2スト(原付)エンジン焼き付きの前兆3選【バイク初心者】
めちゃくちゃ正しい事を言ってる。
最近は街でもコースでも2ストを
乗る人はごく少数の限られた人た
ちだけなので、初心者向けという
よりも、「マニアックな世界に
入り込んだばかりの人向け」の解説
だろう。
燃調にもよるが、ボアアップなどを
せずとも、ノーマルで2スト車は焼き
付くことがある。抱き付き含めて。
その予兆は一切ない。突然起こる。
フンゴッ、ボーッという感じで。
クラッチを即座に切らないと後輪が
ロックして吹っ飛ぶ事もある。
スロットルをコンマ戻してパーシャル
を作ろうとした時に起きたりする。
この動画で説明されていない事で
一言付け加えたい。
F3が全盛時代によく起こったことで、
私も経験があるのだが、「コース
走行ではオイルポンプを外して
混合にしろ」だ。走らせる前に。
市販車をとりあえず走らせて挙動を
みようとはせずに。
くそドノーマルのままでコース走行
をしても問題がないような車が出て
来たのは1988年あたりからだ。
2ストのオートルーブのオイルポンプ
は機械的な仕組みなので、コースで
の過激な走行には全くついてはいけな
い。スロットル開度に同調させるのは
物理的に無理だ。
1980年代前半当時にコースでは2スト
のレーシングレプリカの走行レビュー
動画や雑誌での特集が掃いて捨てる
程にあったが、ノントラブルで完走
できていたのは1988年以降の車に限っ
てだ。
だが、当時は雑誌などはコースでの
新車トラブルなどは勿論掲載しない。
特に雑誌メディアではそう。
これは1980年代前半に私はオートバイ
雑誌編集部でバイトしていたので内情
をよく知っている。
いわゆる「大本営発表」のヨイショの
お為ごかししか雑誌は記事にしないの
だ。そしてモノカキたちはそうした
売文で食いつないでいる。それは今も
だ。
それが証拠には、出るオートバイ出る
オートバイ、新車はすべてベタ褒めだ。
だが、本当の現実は違う。
ちょいと引いて冷静に考えれば解かる。
「んなこたぁ無いでしょうよ」と。
「これは危険な失敗作」という物も
とても多いのだ。
オートバイでは16インチにしても
そうだった。
某メーカーのワークスライダーだった
某世界GPライダーは、メーカー発売
の新車の宣伝に出ていながら、「あん
なの乗ったら死ぬよ」と本音を関係者
に漏らしていたりもしたが、それが本当
の真実の声だ。
しかし、メーカーサポートのしがら
みで、そういう「真実」は公言でき
ない。
やむにやまれぬ忖度などは、その
1980年代初期に既に日本のオートバイ
業界には定式として存在していた。
なぜならば、日本の二輪メーカーは
「日本型企業」だからだ。
大本営発表こそが全て「真実」で
「正しい」としていく。
ユーザーは何も知らずに、ユーザー
の実質使用の不具合等の実際の報告
を授ける「走る実験室」とされる。
ユーザーこそが検体でありモルモット
であるという視点の二輪企業が確実に
あったのだが、それは彼らだけでは
ない。日本国内のすべての二輪メーカー
が同様の「資本の論理」で二輪車を
製造していた。
だが、これは、現場で二輪を開発した
り、本当に良いモノヅクリをしようと
奮闘していた技術者たちとは、その
社会的な構造と背景において大きな
内実と情念の乖離を見せていた。
二輪業界に、レースという競技や、
たとえアルバイトでもそのメディア
の中に身を置くと、その社会の歪
(ひずみ)が非常によく見えた。
それはまだ20代前半の若年であろう
とも真の姿が嫌というほど見えた。
私の高校時代のクラスメートだった
奴は、偏差値70ちょい切りの生徒が
揃うS特進クラスにいながら、大学
進学を捨ててロードレースの選手に
なる事を高校3年になる直前の時に
選んだ。
私は大学に進学して知見と学識を広め
たいために(かなりの決断選択だっ
たが)レーシングチームを辞めて
大学進学を選んだ。
私がそれから10数年後に結婚した時、
その高校時代のクラスメートのロード
レーシングライダーの親友に連絡し
