天野は実家とは別に、学校の近くにアパートを借りている。


 1DKの狭い部屋だが、自分と千恵ならば十分だろう、と判断した。


天野勇二

さぁ、千恵ちゃん。
ここがお兄ちゃんの家だ。
狭いけど我慢してね。

坂上千恵

うん。
だいじょうぶ。


 千恵はかなり聞き分けの良い娘だ。

 坂上の教育の賜物たまものだろう。

 天野は坂上の苦労を感じた。

天野勇二

もう夕飯は食べたかい?

坂上千恵

うん、たべた。

天野勇二

じゃあ、お風呂入って寝ようか。

坂上千恵

うん。


 1DKの部屋とはいえ、天野はかなり設備の整ったアパートに住んでいる。

 バストイレ別の駅近物件で角部屋。

 日当たりだって良好。

 防音も耐震もバッチリ。

 さすが医者のボンボンだ。



 天野は千恵をお風呂に入れ、体を洗ってやった。

天野勇二

(随分とあざが多いな……)


 身体には古い傷跡が残っている。


 医学部である天野は、強く掴んだものや、平手によるものだな、と判断した。



 坂上の元夫による暴力なのか。


 坂上自身によるものなのか。


 そこまでは判断できなかった。



 風呂から出ると、坂上が用意していた寝間着を着せて、髪をドライヤーで乾かす。

 まるで自分の娘をあやしているような感覚だった。


天野勇二

千恵ちゃん、今夜はここに寝るんだよ。


 ベッドを指さすが、千恵はふるふると首を横に振った。


坂上千恵

いっしょがいい。

天野勇二

俺と一緒がいいのかい?

坂上千恵

うん。

天野勇二

じゃあ一緒に寝ようか。

坂上千恵

ごほんよんで。


 天野は困った。


 この部屋には医学書しかない。


天野勇二

お兄ちゃんがお話してあげよう。
それでもいいかな?

坂上千恵

うん。


 天野は昔話を聞かせてやった。

 

 しばらく語っていると、千恵は穏やかな寝息をたてて眠り始めた。


天野勇二

さて……。
問題は明日だ……。


 明日の大学をどう乗り切るか。


 これが天野にとって大きな問題だった。





天野勇二

……というワケだ。


 天野は涼太りょうたの前に千恵を連れていき、子守をすることになったあらましを説明した。


 涼太は天野の幼馴染だ。


 坂上のことも知っている。


佐伯涼太

こ、この子が、坂上さんの娘なの?
ホントに? マジで?

天野勇二

そうだ。
千恵ちゃん、涼太くんだ。
自己紹介しようか。


 千恵はコクンと頷いた。

 澄んだ瞳で涼太を見上げる。


坂上千恵

さかがみちえ、です。
4さいです。

天野勇二

よく自己紹介できたね。
いい子だ。

坂上千恵

うん。

佐伯涼太

これはご丁寧に……。
ど、どうも。
佐伯涼太と申します……。


 涼太は呆然と千恵を見つめている。


天野勇二

おい涼太、いつまでボケっとしてやがる。
だから頼む。
俺様の抜けられない時間帯は面倒を見てくれ。

佐伯涼太

げっ、マジで?


 涼太はたちまち青ざめた。


 涼太はひとりっ子なのだ。


 幼子の相手なんて経験がない。


佐伯涼太

ぼ、僕……。
面倒見れるかなぁ……。

天野勇二

2~4限目まで一緒にいてくれればいい。
昼時はテラスに顔を出す。

佐伯涼太

ま、まいったな。
僕も4限のゼミは必須だ。
他は代返が頼めるけど。


 天野は腕を組んで呟いた。


天野勇二

……弟子、来るかな。

佐伯涼太

ちょっと前島まえしまさんに電話してみるよ。


 涼太は前島に電話した。


 事情を説明する。


 涼太は安堵あんどして電話を切った。


佐伯涼太

時間が空いてたみたい。
前島さんも助けてくれるってさ。

天野勇二

忙しいだろうに、子守を押しつけるのは申し訳ないな。
今度アイツの小論かレポートでも書いてやるか。


 1限は天野と涼太が千恵の相手をして過ごした。

 

 場所は学生食堂の2階テラス席。

 

 図書館にあった幼児向けの本を読ませたり、スマホで遊ばせたり、お菓子を与えたりして過ごした。


天野勇二

もう2限の時間か。
涼太よ、頼んだぞ。

佐伯涼太

う、うん……。


 天野は実習に向かった。


佐伯涼太

ああああぁぁ……。
ど、どうしよう……。


 涼太は子供の相手が不慣れな上、なぜか千恵は涼太には懐こうとしない。

 女子を魅了する得意の 笑顔スマイルは通用しない。

 小粋こいきなトークも空回り。

 天才的なチャラ男のスキルが一切役に立たない。

 千恵は「ぶすっ」として ふくれっ面を浮かべている。

 今にも泣き出しそうだ。

坂上千恵

………ひっぐ。

佐伯涼太

あああああ!
な、泣かないでぇ……。
ほらぁ絵本だよぉ……。
美味しいチョコだってあるんだよぉ……。


 涼太は必死に粘った。

 

 それはそれは粘った。


 だが、3限の途中で千恵は泣き始めた。


坂上千恵

……ひっぐ……
……ひっぐ……
…………
……うぇぇぇぇん!
おがあざぁぁぁぁん!!!

