天野と前島は病室を出ると、中庭にある休憩所に移動した。

 

 ここには喫煙スペースとベンチがある。

 

 天野は自販機でコーヒーと紅茶を買うと、紅茶を前島に手渡した。

 

 

天野勇二

ほらよ。

前島悠子

は、はい……。


 前島は真っ青な顔でベンチに座っている。
 
 
 まだ天野の兄の表情が脳裏から離れない。
 
 けたたましい叫び声が耳に焼きついている。
 
 心を失ってしまった姿が、あれほど恐ろしく感じるなんて、前島は知らなかった。
 
 
 天野がタバコを取り出して火をつけると、おずおずと前島が口を開いた。
 

前島悠子

す、すみません。
てっきり、
お医者様とばかり……。

天野勇二

いや、言い出すタイミングが掴めなかった。
驚かせてしまったな。
すまない。

 

 いつもの口調で前島に詫びた。

 そのまま言葉を続ける。

 

天野勇二

俺の兄は本当に優秀だった。
優秀すぎたため、それが 『当たり前』だと誰もが思っていた。
それがいけなかった。
兄は俺が中学の時に心を喪失したよ。

 
 煙を深く吸い、前島を切なげに見つめた。
 

天野勇二

お前の置かれている環境は、どこか兄と似ている。
優秀であることを求められ続け、やがて全てが当たり前とされる。

愛嬌あいきょうのある顔、
常に美しくあること、
演技が上手いこと、
歌が上手いこと、
踊りが上手いこと、
ファンと親しく接すること……。

その全てが『当たり前』とされる。
なぜならお前はグループのセンターであり、兄は父親の長男だからだ。


 小さく息を吐き、天野は 虚空こくうを見つめた。

 何かを悔いるように言葉を続ける。

天野勇二

人より努力と苦労を重ねて、重圧に耐え続けて結果を出しても、周囲の人間はそれを当たり前だと決めつける。

偉業を達成しても当たり前。
人並み以上の努力だって当たり前。
それを何年も繰り返し、期待以上の結果を残すことさえ当たり前……。

俺だってそう思っていた。
兄はそんな環境に、耐え切れなくなってしまった。


 前島はまだ顔を伏せたままだ。
 真っ青な顔で俯いている。
 天野は前島を見つめ、静かに語りかけた。
 

天野勇二

しかし、お前は兄とは違う。
お前には応援してくれる沢山のファンがいる。
お前の 一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくに喜び、声援を送ってくれるファンだ。
俺は兄とお前を重ねるためだけに、ここに連れて来たのではない。


 前島はすがるように天野を見上げた。

 お互いの視線が交差する。

前島悠子

どうしてですか……?
師匠はどうして、
私をここに……?

 

 その質問には答えず、天野は気障キザったらしく微笑んだ。

 

天野勇二

兄は本当に完璧だった。
父親のどんな期待にも応える優秀な男だった。

 

 天野は指をパチリと鳴らした。

 

 指先を軽やかに振り回すと、自らのこめかみ辺りをトントンと叩く。

 

 いつもの偉そうで大げさな仕草。

 

 だが、不思議とそこに不快感はなかった。

 

天野勇二

だが兄はそのためか、『目に見えるもの』ばかりに囚われていた。
成績や、生活態度に、周囲からの評判……。
そんな外身ばかりを気にしていて、自分の「中身」という物を持っていなかった。
まるで『空っぽの偶像』さ。
表面を鮮やかに彩られ、形を綺麗に変えられ、見た目は誰が見ても完璧だった。
ただ中身に何もなかった。
だから兄は心を失った。

 

 気障ったらしい指先が、前島の胸を指さした。

 

天野勇二

前島よ、
お前の中には、何がある?

