天野（あまの）が店の入り口を開けると、数人のメイド姿の女の子が出迎えた。

　メイド姿の娘がスカートをふりふり揺らし、媚びを売るように尋ねる。

　天野は呆然としながら答えた。

　メイドに連れられて店内に入る。

　店自体はそれほど広くない。

　一般的な学校の教室の半分ほど。

　客は目を覆いたくなるほどの気持ち悪い男ばかりだ。

　ひとつのテーブルから天野を呼ぶ声が聴こえた。

　天野の知人、奥田和彦（おくだかずひこ）だ。

　天野はダッシュで駆け寄った。

　天野は店内を見渡した。

　メイド姿の店員が歓声を上げながら走り回っている。

　天野は吐き捨てるように言った。

　奥田はしょんぼりと肩を落としたが、1人のメイドを見つけると大きな声で呼んだ。

　『マユにゃん』と呼ばれた女の子は、メイド衣装であるフリルのスカートを揺らせながらやって来た。

　マユにゃんは猫耳をアピールしながら挨拶した。

　マユにゃんは奥田の注文を受けると、伝票に何かを記入して店の奥へ引っ込んだ。

　しばらくすると、店の奥から2人のメイドが 「キャーキャー」と歓声をあげながらやって来た。

　天野の前にアイスティーを置く。

　大きな声で注目を集め始めた。

　店内の客たちはニヤニヤしながら天野たちを眺めている。

　マユにゃんがリズムにのせて手拍子を始めた。

　客たちも一緒に手拍子を始めている。

　手拍子が大きくなったタイミングを見計らい、マユにゃんは上機嫌で叫んだ。

　2人のメイドは両手でハートマークを作り、アイスティーに突きつけた。

　にゃんにゃんビームが紅茶に向かって放たれた。

　満足気に言い放つと、マユにゃんは両手で猫耳を作った。

　店内中のメイドとお客も両手で猫耳を作る。

　そして全員一斉に、

　と叫んだ。

　パチパチパチ……と客から拍手が送られる。

　マユにゃんともう一人のメイドは、

　と頭を下げ、店の奥へ走り去った。

　天野はゆっくりアイスティーを口にした。

　至って普通のアイスティーだ。

　天野は安堵した。

　天野は青ざめて奥田を睨みつけた。

　奥田は「ほえ？」と、無邪気な顔で小首を傾げている。

　この男、 天野勇二（あまのゆうじ）は、とある私大に通う医学生なのだが、昼飯を奢ることを条件に、様々なトラブルを解決する『事件屋』まがいのことを趣味としている。

　天野は奥田に呼び出され、この店――秋葉原にあるメイド喫茶 『メイドにゃんにゃん』までやって来たのだ。

　『天才クソ野郎』とは天野の「あだ名」だ。

　性格はドSで人を辱めることが大好き。

　そのくせ成績優秀ということで、教授や生徒から尊敬と軽蔑を込めて呼称されている。

　本人はとても「あだ名」を気に入っており、呼ばれることをむしろ快感としていた。

　天野は奥田の言葉を聞くと不敵な笑みを浮かべた。

　『天才ブタ野郎』とは奥田の「あだ名」だ。

　もう昨年度に大学は卒業しているが、在学中は天野と同じような天才として評判だった。

　だが、如何せん容姿がブタ野郎なので、そのように呼ばれていた。

　本人はこの「あだ名」をとても嫌っており、呼ばれると癇癪を起こすことで有名だった。

　真正面から言って許されるのは天野ぐらいだ。

　奥田は照れているのか「でへへ」と笑った。

　マユにゃんは人気者のようだ。

　あちこちのご主人様に呼ばれている。

　にゃんにゃんビームを打ちまくりだ。

　奥田は気持ち悪いことを言い始めた。

　奥田は頬と顎の脂肪をプルプル揺らせながら力説した。

　天野はもう限界だと感じた。

　奥田のたるんだ顔を睨みつける。

　これが自分と並ぶ天才と呼ばれた男か。

　将来は脳外科のゴッドハンドになると噂されていた男か。

　いつか医療界の歴史に名を刻むはずだったのに。

