天野と涼太は綾瀬の家を出ると、黙って駅までの道を歩いた。

　
　鎌倉の坂道には夏の強い陽射しが照りつけ、生温く湿った風が吹いている。
　海が近いせいだろうか。
　天野の鼻を潮の香りがくすぐる。
　聴こえてくるのはセミのけたたましい鳴き声。
　ありふれた夏の全てが、不思議と恨めしかった。
　
　ふと、天野は空を見上げた。
　雲ひとつない晴天が広がっている。
　
　この青空も、綾瀬にとっては毒の光でしかない。
　
　季節がどれだけ巡っても変わらない現実。
　残酷な話だと、天野はため息を吐いた。
　
　

　
　天野は何気なく声をかけた。
　
　涼太は振り返りもせず、黙って歩き続けている。
　

　
　天野は涼太の背中に語りかけた。
　

　
　涼太の足が止まった。
　
　静かに振り返ると、涼太は力なく天野を見つめた。
　

　天野は至極当然だというように頷いた。

　それを見て、涼太の瞳から涙が溢れ出した。

　涼太は叫びながら泣き出した。

　涼太はやり場のない悲しみをぶちまけた。

　天野は黙ってその姿を見つめた。

　涼太が泣き止むまで、天野はタバコを吸いながら、ずっと待っていた。

　涼太は涙を流したまま、鎌倉の坂道を下って駅を目指した。

　天野は黙ってその背中を追いかけた。

　鎌倉の駅に到着する頃には、涼太も泣き止んでいた。

　東京へ向かう電車の時間を確かめていると、涼太の携帯が鳴った。

　見知らぬ番号からの着信だ。

　電話に出た涼太の顔が一気に青ざめた。

　天野は驚いて涼太を見つめた。

　涼太は電話を切るとタクシーを停めた。

　そのままタクシーに飛び込み、運転手に綾瀬の自宅の住所を告げている。

　天野も慌てて乗り込んだ。

　涼太が首を横に振った。

　天野は空を見上げた。

　今この空の下に防護服を着ないで出るなんて、自殺行為に等しい。

　天野は運転手を怒鳴りつけた。

　タクシーは猛スピードで走り、綾瀬の自宅に到着した。

　勘定を叩きつけて綾瀬の自宅へ走る。

　白い家の前には、真っ青な顔をした綾瀬の母親が立っていた。

　母親は震えながら首を横に振った。

　天野と涼太は飛び込むように綾瀬の自宅に入った。

　
　
　
　
　
　
　
　
　
　
　
　暗い家の中に飛び込み、2階への階段を駆け上がる。
　
　
　天野はノックもせず、綾瀬の部屋の扉を開けた。
　
　
　綾瀬の姿はベッドから消えていた。
　
　

　天野は部屋中を見回した。

　部屋にあった蝋燭（ろうそく）の火は消えていた。

　あまりに暗く、部屋の様子がよく見えない。

　照明のスイッチを叩いても反応がない。

　照明自体が取り外されている。

　天野は窓のカーテンを開け放った。

　しかし全ての窓は板で打ち止めされていた。

　
　明かりを求める天野の視界にテレビが入った。
　飛びつくようにテレビの電源ボタンを押す。
　だが、テレビは真っ暗な画面を映すだけだ。
　どのチャンネルに切り替えても画面は変わらない。
　
　見るとテレビにはアンテナ線が繋がっておらず、DVDプレイヤーだけにケーブルが繋がっていた。
　
　

　天野はDVDを再生した。
　画面が静かに明るくなる。
　
　
　そこに流れる映像を見て天野は 驚愕（きょうがく）した。
　
　
　そして、やり場のない悲しみと、怒りが沸き上がった。

　涼太が震える声で天野を呼んだ。
　手に「ウサギのぬいぐるみ」を持っている。
　ウサギは1枚のメモを握らされていた。
　天野はそのメモを奪い取った。







　

　