 

 前島は胸に手を当て、じっと考えてみる。

 

 

 

 

 

 自分の中には、何があるのだろう。

 

 

 

 

 

 何か、譲れないものがあると思う。

 

 人に誇れるものだって、持っていると思う。

 

 けれど、それは何と呼べるものなのだろう。

 

 無理やり言葉に変えたとしても、天野を納得させられるとは思えなかった。

 

 

 

 天野はその姿を見て、また優しい口調で言った。

 

天野勇二

いいんだ。
自らの中身を言葉に当てはめて、堂々と宣言できる人間は少ない。
これだろうか?
あれだろうか?
そう悩みながら生きていくものさ。
きっとお前はそれを探すために、大学進学という厳しい道を選んだんじゃないのか?

 

 前島は静かに頷いた。

 

前島悠子

はい……。
師匠の言う通りです……。

 

 自分の可能性を広げ、まだ見ぬ未来を探すため、進学という厳しい道を選んだ。

 

 芸能界と大学の両立は困難。

 

 それでも、今の自分に妥協したくなかった。

 

前島悠子

でも、私はそれを、
まだ見つけてません……。

天野勇二

それでいいのさ。
お前には沢山の時間がある。
焦ることはない。

 

 天野は小さく頷くと、どこか遠くを眺めながら呟いた。

 

天野勇二

……兄の心が失われた後、父親の期待は全て俺に圧し掛かった。
俺も兄と同じように生きていく道を選ばされ、自らも医学部を志望した。
兄と同じ道を辿らなければ、兄の存在が意味のないものになってしまう……。
そう思ったからだ。


 深く煙を吸い込み、天野は 虚空こくうを見つめている。

天野勇二

だからこそ、あの頃の俺はいつも不安だった。
兄と同じようにはならないと信じながらも、いつか兄のように心を失うのではないかと、不安だった。

 

 空に紫煙しえんが漂っている。

 

 灰がぽとりと地面に落ちているが、天野は気づいていない。

 

 天野の視界には何が映っているのだろう。

 

天野勇二

その時から、俺の世界は一変してしまった。
尊敬していた兄の悩みさえ、気づくことができなかったんだ。
瞳に映る世界の全てが意味のない物に感じてしまい、友人との関係や、言い寄ってくる女や、自身の存在さえも、くだらないことのように思えた。
自らの心が壊れていくのを感じ、兄のように全てを喪失してしまう恐怖を、いつも抱いていた。

 

 前島は不安気に天野を見上げた。

 

 いつものクソ野郎の顔じゃない。

 

 少しでも触れれば崩れてしまうような、儚げな弱さを感じる。

 

前島悠子

師匠……?

 

 前島は白衣の裾をそっと握った。

 

 天野はその仕草に気づくと、にやりと不敵な笑みを浮かべた。

 

天野勇二

……だが、俺は兄とは違った。
決定的なものをひとつ、持っていたのさ。

 
 不敵な笑みを浮かべたまま、前島を見つめる。
 

天野勇二

前島よ、それは何だと思う?

 

 前島は黙って首を横に振った。

 

 

天野勇二

それはな、クソ野郎、ってことさ。

 

 

 天野は再び指先を振り回した。

 

 今度は他人の不快感をあおるような、嫌みったらしいジェスチャーだ。

 

天野勇二

ある時、女に頼まれてタチの悪いストーカー男をぶちのめしてやった。

ある時、中絶できる病院を紹介して欲しいと頼まれ、散々 ののしってやった後に父親のクリニックを紹介してやった。

ある時、誘って欲しい女がいると頼まれ、番号を訊き出して合コンを開いてやった……。

そんなことを繰り返していたら、誰かが俺のことをひとつの 『あだ名』で呼び始めた。
それはわかるな?

 

 前島は今度は嬉しそうに「はい!」と頷いた。

 

前島悠子

天才クソ野郎、ですね。

 

 天野も嬉しそうに頷く。

 

天野勇二

そうだ。
誰かが俺のことを 『天才クソ野郎』と呼び始めた。
その時、俺は初めて理解できたのさ。
自分の『中身』ってやつがな。

俺は天才クソ野郎……。
そうだ、俺は天才クソ野郎だ!


