天野は土井の軽自動車に先導され、土井の新しい自宅へ向かっていた。


 土井はこの日のためにアパートを新しく契約していた。


 美緒と2人で暮らすための、新しい部屋だ。


天野勇二

なぁ前島よ。
美緒さんは世界を見て、何と言っていた?


 車を操りながら尋ねる。
 前島は嬉しそうに答えた。


前島悠子

美緒さん、見るもの全てが美しくて素敵だって言うんです。

お花も緑も空も雲も。
何もかもが素敵だって。

それに自分が美人ということに凄く喜んでましたよ。

天野勇二

それ以外に何か、言っていたか?

前島悠子

いいえ。
それ以外は特に。

……あっ、私のことも可愛いって言ってました。
てへへ。

天野勇二

本当にそれだけなのか?

前島悠子

はい、そうですよ。


 天野は小さく呟いた。


天野勇二

そうか……。
美緒はそれだけ、なのか……。


 土井の車は古いアパートの前で停まった。

 立地は悪くない。
 しかし、かなり築年の経ったアパートだ。

 貯金を使い果たした土井では、豪勢な部屋は借りられなかったのだろう。


土井健太

ここがおでたちの、あただしい家だよ。


 美緒が嬉しそうに車から降りる。

 その行為自体にも感動している。


森崎美緒

うふふ。
健太さんの力を借りずに、1人で車から降りることができます。
こんなことも凄く嬉しいです。

土井健太

うんうん。
本当によかったね。

森崎美緒

先にお部屋を見てもよろしいですか?

土井健太

もちどん。
見てきていいよ。


 天野も美緒の後に続いた。


 昔ながらの木造アパート。

 畳張りの部屋。

 それでも広さは十分だ。

 日当たりも悪くない。


森崎美緒

ここが健太さんと2人で住む家なんですね。
とてもお部屋が広いです。


 美緒は畳の上で楽しそうにくるくる回っている。

 天野はそれを見て前島に言った。


天野勇二

俺は土井を手伝ってくる。
お前は美緒さんに色々と教えてやれ。

前島悠子

はい!
了解です師匠!


 天野は荷物を部屋に運びこみながら、美緒の表情を伺った。


 部屋の広さや日当たりなどに感動しているが、時折表情を曇らせる瞬間がある。



 壁の年代を感じさせるシミ。


 風呂場に残る微かなカビ。


 薄汚れた窓の汚れ。



 それらを複雑な表情で眺めている。


天野勇二

なぁ土井、美緒さんが住んでいたアパートは、ここより綺麗なのか?


 さり気なく土井に尋ねた。

 土井は悲しそうに首を振った。


土井健太

ううん。
ここよでぃも狭くて汚いとこだよ。
日当たでぃが良くないんだ。

天野勇二

そうだな。
日当たりは重要だ。
ここは風通しも良いし、悪くない部屋だよ。


 前島は美緒に付き添っている。

 設備を細かく説明しているようだ。


前島悠子

どうですか美緒さん。
これが日本って世界の家ですよ。


 美緒は瞳を輝かせながら答えた。


森崎美緒

何だか、まるで初めて世界に生まれた、という気がいたします。
見るもの全てが新鮮で驚くことばかり……。

台所はこんな形。
蛇口はこんな色。


家というものは、こうなっていたんですね。


 土井が美緒を喜ばせようとして声をかけた。


土井健太

ここの蛇口はね、美緒さんの家とおなじのにしたんだ。

森崎美緒

まぁ、使い方が変わらないと思ったら、健太さんが気を使ってくれたんですね。

土井健太

そでに、美緒さんの家にないものもあでゅんだ。


 土井は独立洗面台を美緒に見せた。


森崎美緒

ここにも洗面所がありますのね。

土井健太

そうだよ。
ここでお化粧とかもできでゅね。


 美緒は鏡の中の自分をうっとりと見つめた。


森崎美緒

私もついにお化粧できるんですね。
メイクをしていない女の子なんて、恥ずかしいって言いますもんね。
今まで私スッピンでした。
健太さん、ごめんなさい。


 前島がフォローするように告げる。


前島悠子

美緒さんはとても美人ですから、スッピンでも十分綺麗です。
メイクしたらもっと綺麗になりそうですね。

森崎美緒

本当ですか!?
メイクしてみたいです!
是非、メイクの仕方を教えてくれませんか!?

