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真珠湾攻撃から80年 封じられた非戦の信念【報道特集】

更新:2021-12-08 14:18

古びた革のトランク。そこに眠っていた文書には「厳秘」の文字。日米開戦の火ぶたを切った真珠湾攻撃の作戦案だ。

「真珠港に在泊せる場合には、これを徹底的に撃破し―」

大本営発表
「帝国陸海軍は、本8日未明、米英軍と戦闘状態に入れり」

80年前、この奇襲攻撃を指揮したのは連合艦隊司令長官・山本五十六。
太平洋戦争の緒戦で大きな戦果を挙げたとして、「名将」とも呼ばれ、盛大な国葬が行われるなど、国民に英雄視された人物である。だが実は、日米開戦に反対しながら、その作戦を指揮する立場に置かれ、二律背反に陥り、その苦悩をこう友に打ち明けていた。

堀悌吉宛山本五十六書簡(1941年10月11日付):「個人としての意見と正確に正反対の決意を固め、其の方向に一途邁進の外なき現在の立場ハ誠に変なもの也これも命というものか」

■堀悌吉との出会い

その40年前の1901年、山本五十六は、海軍人生の第一歩を広島県江田島にあった海軍兵学校でしるした。現在、海上自衛隊幹部候補生学校となっている校舎も訓練も、五十六が学んだ当時のままだ。

海軍軍人の基本を徹底的に叩き込まれる日々。五十六も将校養成のための厳しい競争にさらされていた。その五十六にある出会いが訪れる。成績を落としたことを故郷の兄に報告する手紙には。

「非常なる不成績を得て、多分多人の笑を買ひ、しかし、一人の友を得候」

一人の友。生涯の友となる堀悌吉(ほりていきち)である。
12歳の時に勃発した日清戦争がきっかけで軍人を志した悌吉。常にトップクラスの成績だった。

悌吉、五十六をめぐる資料を研究する安田晃子さんは、2人の出会いを、こう見ている・・・

元大分県立先哲史料館 主幹研究員 安田晃子さん:
順番が落ちてがっくりきている山本さんに自分のベストを尽くせば順位は関係ないと言ったのではないか。兵学校は卒業時の順位がその後もずっとついて回るので特異な考え方ではないかと思うんですけども、それが山本さんを励まして、落ち込んでいた状況から立ち直ったのではないか。それが「一人の友を得」、ということだし、生涯にわたる深い心の友ですね。

192人の32期卒業生。悌吉は首席で卒業し、五十六は11番だった。

■戦わないためにできること

卒業の年に起きた日露戦争。2人はそこで戦争の現実に直面する。日本海海戦で、悌吉が乗り組んだ戦艦「三笠」で目の当たりにしたのは、敵のロシア兵が艦船とともに海に沈んでいく姿だった。

自伝「戦争ト軍備」:「自分は三笠の艦橋上から、至近の距離で双眼鏡裡にこれを目撃したのである。ああ気の毒だ、かわいそうだと思わぬものは無かったろうと思う」(堀悌吉)

五十六にとっても忘れ得ぬ初陣だった。左手の指二本を失い、太ももの肉をえぐられる重傷を負う。五十六は、入院先から父に宛てた便りに、「わずかな傷」と強がったが、悌吉は。

「この種の戦争観は、自分の海軍軍人という立場に関して絶えず大なる煩悶を将来(招来)した」(堀悌吉)

元大分県立先哲史料館 主幹研究員 安田晃子さん:
戦争とはこうなんだ、実際はこんなに悲惨で醜くて、それを二人とも体験したことが根っこになって、2人の歩み方といいますか、それが始まっていったのかなと思います

その後も悩み続けた悌吉は一つの考えにたどり着く。

自伝「戦争ト軍備」:「身を海軍において民族平和的発展に貢献できるように努力する」

戦わないために何ができるのか。
フランス駐在中に勃発した第1次大戦も、悌吉の戦争観に影響を与えた。大量殺りく兵器が使われ、民間人が巻き込まれていく。ドイツに対し、強い嫌悪感を抱いた。

自伝「仏国駐在三年ノ思ヒ出」:「ドイツのミリタリズム(軍国主義)やインペリアリズム(帝国主義)というものが極度に嫌になってきた。日本人のドイツ崇拝のありさまを見ると、たまらなく不愉快であり、堪え難い思いがするようになった」

そして悌吉は自らの結論、「戦争善悪論」をまとめる。

「戦争なる行為は常に乱、凶、悪なり」

海軍内には波紋がひろがった。「堀は共産主義だ、危険思想だ」。それでも、その信念は、悌吉を国際協調と軍備縮小に奔走させることになる。
だが、各国の艦船の保有比率を決めるワシントン軍縮会議での条約調印などに力を尽くす悌吉らに対し、軍備拡張を狙う艦隊派とよばれた海軍の強硬派は、軍縮条約は屈辱的だ、と激しく責め立てていく。
艦隊派と条約派の価値観の違いの大きさは、対立の深刻さにそのまま表れた。