そう呟いた時に体が震えたよ。

 

 天野は楽しそうに言葉を続けた。

 

天野勇二

この先、どんな環境に置かれても、俺の 「本質」は『天才クソ野郎』だ。
医師になっても、大学病院の教授になっても、研究員になっても、病院の経営者になっても、どんな人生を選んで姿や心の形を変えても、俺の本質には『天才クソ野郎』がある。
いつか老いぼれてジジイになり、やがて死ぬまで天才クソ野郎だ。

 

 天野は「あはは」と軽く笑い、2本目のタバコに火をつけた。

 

天野勇二

前島よ、お前はどうだ?
この世界に存在する目に見えるものは、全て形を変えて、いつか消えてしまうものだ。
つまり、環境や時代などによって形を変える。
人は心も体も変わりながら生きていくのさ。

前島悠子

わ、私も、
そうなんですか……?

天野勇二

ああ、そうだ。
ただの中学生から無名のアイドルになり、グループのセンターとなり、国民的アイドルグループのセンターになり、そして天下のトップアイドルになった。
そのように変わりながら生きていく。

 

 天野は少し切なげに、消えていくタバコの煙を眺めた。

 

天野勇二

だがそれも、全ていつかは消えてなくなるのさ。
時代が変われば、またお前は違う「何か」になる。
その度に心の形も環境も見た目も、瞳に映るものは変わっていく。

 

 天野は再び前島の胸を指さした。

 

天野勇二

だが、ひとつだけ変わらないものがある。
お前が持つ『本質』だ。
俺は自分のそれに 『天才クソ野郎』という名をつけてやった。
それで俺の心は空っぽではなくなった。

 

 前島は自分の胸に手を当てた。

 

 何か、そこに温かいものを感じる。

 

前島悠子

師匠……。
私にも、本質がありますか?

 

 天野は断言した。

 

天野勇二

ある。

 

 気障ったらしい笑みを浮かべ、前島の瞳を覗きこむ。

 

天野勇二

だからこそ弟子に選んだ。
俺様に近い、クソ野郎の素質があると踏んでいる。

 

 前島は顔を綻ばせた。

 

前島悠子

私も『クソ野郎』ですか?

天野勇二

ああ、お前もクソ野郎さ。
どこか似たものを感じている。

 

 天野は優しい眼差しで弟子を見つめた。

 

天野勇二

お前はグループのセンターに立ち続け、ずっと誰かに言われるまま、闇と光の中を走り続けたのだろう。
10代の青春を捧げたのに、様々な鎖が縛り、様々な環境が壁となり、 賞賛しょうさんの声を浴びながらも辛い思いをしていただろう。
俺は兄を見て、そして兄と同じ道を 辿たどったから、お前の気持ちがわかる……。

……いや、違うな。

 

 天野は首を横に振った。

 

天野勇二

わかるような気がするだけだ。
わかる、なんて偉そうなことは言えない。

他人から必要以上に期待され、
自分の人生なんて選べず、
やりたいことがやれず、
どれだけ努力しても認められず、
むくわれない日々が積み重なる。
そして最後には、全ての努力や結果も当たり前とされる。

お前の抱えてきた重圧や苦しみが、俺には痛いほどわかるような気がする。

 

 前島はうつむいて天野の話を聞いていた。

 

天野勇二

本当のお前は、どんな道を選んだっていいんだ。

グループを抜ける道。
センターに止まり重圧に耐える道。
別の可能性を探す道。
様々な重圧を降ろして一休みする道……。

色々な道があるんだ。
お前の中に『本質』があれば、どんな人生を選んだっていいんだ。

 

 前島の瞳に涙が集まりだした。

 