前島悠子

いいですよ!
それならスキンケアから教えたほうがいいですよね。
化粧水や下地などを揃えないと。
まずはですね……。


 前島がレクチャーしている間に、天野と土井は荷物を運び終えた。


 女性の化粧に関する話は長い。

 それに化粧という概念が存在しなかった美緒に、一から説明するのは大変だ。

 

 前島の説明は長く続いた。

 土井がお茶をいれて、それを飲み干し、おかわりを注ぎ、それが空になるまで続いた。


天野勇二

……おい、弟子よ。


 軽く咳払いして、前島をいさめる。


天野勇二

これ以上は2人の邪魔だ。
そろそろ帰るぞ。

土井よ、せっかくだから銀座あたりの化粧品売り場に連れて行ってやれ。
どうせ化粧道具を一式揃えるんだ。
プロにメイクの手ほどきをしてもらえばいいさ。


 前島もふんふんと頷いた。


前島悠子

それがいいですね。
お肌にあったものを教えてくれますし、メイクも教えてくれます。

森崎美緒

そうなんですか。
未知の世界に行くようです。


 天野はニヤニヤしながら土井を見つめた。


天野勇二

土井よ、女の化粧品選びは長いぞ。
かなり退屈な時間だ。
苦行そのものだぜ。

土井健太

大丈夫だよ。
美緒さんのためなだ、いつまででも待てでゅ。


 美緒は嬉しそうに頭を下げた。


森崎美緒

健太さん、お願いします。
私を化粧品売り場に連れて行ってください。

土井健太

うん、美緒さん、もっときでいになれるよ。


 土井と美緒は寄り添い、嬉しそうに純粋な笑顔を浮かべていた。



 天野は土井たちに別れを告げ、自らの車に乗り込んだ。


 助手席に座った前島は純真無垢な笑顔を浮かべ、嬉しそうに呟いた。


前島悠子

はぁ……。
本当に良かったですね。
とっても感動的な光景を見ることができました。
美緒さんと土井さんの生活、楽しくなりそうですね!

天野勇二

……ああ、そうだな。


 前島は「あれ?」と呟いて天野を見つめた。

 思ったよりテンションが低い。


前島悠子

師匠、随分とローテンションですね。
嬉しくないんですか?