たら即、その晩にうちに遊びに来た。
トランポにレーサー積んだまま、
チームの若い後輩を伴って。
「お前が電話くれて連絡してくれた
のはすんげー嬉しかったよ」と言い
ながら。
そして、そんな話をしながら、新婚
の我が家でキリンラガーの大瓶を
ばんばん空けた。かみさんの手料理
を肴にして。
それから、かみさんは家に残して、
3人でトランポ乗って渋谷に飲みに行っ
た。可哀そうに後輩君はずっと飲まず
に行きも帰りも運転手だ。
そして、レーサーを店内に飾っている
渋谷駅そばの店で飲んでた時に、奴は
私に言った。
「お前、一緒に上を目指すかと思って
いたのに、急に大学行くとか言って
チーム辞めちゃったしなぁ・・・」と
寂しげに。
高2の時の鈴鹿遠征練習走行の時は、
宿泊先の旅館で殴り合いの喧嘩を
した仲だ。バリ伝のグンとヒデヨシ
のように。
筑波では私のほうが奴よりタイムを
出していた事もあった。
でも、全日本ではあいつはポイント
を取るのが巧くて、一度も優勝経験
がないままノービスから国際A級まで
行った。
本間ちゃんとかから言わせると「論外」
の「定位置」の下位のライダーなのだ
ろうが、それでもレーシングライダー
は全て同じ土俵なので、本間ちゃん
からはそう言われても仕方ない。死ん
でいないだけまだマシだ。サーキット
の亡霊のようなぼろ雑巾だったのだから。
で、その高校のS特進のクラスメート
の奴は、途中から「学校の勉強をする
事」をやめた。一切やめた。
私はやめなかった。バイクにも乗るし
コースにも行くのだが。
でも、学識や知的錬磨とは別なところ
で、あいつはある時、走り悩む俺に
究極の定理をボソッと呟いた。
私は目からウロコが落ちた。
それは、マシンのセットアップや
車種の違いによっての狙い定めに
迷う私にあいつは言ったのだった。
「同じオートバイだよ」
この深さに私は「あっ!」となった。
思い悩んでいた私は、溝にハマって
脱輪寸前だったのだ。心の悩みが。
後年の柳沢雄造さんと同じ核心を
高校時代の大親友はボソリと言った
のだった。
ロードレースを引退した彼は、10年
程前まではサーフィンにハマりまくっ
て、奥さんもサーファーの人をもらっ
たと電話で聞いた。
ここ10年程連絡は取っていない。
ほんの数年前までは賀状もくれていた
が、今はない。
富士や筑波に行く前日はあいつの実家
に泊めてもらっていた。
お母さんが美人で三ツ矢歌子さんに
そっくりだった。
お父さんはインテリで、書架には思想書
が沢山あった。だが、あいつが子ども
時分に病気で亡くなられたそうだ。
思うに、オートバイって、馬鹿でない
と乗れないけれど、本物の馬鹿では
全く乗れないように思う。
特に「識別不能」の脳であると。
オートバイ。その運転。
それは全て物理だ。何がどうであるか
を正確に認知する事だ。
私がよく言っている「オートバイに乗っ
て風になりたいとか言ってる奴は馬鹿だ。
そんな奴は大抵は土になる」という文言
は、実は柳沢雄三さんが私に言っていた
台詞である。
ちなみに、高校時代のその親友の
レーシングライダーは、私の彼女
だった年上の看護婦(当時呼称)
さんにベタ惚れした。
私の中学の時のバスケ部の先輩
だった。顔は石原さとみクリソツ。
だが、クラスメートのあいつは
俺に仁義を切ってきた。
「○○(私の名)。話がある。
おれはあの人に惚れた。本気で
アタックしたい。それをお前に
言っておきたい」と。
漢がいた時代だった。
俺も「お前がそういう真実の気持ち
ならば行けよ」と言った。
陰でコソコソこズルい小汚い事は
一切しない。そんな奴は世の中で
存在さえ許されなかった。
ねらーやSNS悪口同調炎上大好きや
陰口専科の今の時代の連中には想像
もつかない事だろう。
今の濁り切ったハートの時代を
「これが当たり前」とか若者は決し
て思ってはならない。
そうした人の心の真実は、時代を
超える不朽性を持つからだ。
人の心の輝きというのは、そういう
ところにある。
これは時代を凌駕する。
ウロコ落としな。