天野勇二

どんな道を選んでも、お前の中にある『本質』が守ってくれる。
それさえあれば

『もう辛い、やめよう』

そう思ってもいいんだ。
今の道から逃げたっていい。
お前が本質を見つめ、それを信じているならば、逃げることは臆病なことでも卑怯なことでもないんだ。

 
 一滴、前島の瞳から涙がこぼれ落ちる。
 
 天野はそっと優しく前島の手を掴んだ。
 

天野勇二

いいか前島……。
本当に大切なものは瞳に映るものじゃない。
お前の中にある輝きを見つめろ。
それがお前の本質だ。

 

 そう言って前島の手を放し、タバコを灰皿に投げ捨てた。

 

 

 

前島悠子

……師匠……。

 

 

 

 前島は涙を浮かべながら口を開いた。

 

 

前島悠子

私はずっと……
ああしろ、こうしろ、
もっと笑えって、
もっと上手に踊れって、
ずっと誰かに、
言われ続けてきました……。

 

 涙を拭いながら、溢れそうな嗚咽おえつを堪える。

 

前島悠子

自由な時間なんかなくて、
頑張ってもけなす人がいて、
私は自分が何になりたかったのか、
何のために生まれたのか、
よくわからなかったんです……。

 

 ぼろぼろと、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

前島悠子

だから、誰かに言われるままの時間に甘えて……。
誰かに指図されたことだけやっていれば、何だか楽に生きられるような気がして……。
でも、本当はそんなのすごく嫌で、だけど、何も見つからなくて……!

 

 前島は瞳を濡らしながら、天野を見上げた。

 

前島悠子

私こそ 『空っぽの偶像』です。
そんな、そんな空っぽな、
作り物だった私でも、
本質は見つけられますか……?

 

 天野はもう一度前島の手を握り、はっきりと断言した。

 

 

 

天野勇二

見つかる。

 

 

 

 そして今まで前島が見た中で、最も優しい笑顔を浮かべた。

 

 


天野勇二

お前がどんな道を選んだとしても、師匠である俺様が全て肯定してやる。
いいか、もう一度言うぞ。
お前の中にある輝きを見つめろ。
それがお前の本質だ。

 
 
 前島は声をあげて泣き出した。
 
 天野は前島が泣き止むまで、その頭を優しく撫でていた。
 
 
 

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つばこ

天野くんは、決して完全無欠のヒーローというワケじゃないんです。
もしかしたら、誰よりも弱かったのかもしれません。
だけど、自らの本質に名前をつけた時、天野くんの人生はようやく始まったんじゃないのかな、と思います。
 
この時の天野くんの言い回しで好きなのは、大切なことは「瞳に映るものではない」と言いきりながらも、本質を「見つめろ」と指示しているところですね。
瞳ではなく、もっと違う何かで「見つめること」が大事なんだと、彼は考えているのかなぁ。
 
とはいえ、私は自分自身の本質がわからないままですし、名前もつけられません。
だけど、この物語を読んでくれた皆様の本質がキラリと輝く時がくるといいなぁ、と願っておりますヽ(*´∀`*)ノ.+゚

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コメント 336件

  • ぬかづけ

    改めて読んでみると、
    ホント、良い話なんだよな、、
    結末知ってから読むと
    また全然違うっつーかさ

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  • TikaTaka

    いや、、こんなん惚れてまうやろ……

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  • ねここ

    いい話…
    自分も時々空っぽになったような気がするから、泣ける。
    天野くんは正真正銘天才クソ野郎ですよ(笑)それが、素敵。
    悠子ちゃんあんまり好きじゃなかったけど天才クソ野郎候補だと思えば応援したくなるな。

    漫画版も、楽しみにしております。悠子ちゃんの久々登場、いいですね。

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  • ИДЙ

    惚れるわ…(・д・)

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  • コケさん

    ヤベぇメイク崩れた(´;ω;`)冒頭から作者コメまで全てに泣かされた…めっちゃええ話や

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