天野勇二

いや、そういうワケではない。


 天野は車を操りながら口を開いた。


天野勇二

前島よ、昔、お前に話したと思うが、目に見える全てのものはいつか消えてなくなる。

真に大切なことは瞳に映らないものだと、俺様は考えている。


 前島は不思議そうに答えた。


前島悠子

はい……。
『本質』の話ですよね。

ちゃんと覚えてますよ。
師匠が言ってくれました。

目に見える輝きじゃない。
私の中の輝きを見つめろ、って。


 かつてアイドルグループを卒業するかどうか迷っていた時、天野から告げられた言葉だ。


 自分の中に本質があれば、どんな道を選んでもやっていける。


 今の前島を支えている、大切な言葉のひとつだ。


天野勇二

ああ、そのことだ。
だが、どうしても人は 『目に見えるもの』ばかりに心を奪われる。
美しいものに執着し、それを集めることに人生を捧げるヤツも多い。

アイドル、芸術、骨董品……。
数をあげればキリがない。

別に俺様はそれを全否定するワケじゃない。
本質がしっかりしているのであれば、何に執着しても良い話だ。


 天野は辛そうに言葉を紡いだ。


天野勇二

……そして、人は一番眩しく輝く瞬間に、一番大切なものを見失う。


 前島は不安になってきた。


 なぜ天野はそんなことを言い出しているのだろう。


前島悠子

見失うというのは、初心とか、本質ということですよね。

天野勇二

そうだ。
きっと誰もが経験することだろう。

俺様で例えれば、天才児と浮かれていた時に、自分では越えられない存在に出会い、自らが疎かにしていたものを知った。

腕力に自信がついた時には『弱い人間には価値がない』と、考えていたこともある。


 前島は納得してふんふんと頷いた。


前島悠子

私にもあります。
アイドルグループが売れた時、天狗の鼻を伸ばして、偉そうな態度をとったこともあります。
だから私がいたグループは、いつも売れなかった頃の『初心』を忘れないようにしよう、というスローガンもあるんです。

天野勇二

それは素晴らしいことだ。

一番厄介なのは、異性や同姓にも好かれる時さ。
自分に魅力と才能と運があると思いこみ、一番大切なものを見失う。
人はあっさり『自己愛』に溺れてしまうんだ。

かつて俺も、一番大切なものを見失った。

前島悠子

むぅ……。
なるほど……。


 前島は何の話なのか、ようやく理解した。


 美緒のことだ。


 天野は美緒のことを言っている。


前島悠子

師匠にとっても、美緒さんが美人に変身したのは予想外だったんですか?

天野勇二

ああ……。
顔の黄金比は悪くないと思っていたが、あれほどの美女になるとは思わなかった。
目が開く前は美人でも何でもなかったよ。
その辺にいるただの女さ。


 人体の見てくれに興味のない天野が、女性の外見を褒めるとは珍しい。

 確かに美緒は芸能事務所に紹介しても良いレベルだと、前島は感じていた。



 天野は辛そうに言葉を吐き出した。


天野勇二

間違いなく美緒は自分の美しさに気づく。
そして、今まで美緒なんか見もしなかった男たちが、美緒に群がり声をかける。
これまでに比べて、比較にならないほどモテるだろう。
まさに人生で一番輝く瞬間だ。
美緒はきっと大切なものを見失う。


 美緒にとって大切なもの。

 それは土井そのものだろう。

 天野はそれを見失うと告げている。

 つまり美緒が土井から離れてしまうと予言しているのだ。


天野勇二

前島よ、お前は自分の中の輝きを忘れるな。

本質を見失うなよ。

前島悠子

は、はい。
もちろんです。

天野勇二

それならいいんだ。
それなら、な……。


 天野は無表情のまま車を操っている。


 前島は少々迷ったが、思い切ってストレートに尋ねた。


前島悠子

やっぱり師匠は、美緒さんが美人になったから、ブサイクな土井さんを捨てるんじゃないかって、心配なんですか?


 まるで自分に言い聞かせるように、言葉を続ける。


前島悠子

大丈夫ですよ!
美緒さんは凄く純真な女性です。
きっと土井さんの優しさを忘れません!

絶対にうまくいきます。
全てうまくいくに決まってます!


 天野は呟くように口を開いた。


天野勇二

……お前、美緒があの部屋で、一番幸せな笑顔を浮かべていたのは、どこだったと思う?

前島悠子

ずっと幸せそうでしたけどねぇ。
師匠はどこだと思ったんですか?

天野勇二

『鏡』だよ。

鏡の前に立ち、自分の顔を見た瞬間さ。

美緒は鏡に映った自分の顔を見て、一番幸せそうな表情を浮かべやがった。

前島悠子

鏡ですか……。

天野勇二

そうさ。
土井でも、部屋でも、世界でもない。
自分の顔が映った鏡だよ。

前島悠子

そ、そうですか……。


 前島はしょんぼりと肩を落とした。


 そんな前島に、天野は別の質問を飛ばした。


天野勇二

なぁ、前島……。

この世界に見える全てのものはいつか消えてしまう。
本当に大切なものは目に見えない。

……ならば、なぜ、人間には『目』がついているのだろう?


