電車が鎌倉駅に到着した。

 駅を出た天野たちを、夏の強い陽射しが出迎えた。
 肌を突き刺すような太陽の光。
 空を見上げれば、雲ひとつない晴天が広がっていた。


 天野と涼太はタクシーに乗って、メモに記載された住所を目指した。

 鎌倉の坂道を上り、高台にある白い家にタクシーは辿り着いた。

 

天野勇二

ここだな。

 

 

 天野はタクシーを降りて白い家を見上げた。

 木造の古い2階建ての家だ。

 カーテンがかかっているのか、全ての窓は閉じられている。

 中の様子は伺えない。

 

佐伯涼太

ここに綾瀬さんがいるのか……。

 

 涼太は呆然と呟いた。

 まだ何と声をかけるべきか、決めていなかった。

 

天野勇二

涼太よ、いいか。

 

 天野は涼太に向き直ると、静かに残酷な事実を告げた。

 

天野勇二

EPPで肝硬変かんこうへんが発症、そしてガンまで生じたというならば、まず俺たちの年齢では助からない。
あっという間に全身へ転移し、死に至らしめる。
綾瀬が入院していないということは、あらゆる治療を諦めて最期を待っている可能性が高い。
つまり……。

 

 天野は辛そうに言葉を紡いだ。

 

天野勇二

これが、
最後の別れのつもりで、
会いに行け。

 

 

 

 涼太は静かに頷いた。

 

 

 

 白い家の呼び鈴をゆっくり押す。

 中から綾瀬の母親と思われる人物が出てきた。

 涼太は先頭に立ち、深く頭を下げた。

 

佐伯涼太

電話で連絡させていただいた佐伯涼太です。
綾瀬さんのお見舞いに来ました。

 

 綾瀬の母親も深く頭を下げた。

 

綾瀬の母

わざわざ遠いところまで、本当にありがとうございます。
あの子は2階におります。
どうか、会ってやってください。

 

 天野と涼太は白い家の中に足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 









 天野は家の中の光景に 愕然がくぜんとした。
 
 昼間とは思えないほど暗い。

 必要最低限の照明しか灯されていないのだ。

 全ての窓ガラスには暗幕が引かれている。

 ひんやりと冷えた室内は、まるで霊安室のようだと、天野は思った。



 天野と涼太は母親に導かれ、2階に上がった。


綾瀬の母

こちらです。

 

 母親はひとつの扉を示した。

 

 涼太は静かにノックし、部屋の扉を開けた。

 

 

佐伯涼太

綾瀬さん、お邪魔するね。

 
 部屋には1本の蝋燭ろうそくが灯っている以外、一切の光がなかった。
 
 置かれているのは1台のテレビと、片隅にあるベッドだけ。
 
 それ以外には家具も装飾品も存在しない。
 
 あまりに殺風景で寂しい部屋だった。
 

???

涼太くん……?

 
 ベッドの上から懐かしい声が涼太を呼んだ。
 
 か細い鈴のような、女の子の声だった。
 

佐伯涼太

そうだよ。涼太だよ。

 

 綾瀬が儚げな笑みを浮かべた。

 

綾瀬清美

本当に……?
涼太くん、来てくれたの?

 
 医学部の天野は一目見て、その症状を理解した。
 白く細すぎる腕に斑点が浮き出ている。
 もう放射線治療は試したのだろう。
 髪は全て抜け、小さなニット帽を被っていた。
 
 涼太は静かにベッドに近づいた。
 

佐伯涼太

綾瀬さん、久しぶりだね。

 
 綾瀬は嬉しそうに微笑んだ。
 天野と涼太はベッドに横たわる綾瀬を静かに見つめた。
 

綾瀬清美

涼太くん……。

 
 綾瀬は嬉しそうに手を伸ばした。
 涼太はその手を優しく握りしめ、激しい後悔に襲われた。
 
 
 
 
 どうして彼女に手紙を書かなかったのか。
 
 どうしてもっと早く会いに行かなかったのか。
 
 

佐伯涼太

綾瀬さん……。
覚えてるかな、勇二だよ。

 

 綾瀬は嬉しそうに天野を見上げた。

 

綾瀬清美

もちろん覚えてる。
勇二くん、懐かしいね。

天野勇二

同窓会で綾瀬のことを聞いてな。
突然来てしまい迷惑じゃなかったか?