佐伯涼太

ひぃぃっ!!!
どうしよう……。
前島さんまだかなぁ……。


 涼太が必死にあやしてもダメ。

 絵本を広げてもダメ。

 スマホでアニメを流してもダメ。

 お菓子を握らせてもダメ。

 千恵はまったく泣きやまない。

佐伯涼太

そ、そうだ!


 涼太はクマのぬいぐるみを手にした。


くまちゃん(涼太)

ほ、ほぉらぁ。
くまちゃんだよーー!
コンニチワーー!!!

坂上千恵

……!!


 クマを持って喋らせる。


 千恵は一瞬泣きやんだ。


 涼太は「やっとポイントを掴んだ! ここだ!」と信じて、必死にクマのぬいぐるみを操った。


くまちゃん(涼太)

チエチャーン、イッショニアソボウヨォーー。


 千恵は再び泣き出した。



坂上千恵

ぐまちゃんぞんなんじなゃい!
びぇぇぇぇん!



 もうお手上げだ。


 涼太は完全にオロオロしていた。


 いつまでもテラスに千恵の泣き声が響き渡る。



前島悠子

……涼太さん。
何してるんですか?

佐伯涼太

ああ! 前島さん!
待ってたよ!!!!


 前島を千恵の前まで連れていく。


佐伯涼太

ほら!
前島さんが来てくれたよ!
トップアイドルだよ!


 千恵は 「びぇぇん」と泣きやまない。


 前島は苦笑しながら話しかけた。


前島悠子

ほうら、よしよし……。
いい子いい子。
もう怖くないよー。


 千恵を抱き上げ、膝の上に乗せながら椅子に座る。


 そして、自慢の「純真無垢な笑み」を浮かべた。


前島悠子

おねぇちゃん、ゆうこっていうの。
千恵ちゃんよろしくね。

坂上千恵

ひっぐ、ひっぐ……。
さかがみ、ちえ……。
4さい……。

前島悠子

そうなんだぁ。
よろしくねー。

坂上千恵

うん……。


 ようやく泣きやんだ。


 涼太は安堵してへたり込んだ。

 

佐伯涼太

はぁ……。
良かったぁ……。
さすが前島さんだよ。
子供相手でもアイドルパワーが通じるんだね。
僕ちゃんじゃ何を言ってもダメだったよ。

前島悠子

このぐらいの子は男の人を怖がりますから。
しょうがないですよ。


 前島があやしていると、実習を終えた天野が帰ってきた。


天野勇二

ああ、弟子よ。
来たのか。

坂上千恵

……ゆうじお兄ちゃん!


 天野がテラスに上がると、千恵は「ぱぁー」と顔を明るくさせて駆け寄った。


天野勇二

よしよし。
いい子にしてたかな?

坂上千恵

うん!

天野勇二

じゃあ、そんないい子にご褒美だ。
一緒におうどん食べようね。

坂上千恵

はーい!


 前島は涼太をじろっと睨んだ。


前島悠子

……師匠には随分と懐いてますね。
涼太さん、子供は人の中身を見るっていいますよ。

佐伯涼太

そんなこと言わないでよ!
かなり傷つくじゃんか!



 天野たちは千恵を囲み、昼食をとった。

 

 天野は前島に千恵を預かった経緯を説明した。



前島悠子

そうなんですか……。
暴力を振るう男はサイテーですね。
千恵ちゃん可哀想……。

天野勇二

悪いんだが、4限だけ千恵を頼めるか?

前島悠子

もちろんです師匠!

天野勇二

その代わり、難しい小論やレポートがあれば書いてやろう。
講義も90分を10分に短縮して説明してやる。

前島悠子

わぁ!
それ最高に嬉しいです!
ありがとうございます!


 天野と涼太は昼食を終えると、必須の授業へ向かった。

 

 前島は代返を依頼して、千恵の遊び相手を務めた。


前島悠子

千恵ちゃんはクマさんが好きなの?

坂上千恵

うん!
おかあさんがかってくれたの。
いつももってなさいって。

前島悠子

そうなんだ。
良かったねぇ。

坂上千恵

うん!


 前島はしばらくクマのぬいぐるみを操りながら千恵と遊んでいたが、


前島悠子

……あれ?


 クマの胸ポケットの縫い目がほつれているのを見つけた。


 よく見ると、何かを縫いつけたような跡がある。


 ポケットの中を探ってみる。


 小さく固いものが入っている。


 何かを縫いつけて隠しているようだ。


前島悠子

千恵ちゃん、くまちゃん借りてもいい?

坂上千恵

いいよー。


 千恵はスマホでアニメを観ている。


 前島は糸を切り、ポケットの中を覗き込んだ。


前島悠子

ありゃ……。
何かやばそうなの出ましたね……。


 マイクロカードが出てきた。


 カード自体は特別なものではない。


 一般的な店で購入できる物だ。


 だが、なぜ胸ポケットの中に、隠すようにしまっているのか……。



 前島は少々迷ったが、自らのモバイルPCを取り出した。


 PCに差し込んでみる。


坂上千恵

おねぇちゃん、それなに?