 前島は唸った。


前島悠子

ううむ……。
やっぱり、生きていくために必要だからじゃないですか?

天野勇二

別に目である必要はない。
障害物を認識するだけならば、超音波でも飛ばせばいい。
もしくは犬のように嗅覚を発達させればいい。


なぜ、瞳が必要なんだ。

本質や本当の価値は目に見えないのに、なぜ人間には目があるんだ。

もし神が人間を作ったならば、なぜ瞳を与えたのだろうか……。


なぁ、前島よ。
その真理は何だと思う?


 前島はさらに唸った。


 禅問答のような問いかけだ。


 なぜそんなことを尋ねるのか、前島にはその理由さえわからない。


前島悠子

うーん……。
私にはよくわかりません。
進化していく過程で、人間には視力が必要だったとしか思えませんけど。

天野勇二

そうだな。
道具として見れば人間の瞳は物凄く優秀だ。
視覚情報がなければ、人間はここまで発展しなかっただろう。
目は生きていくための、ただの道具なのかもしれない。

前島悠子

そうですよね……。

ちなみに師匠はどうお考えなんですか?
師匠の考える真理を聞いてみたいです。


 天野はゆっくり首を振った。


天野勇二

俺にはわからんのだ。

俺の心は過去にイカれちまった。
愛や恋なんて感情が理解できず、真理には辿りつけない。

だが、土井たちなら、そのヒントを見せてくれるんじゃないかと思ったんだ。


 前島は不安そうに尋ねた。


前島悠子

師匠……。
そのヒントって、見つかりましたか?


 天野は答えなかった。

 前島はそれだけで心情を理解した。




 見つからなかったのだ。


 つまり、天野が思い描いていた展開ではなかったのだ。




 前島は悲しそうに呟いた。


前島悠子

私は、土井さんも、美緒さんも、とても幸せそうに見えましたけど……。


 その言葉にも天野は答えなかった。


 ただ、天野は少し悲しそうに呟いた。


天野勇二

所詮、俺のエゴだったのかもしれない。

有りもしないものを、土井と美緒に求めていた……。

それがそもそも間違いだったのかもしれん。


 天野の呟きの意図を、前島が理解するのはちょっと難しかった。




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つばこ

不穏だ……。
不穏すぎるよ天野くん……(´・ω・`)
 
『星の王子様編』のテーマは、天野くんが尋ねた「なぜ人には目があるのか?」となります。
心で見ないと大切なものは見えない、というのがお決まりですが、天野くんはそれ以上の答えを求めているような気がします。恐らく彼は、心はあっさりと脆く壊れてしまうことを知っているからでしょう。
 
さて、次回は大きく物語が転換します。
美緒や天野くんたちの決断に賛否両論あるだろうなと、今からドキドキしています。
もしかしたら文量がいつもより多くなり、読むのが大変になるかもしれませんが、最後までお付き合いいただければ幸いです!
 
ではでは、いつもオススメやコメント、本当にありがとうございますヽ(*´∀`*)ノ.+゚

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コメント 196件

  • ぷよぷよ

    今更ながら誤字を発見したから一応報告しますΣ(ノд<)

    それは素晴らしいことだ。

    一番厄介なのは、異性や同姓にも好かれる時さ。

    同性が同姓になってます(´;ω; `)

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  • ねここ

    先読むの怖いな…

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  • みと@第3艦橋OLD


    大学生で銀座!
    百貨店に入ってるお店で基礎化粧品からメイク道具一揃えなんて10万あっても足りないぞ…

    化粧品代でいい家住めちゃう

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  • 和泉

    美緒さんは今はきっと浮かれてるだけですよね!
    美緒さんのように美しい人も少ないけど土井くんより素敵な人間はもっと少ないことを分かってほしいですね!

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  • 太宰雅

    嗚呼、先が予想できる・・・。

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