綾瀬清美

そんなことない。
来てくれて本当に嬉しい。

 

 綾瀬はかつての同級生たちを、惚れぼれとした眼差しで見上げた。

 

綾瀬清美

2人とも、
本当に素敵になったね。
昔から格好良かったけど、
もっと素敵になったよ。

 

 涼太は優しい声で言った。

 

佐伯涼太

綾瀬さんも美人になったじゃないか。
大人っぽく綺麗になったよ。

 

 綾瀬は少し悲しげに笑った。

 

綾瀬清美

ありがとう。
お世辞でも嬉しい。
ねぇ、2人は今何してるの?

佐伯涼太

同じ大学に通ってるよ。
僕は文学部、勇二は医学部さ。

綾瀬清美

わぁ、大学生かぁ。
いいなぁ……。
勇二くんはお医者様になるのね。

天野勇二

まだ、わからないさ。

綾瀬清美

ううん、きっと勇二くんだったら素敵なお医者様になる。
そうしたらきっと、私のことも治してくれると思うの。

 

 綾瀬は残酷なことを言った。

 

 世界中の名医をかき集めても、綾瀬を救うことはできない。

 

天野勇二

ああ、
俺様が医者になるまでの辛抱だ。


 天野は指先をパチリと鳴らした。
 喉奥から無理やり気障キザったらしい言葉を引きずり出す。
 
 

天野勇二

どんな難病の治療でも、この俺様にかかれば全てうまくいくのさ。

綾瀬清美

あっ、懐かしい。

 

 綾瀬が嬉しそうに声をあげた。

 

綾瀬清美

勇二くんの決め台詞だ。
うふふ、変わってないんだね。

佐伯涼太

まだこんなこと言ってるんだよ?
子供の頃から成長してないでしょ。

 

 涼太は苦笑しながら、綾瀬の頬に触れた。

 冷たい頬だった。

 

佐伯涼太

ごめんね。
手紙とか出さなくて。

綾瀬清美

ううん、いいの。
また2人に会えたから。
同窓会、行きたかったな。

佐伯涼太

みんな綾瀬さんに会いたがってたよ。
坂上さんって覚えてる?
クラスで一番太ってた女の子。
あの子なんてすっかり痩せちゃってさ。綾瀬さんも見たら驚いたよ。

綾瀬清美

へぇ、見てみたかったな。
綺麗になったの?

佐伯涼太

綾瀬さんには負けるけどね。

 

 綾瀬がぱちぱちと両手を叩いた。

 

綾瀬清美

涼太くん、
すっかりお世辞が上手になっちゃって。

佐伯涼太

お世辞じゃない。
お世辞なんかじゃないよ。

 

 涼太は綾瀬の腕をさすった。

 

 腕には焦げたようなあざと斑点が浮き出ている。

 

 なめらかさとは無縁の痛々しい肌。

 

 とても同い年の女の子には思えなかった。

  

佐伯涼太

綾瀬さんはどうだった?
中学に進んでから何かあった?

 

 綾瀬は静かに首を横に振った。

 

綾瀬清美

中学からは何も楽しいことがなかった。
高校も病気のせいで退学しちゃったし……。
涼太くんと過ごしたことが、一番の思い出。

 

 涼太はもう限界だった。

 うつむいて涙がこぼれるのを必死に耐えた。

 泣きそうな感情を誤魔化すために、鞄からあれを取り出すことにした。

 

佐伯涼太

綾瀬さん。これ覚えてる?