帝京大学(日本近現代史)・筒井清忠教授:
各国が軍備拡張をむやみにやりだせば経済が費消して困るんで、できるだけ軍縮した方が経済的合理主義から助かる。強硬論の人は、堀に対する嫉妬心で固まっている人たちの気持ちをミックスしながらワシントン会議から堀を妨害して困ったことになっていく。この人達は合理的に考えられない人たち。

■追放された堀悌吉

その後の上海事変が、悌吉の運命を左右していく。司令官を務めた部隊が攻撃を受けた際、民間人に被害が及ばない態勢作りに時間をかけると、悌吉を追い落とそうとする艦隊派は、「戦闘準備を怠り逃亡した」「指揮官失格」と非難した。

悌吉を何とか守ろうと五十六は、皇族出身の艦隊派重鎮に異例の直言をする。悌吉の悪評や噂は事実ではないとしたうえで。

軍令部総長官二言上覚「人事の公正が海軍結束の唯一の道」

しかし、条約派は一掃された。悌吉は予備役に編入され、海軍を追われた。対米強硬路線の艦隊派が主流となった瞬間だった。

元大分県立先哲史料館 主幹研究員 安田晃子さん:
堀こそ目の上のたん瘤。海兵トップで当然海軍大臣、連合艦隊司令長官になってもおかしくない立場の人ですから、そういう人間は何が何でも追い落とした方がこれからの自分たちには有利だと

帝京大学(日本近現代史)・筒井清忠教授:
この人たちが追われることによって、自分の力量をわきまえない戦争に行ってしまった。堀悌吉の運命が日本の運命になった。

親友の追放に落胆した五十六は、悌吉に、こうしたためた。

堀悌吉宛山本五十六書簡(1934年12月9日付):「身を殺しても海軍のためなどという意気込みはなくなってしまった」

そんな五十六を立ち直らせたのは、ほかでもない悌吉だった。

元大分県立先哲史料館 主幹研究員 安田晃子さん:
おまえまで海軍をやめたら海軍とか日本はこの先どうなってしまうんだ、と説得して留まったと。

五十六のその後の心持について、多くの海軍兵の証言を聞いてきた戸高一成(とだかかずしげ)さんはこう語る。

呉市大和ミュージアム館長 戸高一成さん:
海軍の将来を背負って立つ人間を切り捨てる様な海軍の判断、自分の最も信頼する心友を切り捨てたという海軍の判断。堀がトップに立ち、自分が前線で指揮官として頑張るという、自分が考えていた海軍の将来がその瞬間に消えたんだと思います。それに対する怒りがずっと残ったんだと思います。

悌吉が育った緑豊かな風景の中に、生家が残っている。五十六は、悌吉が不在でも両親に会いによく訪れていた。甥の矢野正昭(まさあき)さんは、五十六の姿をよく覚えている。

矢野正昭さん:
山本さんは別府からローカル線に乗って中折れ帽をかぶってオーバーを着て私服着て来る

悌吉の生家には、五十六のこんな書がある。

矢野正昭さん:
国大なりと雖も戦いを好めば必ず滅ぶ。天下安きと雖も戦いを忘れれば必ず危うし、と書いてある。いい言葉ですよね。この通りですよね。山本さんが好んだ言葉というが。

隣には、たった一つしかないという悌吉による書。

矢野正昭さん:
これがいいんですよ。「上に和し、下に睦まじく」と書いてある。それが和になっている。本人の意思を表していると思う。「上和下睦」と書いてある。

そして、矢野さんは、悌吉の二人の娘の結婚相手がいずれも軍人でなかったことに、悌吉の固い意思があると考えている。

矢野正昭さん:
あえて(軍人と)結婚させなかったということは、自分としての考え方の中には軍人はもう俺一人で十分だと。軍の中枢におりながらあまり好きではないという意思があった。

■五十六の中の自己矛盾

悌吉が海軍を去った同じ月、日本は、悌吉が力を尽くしたワシントン軍縮条約の破棄を決める(1934年12月)。それは、対米衝突への道を進むことに他ならなかった。
悌吉は、その頃の海軍とこの国を包む空気をこう感じていた。

五峯録「落ち着いて考える努力を惜しみ、しかも人前では大きな強いことをいうような風潮が一般を支配し始めていた」

ヒトラーが独裁体制を築くドイツとの軍事同盟締結に日本は傾いていった。同盟は、アメリカとの戦争に直結するとして、反対の立場を明確にしていた五十六は、命を狙われ始める。覚悟の遺書を「述志」として記していた。

述志:「この身滅すべしこの志奪うべからず」

例え命を落としても志を奪うことはできない。
志とは、三国同盟も日米開戦もあってはならないという悌吉と共通の信念だった。

しかし、1940年9月27日、日独伊三国軍事同盟締結。対米戦争は避けられないものになっていく。
その1年以上前に、五十六は、連合艦隊司令長官に就任(1939年8月)。皮肉にも、最も反対していた対米開戦の作戦を立案する立場に置かれていた。
自己矛盾の中で計画に取り掛かり、攻撃の目標をハワイ真珠湾に定めた。