　時の流れとは残酷なものだなと、天野は感傷に浸った。

　天野が呼ぶと、マユにゃんは満面の笑顔を浮かべてやって来た。

　そう言って奥田を指さした。

　奥田は突然の展開に驚き、あたふたと慌てふためいている。

　マユにゃんは大きく頷いた。

　その言葉を聞き、奥田はたるんだ頬が地面につくんじゃないか、というほどデレデレし始めた。

　奥田は嬉しそうに叫んでいる。

　天野は至極冷静に言った。

　マユにゃんは即答した。

　店の奥からマユにゃんを呼ぶ声が聞こえた。

　マユにゃんは投げキッスを送ると、足早に去った。

　奥田は何をどう解釈したのか、激しく天野に詰め寄った。

　奥田はがっくりと肩を落とした。

　そして、天野もがっくりと肩を落とした。

　これは相当な重症患者だ。

　奥田は興奮して吼えている。

　天野はため息を吐きながら語りかけた。

　天野は在学中の奥田を思い出した。

　確かに『ブタ野郎』というあだ名にピッタリの外見だったが、その才能は一流の医者に匹敵するものがあった。

　天野でさえ論破されてしまうほどの頭脳、知識、冷静さ、発想力。

　どれをとっても一流だった。

　天野はそれなりに奥田を認めていたのだ。

　奥田はなおも吼えている。

　こんなブタ野郎のどこに『天才』と呼ばれる要素があったのか、まるで理解できない。

　天野は奥田をぶん殴って、席を立ってとっとと帰りたい気分だったが、寸前のところでぐっと堪えた。

　天野はそう言うと「マユにゃーん」と呼んだ。

　何がそんなに楽しいのか知らないが、笑顔でいっぱいの顔だ。

　天野はマユにゃんの手をそっと握った。

　奥田が真っ赤な顔で吼えた。

　天野は完全に無視すると、マユにゃんを真剣な眼差しで見上げた。

　奥田の顔が一気に青ざめていく。

　マユにゃんは奥田には目もくれずに、

　と、テンプレ通りの返答を放った。

　マユにゃんは軽快に去った。

　奥田は天野の肩を掴み、がたがたと前後に揺らした。

　唾を吐き出しながら叫ぶ。

　天野は前後に揺らされながら心底うんざりしていた。

　この男はもうダメだ。

　末期だ。

　救う手立てはない。

　どんな名医でも匙（さじ）を投げるだろう。

　しかもよく考えてみれば、救う価値もなかった。

　天野は全力で奥田の両手首を握った。

　ぎりぎりと奥田の太い手首が締め付けられる。

　骨がボッキリ折れそうだ。

　たまらず奥田は叫んだ。

　天野は奥田の手を放すと、『にゃんにゃんアイスティー』を一気に飲み干した。

　天野は席を立った。

　マユにゃんが驚いて飛んでくる。

　天野は店を後にした。

　天野は秋葉原の街並みを眺めた。

　通りの店にはカラフルな看板が並んでいる。

　アニメや漫画、ゲームなどのキャラクターだらけ。

　中には声優やアイドルらしき顔も見受けられる。

　天野はひとつのビルの前で足を止めた。

　天野の弟子であり、後輩である前島悠子（まえしまゆうこ）の顔写真が貼られている。

　とんでもなく巨大なポスターだ。

　高さも横幅も3メートル以上あるだろう。

　前島は純粋無垢なアイドルスマイルを浮かべている。

　その前で記念撮影している観光客も多い。

　前島のことを神のように崇めているファンも見受けられる。

　ちょっとした観光スポットだ。

　天野はため息を吐きながら街を見渡した。

　秋葉原に訪れたのは10年ぶりだったが、随分と変わってしまったな、と感じた。

　視界に入るのはアニメキャラにアイドルばかり。

　オタクが好む『萌え』というものを提供している街なのだろう。

　天野はとっとと帰ろうと駅を目指した。

　この時はまだ、奥田の依頼がとんでもないことに発展するとは、夢にも思っていなかった。