 

 涼太は『ウサギのぬいぐるみ』を取り出した。

 

 綾瀬にそっと手渡す。

 

 綾瀬は嬉しそうにウサギに触れた。

 

綾瀬清美

うわぁ……。
これ、私が編んだやつ?

佐伯涼太

そうだよ。

綾瀬清美

ずっと持っていてくれたの?

佐伯涼太

当たり前じゃないか。

 

 綾瀬はぬいぐるみを抱きながら、懐かしむように言った。

 

綾瀬清美

涼太くんは不器用だったね。
エプロンしか作れなくて。

佐伯涼太

綾瀬さんが器用すぎたんだよ。

綾瀬清美

お裁縫なんて得意じゃなかったのに、私に合わせてくれたんだよね。

佐伯涼太

違うよ。
僕は綾瀬さんと一緒にいたかった。
それ以上に大切なことなんて、あの頃の僕にはなかった。
それだけだよ。

綾瀬清美

うふふ……。
涼太くんはお世辞ばっかり。

 

 綾瀬はしばらくウサギをいじって遊んでいた。

 

 その様子を眺めながら、涼太が優しく尋ねた。

 

佐伯涼太

綾瀬さんからは大切な物をもらったのに、僕は何も返してない。
何か欲しい物ある?
もしくは何かして欲しいこととか、ないかな?

 

 綾瀬はウサギから目を離し、じっと涼太を見上げた。

 

綾瀬清美

……何でもいいの?

佐伯涼太

何でもいいよ。

綾瀬清美

じゃあ、私、
涼太くんとデートしたい。

佐伯涼太

デート?
そんなのでいいの?

綾瀬清美

うん。

 

 綾瀬はこくんと頷いた。

 

綾瀬清美

涼太くんと一緒に、海に行きたい。
防護服を着ないで、太陽の下で、海岸線を眺めながら、涼太くんと砂浜を歩くの。

 

 まるで夢を見るような口調だった。

 涼太は無理だとわかっていたが、喉奥から言葉を絞り出した。

 

佐伯涼太

病気が治れば、
デートなんてすぐにできるよ。

 

 綾瀬は静かに首を振った。

 

綾瀬清美

ううん……。
もう私は長くない。
デートもできない。
わかってるの……。
ねぇ、涼太くん。

 

 綾瀬は涼太の手を握りしめた。

 

 

 

綾瀬清美

私ね、
涼太くんのことが好きだった。

 

 

 

 まるで祈るかのように、涼太の顔を見つめた。

 

綾瀬清美

ずっと言えなかった。
もっと早く言うべきだった。
でも言ってしまえば、涼太くんの重荷になると思った。

 

 綾瀬の瞳に涙がたまり始めた。

 

綾瀬清美

私はこんな病気で、防護服を着ないと外を歩けない。
でも、涼太くんはそんなこと、まるで気にしてないって顔してて……。
それなのにいつも、私のことを気にかけてくれて……。

 
 綾瀬は袖口で涙を拭い、必死に言葉を続けた。
 
 

綾瀬清美

涼太くんは、ただの優しい人。
誰にだって優しい人。
それだけなんだって自分に言い聞かせても、私は涼太くんのことが好きで、好きで……。
ずっと好きで、たまらなかったの。

 
 その言葉の響きが、涼太の全身を震わせた。
 
 震えるほどの喜びが体中を駆け抜けた。
 
 
 
 そして、やり場のない悲しみに包まれた。
 
 
 
 これまで沢山の女の子から告白されたことがあった。
 
 どの告白も胸が高鳴るものばかりだった。
 
 それでも、こんなに嬉しく、悲しい告白は初めてだった。
 

佐伯涼太

……綾瀬さん、僕は優しかったんじゃない。

 

 涼太は強く綾瀬の手を握った。

 その言葉を告げるのに、一切の迷いはなかった。

 

佐伯涼太

僕は君のことが好きだった。
初恋だった。
ずっと忘れられなかったよ。

 

 綾瀬の瞳から涙がこぼれた。

 

綾瀬清美

……いいよ。
そんなお世辞、言わなくても。

佐伯涼太

お世辞なんかじゃない。
本当なんだ。
なんて伝えればいいのか、あの頃の僕はわからなかった。
伝えれば、君との関係が変わってしまうんじゃないかって、怖かったんだ。

綾瀬清美

怖い?
どうして、そう思ったの?