「月明の夜、または黎明を期し、全航空兵力をもって全滅を期して敵を強襲す」

開戦3か月前。五十六は首相・近衛文麿と会談する(1941年9月12日)。改めて外交努力を促した後、開戦後の見通しを聞かれこう述べたとされる。

「1年や1年半くらいは暴れてご覧に入れます。しかし、それから先のことは保証できません」

呉市大和ミュージアム館長 戸高一成さん:
その先は負けますと言っている。暴れられないと言っているんですからね。相手がそれじゃやめたい、やめなきゃいかんなと思ってほしい思いで言うんだけど、山本さんが言えばなんとかなるのかなというのが、みんなに刷り込まれている。

悌吉の記録によると、この会談の前後に二人は毎日会っていた。

呉市大和ミュージアム館長 戸高一成さん:
堀と会ってるときは、いかにして日米衝突を避けるか、そういう話題はあったと思う。でも最後は外交の問題、政治の問題。やれと言われれば即座にできる体制のもとに日米交渉の妥結を願っているという、非常になんとも言えない難しい微妙な複雑な時期だった、山本さんにとっても。

12月1日、御前会議で正式に開戦が決まった。

その翌日、悌吉が五十六のもとを訪れると、畳の上に横になっていた。

(山本)「とうとうきまったよ」
(堀)「万事休すか」
(山本)「うん、万事休す。もっとも、もし交渉が妥結を見るようなことになれば、出動部隊はすぐ引き返すだけの手筈はしてあるが・・どうもね」

1941年12月4日。悌吉は、横浜駅で五十六を見送った。真珠湾攻撃4日前のことである。

「別れにのぞみ握手して、『じゃ、元気で』というと、山本氏は、『ありがと・・もうおれは帰れんだろうな』と答えながら、列車に上り、進行を始めるとき静かに一言『千代子さんお大事に』これが最後の別れであった」

■五十六の最期

それから1年4か月。
視察に出向いた南洋・ブーゲンビル島上空で、五十六の搭乗機は、待ち伏せていたアメリカ軍機に撃墜される。そして、この座席で絶命していた。死を覚悟していた五十六は、ある封筒を悌吉へと託していた。

「堀悌吉中将立ち合いで開封を乞う」

2021年11月4日。堀悌吉の故郷・大分を訪れたのは、孫の渡辺壮嘉(わたなべたけよし)さん。自宅でみつかった資料を寄贈して13年、久しぶりに祖父の形見に触れた。

堀悌吉の孫・渡辺壮嘉さん:
私、これ覚えてますよ。倉に入れる前、祖父の部屋にあった時から覚えてますよ。大事なものは入ってるってことは知っていたが、何が入っているかは知らなかった。

■ふたりの信念、悌吉の苦悩

悌吉がひそかに守り続けた革のトランクには五十六が心情を悌吉にだけ伝えた手紙の数々とともに悌吉立会いの下での開封を求めたあの封筒があった。なかには二通の述志と真珠湾攻撃の作戦案が同封されていた。
それは悌吉と共通の非戦の信念と、それを秘めた上で戦いに臨む覚悟だった。

山本五十六にとって、堀悌吉とは―

悌吉、五十六をめぐる資料を研究する安田晃子さん:
自分の物の見方はいいのか、確認させてくれる人でもあり、胸の、心のうちを堀にだけは話せる。堀だったら真意を分かってくれる

悌吉にとって、五十六の真意を伝えることこそが、信義に答えることだった。

安田晃子さん:
山本の姿を託されたからには、それを伝えることが自分の使命なんだと。それが自分の責務なんだと。

“本当に戦争反対なら、なぜ勅命でも五十六は拒まなかったのか”、という声に答えるとして、悌吉はこう書き残した。

「『軍隊の本質は、国家の要求に応じて当然の責務を果たすにある』『敵に向かうべき最高命令を承けてはこん外の臣(=臣下の司令長官 ※もんがまえに困 ※機種依存文字のためひらがなで表記)として職を辞するわけにいかぬ』の二つに尽きる」

一方で悌吉は、75歳で生涯を終えるまで、非戦の信念を貫いたがゆえの苦悩を、ずっと抱えていた。

「三国同盟反対でも、時局収拾に関してでも何かもっとしっかりした貢献ができたのではなかろうか。たとえ天下の大勢すでに決し、如何ともすることが出来なかった事由があったとするも、何等かの形において、何等かの方向に自分の力をいたすことができなかったものであろうか」
「これらの点は悔恨の念が永久に消え去らずに、如何にか心の奥底に潜む所以である」

山本家に出向き、五十六の死を伝えたのは悌吉だった。戦後、五十六の遺族は、よく悌吉やその家族のもとを訪れたという。

堀悌吉の孫・渡辺壮嘉さん:
何というか、息抜きに来られてるような感じでうちには。奥さんも息子さんもリラックスして家族みたいな感じだった。いつまでもいて。あまり込み入った話とか難しい話は一切しません。普通の家族の話みたいな会話をしていました。

(報道特集12月4日放送より抜粋・編集)※情報提供は番組ホームページへ
(08日07:00)


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