最後のデートにいってきます

　天野は叫んだ。

　怒りで全身が震えていた。

　涼太は泣きそうになりながら、天野に訴えた。

　天野は言葉の先を続けた。

　さらに天野は言葉を続けた。

　涼太はがたがた震えている。

　天野は両手を広げて、綾瀬の部屋を示した。

　涼太はあまりの恐怖に頭を抱えた。

　天野はテレビを指差し、涼太に呼びかけた。

　
　テレビは海の風景を映し出していた。
　
　湘南の海だ。
　穏やかな波。
　恋人同士が歩く砂浜。
　きらめく夏の陽射し。
　遥か彼方まで続く水平線。
　
　外に出ればすぐ手に入るものが、テレビに映し出されていた。
　

　天野は涼太の顔を真正面から睨みつけ、両手を翻しながら叫んだ。

　天野は涼太に近づき言った。

　涼太は青ざめながら叫んだ。

　涼太は天野の足にしがみついた。

　天野は涼太の胸倉を掴みあげると、思いきり殴りつけた。

　涼太は呆気なく地面に倒された。

　涼太はその言葉を聞いて、強く拳を握った。

　瞼まぶたを閉じて、綾瀬のことを思った。

　綾瀬と過ごした僅かな時間のことを思った。

　綾瀬のことを好きだった、幼き日の感情を思った。

　この部屋で、海の映像を見ながら、自分のことを想ってくれていた綾瀬のことを思った。


　そして、綾瀬が告げてくれた言葉が、涼太の中で光を放った。

私は涼太くんのことが
好きで、好きで……。

ずっと好きで、
たまらなかったの。

　
　涼太は立ち上がって叫んだ。
　

　天野は頷き走り出した。

　綾瀬の家を飛び出し、停めてあったタクシーに乗り込む。

　
　タクシーが急発進して鎌倉の坂道を下って行く。
　
　綾瀬が途中で倒れていないか、2人は必死で目を凝らした。
　
　やがて由比ゆいヶ浜にタクシーは到着した。
　

　海岸の入り口に綾瀬が倒れていた。

　涼太はタクシーから飛び出した。

　
　綾瀬は鼻血を流していた。
　
　皮膚は紫外線に焼かれ、真っ赤に染まっていた。
　
　赤く爛ただれた顔が、嬉しそうに微笑んだ。
　

　
　涼太は綾瀬を抱き上げた。
　
　驚くほどに綾瀬の体は軽かった。
　

　涼太は涙を流しながら、綾瀬を抱いて砂浜を歩いた。

　潮風も、夏の陽射しも、波の音も、涼太には何も感じられなかった。

　ただ腕の中にある綾瀬の温もりだけを感じていた。

　遠ざかる温もりを抱きしめながら、涼太は叫んだ。

　涼太は砂浜で綾瀬を抱きしめた。

　やがてその命の輝きが消えて、綾瀬の体から温もりが消えるまで、ずっと抱きしめていた。

　天野は海岸の入り口に立ち、涼太たちを見つめていた。

　その隣に、綾瀬の母親が並んだ。

　母親は泣きながら首を横に振った。

　陽が傾き、全てがオレンジ色の夕焼けに染まるまで、4人はそこに佇んでいた。

　
　
　天野はその日、銀座にある坂上のスナックに訪れていた。
　

　それほど広い店ではない。

　カウンターに椅子が6つだけ。

　スナックというよりはバーと呼んだ方がしっくりくる。

　それでも場所は銀座の一等地だ。

　相当なパトロンを見つけたのだろう、と天野は判断した。

　天野の背中から涼太がひょっこり顔を出した。

　坂上は2人を招き入れた。

　涼太は大げさに褒めた。

　坂上が苦笑しながら天野を見つめる。

　天野はギムレット、涼太は焼酎の水割りを頼んだ。

　涼太は明るく笑った。

　坂上はグラスを天野と涼太の前に差し出した。

　天野がのんびり言った。

　坂上は納得したように頷き、もう1杯グラスを用意した。

　天野と涼太は自分達の間に、そのグラスを置いた。

　天野と涼太は、真ん中に置いたグラスにカチン、と音をたてて乾杯した。

　その様子を見ていた坂上が言った。

　天野はギムレットを舐めながら、 気障（キザ）ったらしい笑みを浮かべた。

　坂上が笑いながら口を挟んだ。

　天野は堂々と胸を張った。

　涼太が苦笑しながら言った。

　天野は不敵な笑みを浮かべた。

　坂上は納得していなかったが、なんとなく頷いた。

　天野がお得意の決め台詞を告げる前に、涼太が口を挟んだ。

（おしまい）