佐伯涼太

僕は臆病者なんだ。
気持ちを伝えたら、綾瀬さんの隣に立てない気がした。

 

 涼太は視界がにじんでいくのを感じた。

 

 目頭が熱くなる。

 

 涙がこぼれてしまう。

 

 それでもこの気持ちだけは告げなければならない。

 

 ただ必死に言葉を紡いだ。

 

佐伯涼太

僕はいつも君の隣に立つ理由を探してた。
それが君を守ることだった。
だけど、離れてしまったら、僕は君に手紙を出すことも怖くて、君に嫌われることが怖くて、君に会いに行く勇気なんか、どこにもなくてさ……。

 

 綾瀬は静かに起き上がり、涼太の頬に白い指先を伸ばした。

 

 そこに涼太がいることを確かめるように。

 

 涼太の言葉が現実である証明を求めるように。

 

 優しく頬をでた。

 

綾瀬清美

……本当なの?
涼太くんの言葉、信じていいの?

 

 涼太は精一杯の笑顔を作った。

 

佐伯涼太

本当だよ。
綾瀬さんに嘘なんか言うもんか。

綾瀬清美

そうなんだ……。
嬉しい……。
こんな嬉しいこと、初めて……。

 

 綾瀬は悲しげに微笑むと、小さくせきをし始めた。

 

 天野はもう綾瀬の体力は限界だろうと判断した。

 

天野勇二

涼太、そろそろ行こう。
綾瀬さん、しっかり休むんだ。

綾瀬清美

うん。
涼太くん、勇二くん。
本当にありがとう。

佐伯涼太

また会いに来るからね。

綾瀬清美

うん……。

 

 天野と涼太は静かに部屋を出て行った。

 

 廊下には綾瀬の母親が待っていた。

 

 2人は母親に会釈すると、共に1階へ降りて行った。

 

佐伯涼太

これ、僕の連絡先です。
何かあれば連絡ください。

 

 涼太は自分の連絡先を母親に渡した。

 

 そのまま2人は綾瀬の家を後にした。

 

 

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つばこ

今週もお読みいただき本当にありがとうございます。
 
涼太くんと綾瀬さんの間には「病気」という大きな壁があったのでしょう。
涼太くんに迷惑をかけてしまうことを思えば、綾瀬さんは告白なんか出来なかった。
綾瀬さんをサポートすること以外、涼太くんには傍にいられる理由が見つからなかった。
病気が2人を結びつけてくれたのに。
 
読んで頂いた皆様は、涼太くんに対してどんな感情を抱くのでしょうか。
なにせ涼太くんはゲスなチャラ男です。
ここまで想ってくれた初恋の女の子に手紙さえ出せなかった男です。
彼の気持ちは「純愛」と呼べるものではないのかもしれません。
でも、だからこそ、彼が抱く後悔はとんでもなく深いと思うんです。
 
今週土曜日が「さよなら編」のラストになります。
涼太くんがどんな別れの言葉を告げるのか、お読みいただければ幸いです。
そして、いつも応援やコメント、本当にありがとうございます!

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コメント 340件

  • お餅さん

    読んでてめちゃくちゃ泣いた...。

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  • rtkyusgt

    泣かずに読むのは不可能。

    純愛すぎる。

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  • カボルイス世ハピ天クソ契約

    やっぱりこれが涼太の本質なんだと、俺は思うな。

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  • もちもちぺったん

    泣きました……

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  • ねここ

    もう号泣しかない。夜中なのに。
    病気が二人を近づけたのに、病気だから本当の気持ちをなかなか伝えられなかったんだね。
    なんとも言えないよ…

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