前島悠子

これはね、お仕事で使う機械なんだよ。
可愛いでしょ。

坂上千恵

うん。
ピンクでかわいい。


 マイクロカードを読み取り、中のデータを確かめる。


 フォルダがひとつ。


 その中には 表計算エクセルファイルがひとつ。


 何となく開いてみた。


前島悠子

うーーん……。


 無数の会社名や個人名が並んでいる。


 隣のセルには住所や連絡先、数字や日付、口座番号と思われる文字。

 

前島悠子

こりゃ何でしょう?


 前島では意味のわからない代物だ。


 天野だったらわかるかもしれない、と判断していると、ちょうど天野が実習を終えて帰ってきた。


前島悠子

あ、師匠!
ちょうど良い時に!

天野勇二

どうした?

前島悠子

クマのぬいぐるみの中に、マイクロカードが入ってたんです。
それを開いてみたら、こんなファイルが出てきたんですよ。

天野勇二

ほう。
それは面白そうだな。


 天野はPCの画面を見て眉をひそめた。

 

 画面をスクロールして中身を確かめる。


天野勇二

これはどこにあった?


 前島はくまちゃんの胸ポケットを指さした。


前島悠子

このポケットに縫いつけられていました。

天野勇二

『縫いつけられていた』

だと?

前島悠子

はい。


 天野はアニメを観ている千恵に尋ねた。


天野勇二

千恵ちゃん。
このくまちゃんは、ママがくれたのかな?

坂上千恵

うん。
いつももってなさいって。

天野勇二

いつも・・・

坂上千恵

うん。


 天野は再びモバイルPCに向かい直った。


 注意深くファイルの中身を確かめる。


天野勇二

……弟子よ、俺様のアドレスにこいつを添付して送れ。

前島悠子

了解です師匠。


 ファイルを添付してメールを送る。


 それを確かめると、天野はカードをPCから抜き取った。


天野勇二

このデータはPCから消せ。

前島悠子

はい。了解です。

天野勇二

メールソフトの送信ボックスからも消すんだ。

前島悠子

はい、削除しましたよ。
これは何のファイルなんですか?


 無邪気に天野の顔を見上げる。


 天野は恐ろしく険しい顔をしていた。


前島悠子

し、師匠……?
ど、どうしたんですか?


 天野は何も答えない。

 

 千恵から離れた席に座る。

 

 何かを考えこんでいるようだ。


前島悠子

師匠……。
も、もしかして、やばいファイルだったんですか?


 天野はタバコを取り出して火をつけた。


天野勇二

前島、今見たものは忘れろ。

前島悠子

そんな弟子じゃないですか。
気になります。

天野勇二

では一度だけ言う。
そしてすぐ忘れろ。


 タバコの煙を吐き出しながら、口を開いた。



天野勇二

大物政治家の献金リストだ。
しかも『裏』のな。



 前島は「ぽかん」として天野を見つめた。


前島悠子

それってやばいんですか?


 天野はキツイ目線で前島を睨みつけた。


天野勇二

忘れろと言わなかったか?


 前島は慌てて首を振った。


前島悠子

は、はい!
忘れました!
もう綺麗さっぱり!


 天野は虚空を睨みつけた。


 煙を吐きながら呟く。



天野勇二

坂上のやつ……。
とんでもない爆弾を押しつけやがった……。



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つばこ

本日の涼太くん、つばことしては結構お気に入りの涼太くんです。
慣れないことも一生懸命。空回りしたっていいじゃないですか。そもそも涼太くんは、
 
「子守しろ」
「ホストやんぞ」
「尾行してこい」
「張り込め」
「命がけで戦え」
 
などと言われても、これといった文句も言わず協力してくれるのです。
なんてイイヤツ! 涼太くんイイヤツ!
君の一生懸命なところ、つばこは大好きだ!(´∀`*)ウフフ
 
さて、くまちゃんからとんでもない物が出てきました。
「裏」の献金リストということは、収支報告書に記載のない献金や、政治家個人への企業献金などが書かれていたのでしょう。公表されれば政治家生命が終わりかねない代物となります。
どうしてそんな物がくまちゃんに隠されていたのか……。
 
次回をお楽しみに!ヽ(*´∀`*)ノ.+゚

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コメント 161件

  • rtkyusgt

    講義内容を10分にまとめてかくれるとかすごい。無駄話を省いても10分にするのは難しいと思う。さすが天才クソ野郎☆彡.。

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  • るー

    私も涼太くん好きですよ!

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  • ゆめおぼろ@天クソ/パステル

    涼太がボロクソに言われてて笑ってしまったけどちゃんと作者コメントでフォローされてて流石だった

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  • 綾夏

    うんうん、私も涼太くん大好きですよ
    天野と同じく善人だと思います。タラシだけど。
    グアム行けなくて可哀想だったな

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  • 太宰雅

    涼太、女遊びが激しい事、見破られたやろ!

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