く。
景色はきでいだけど、なんにもない。


 美緒はそっと土井の手を握った。


森崎美緒

はい、いいんです。
私の世界は健太さんと共にあったんです。
それが東京でも、田舎でも、天国でも、どこでも同じです。
今ならはっきりと、そう断言できます。


 土井はその言葉を受け止めた。


 はっきりと美緒を見つめる。


 そして言った。



土井健太

おで、おでは……世界のだでよでぃも、美緒さんを愛してでゅ。

世界のだでよでぃも美緒さんを幸せにすでゅ。

この気持ちはだでにも負けない。

どうか、もう一度、おでと付き合ってください。



 美緒は涙を流しながら土井の胸に飛び込んだ。


森崎美緒

はい! お願いします!


 土井は美緒を強く抱きしめた。


土井健太

あでぃがとう。
美緒さん、おでをえだんでくでて、あでぃがとう……。

森崎美緒

いいえ、ごめんなさい、本当にごめんなさい……。
私を許してくれて、本当にありがとうございます……。




 しばらく2人は固く抱き合っていた。


 やがて、天野が優しげな笑みを浮かべながら口を開いた。


天野勇二

土井よ、残念だが、もう新幹線の時間だ。


 そう言うと、額をピシッと叩く。


天野勇二

あぁ、何という失態だ。
俺様は天才なのに、間違えてグリーン券を2枚も買ってしまった。
しかも1枚は往復できる乗車券つきじゃないか。


 チケットを土井と美緒に差し出す。


天野勇二

俺様はプライドが高い。
払い戻すなんてイヤだ。
美緒さんよ、これに乗って土井の暮らす田舎でも見て来るといい。
そして、その瞳でしっかり見定めるんだ。

そこは君が暮らすべき土地なのか、土井との未来が描ける場所なのか……。

君には決める権利がある。
土井がその権利を君に与えたんだ。


 美緒はチケットを受け取り、天野に頭を下げた。


森崎美緒

勇二さん、ありがとうございます。
しっかり見定めます。

天野勇二

そして君は東京に帰り、改めて今のカレと話すべきだろう。
その上で決めるんだ。

君の瞳は誰を映したいと願うのか。
どんな景色を見ていたいと願うのか。

その過程を経て選んだ決断こそが、きっと君にとっての『正解』さ。


 美緒は力強く頷いた。

森崎美緒

はい……。
わかりました。


 美緒は前島に向き直り、深く頭を下げた。


森崎美緒

悠子ちゃん……。
私を信じてくれて、ありがとうございます。
もう大切なものを見失いません。
今の私には、大切なものがしっかりと見えます。


 涙目で土井を見上げる。


 前島は泣きじゃくりながら頷いた。


前島悠子

美緒さん……。
良かったです。
どうか幸せになってください。


 美緒と前島は固く抱きあった。






 新幹線がホームに入ってきた。


 土井と美緒を乗せて発進する。


 天野たちはその姿が見えなくなるまで、ホームで手を振っていた。




前島悠子

……はぁ、行っちゃいましたね。


 前島が嬉しそうに言った。


前島悠子

ねぇ師匠。
天才クソ野郎もチケットを購入し間違えるんですね。

天野勇二

そうだな。
弘法も筆の誤り。
猿も木から落ちる。
天才クソ野郎もチケットを買い間違える。
全て同じだな。

前島悠子

うふふ……。
師匠、心が少しだけ、治りましたね。

天野勇二

そうか?

前島悠子

ええ、私にはわかります。

天野勇二

もし、そうだとすれば、あの2人のおかげだな。


 天野はそう言って前島の頭を撫でた。


天野勇二

そしてお前のおかげだ。
俺では美緒の純真さを取り戻すことはできなかった。
大したものだよ。
俺はお前という弟子を心から尊敬するぜ。


 前島は嬉しそうに天野の腕に抱きついた。


 天野はしばらくの間、ホームで土井たちのことを思っていた。





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つばこ

安心してください。ハッピーエンドですよ(´∀`*)ウフフ
 
……しかし、天野くんと前島ちゃんは他人の恋愛事情を「これでもか」と振り回してますなぁ……。
つばこ自身も「長野さん可哀想( ゚д゚)」と思うところがあります。
まぁ、長野さんも元々は土井から奪い取ったワケですし、美緒さんも色々悩んだ上でモトサヤを選択したワケですし、土井も土井で前に進めたワケですし、それぞれにとって必要な時間と試練だったのだろうと思います。
 
色々と賛否両論巻き起こるエピソードのため、コメント欄を見るのが少々怖いですが、土井と美緒さんが選んだ道を末永く祝福いただければ幸いですm(_ _)m
 
さて、星の王子様編は次回の「後日談」にて完結!
いつもオススメやコメントありがとうございますヽ(*´∀`*)ノ.+゚

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コメント 356件

  • ねここ

    コメ欄が賛否両論祭りになっとる…
    本当に恋愛は正解がありませんな。人間なんだから間違い繰り返すし、もう間違いって大体何だよ?分からなくなる。

    誰も不幸にならない恋愛は存在しないのか…もうそれはファンタジーでしかないのか。
    土井さんの純粋さ、優しさが、この物語の一番の宝石かも。

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  • rtkyusgt

    泣けたよ。ほんと心にくる。

    そして素晴らしい
    買い間違いをありがとう。

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  • ピカルディの3度

    後日、お金の清算を済ませる描写がちゃんとあるといいな
    長野さんと天野さんにね

    長野さんには謝罪してもしつくせないけどね…

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  • らんこ

    本当に恋愛は正解がないね~(*´ω`*)

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  • ちよこ

    ついにファンタジーになっちゃったね。
    目が見えるようになると同時に美醜が判るとか、
    ありえなさすぎる。

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