@Hirahara_Chiaki
千秋

ダンテス・ダイジ著『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』p.21-25

丹田禅における目覚め(原文のルビは《》内に記載した)

 その人の死は、私に非常に深い動揺を与えた。私は動揺の中で、その人を含めたすべての人間性が何であるのかを見たかのように感じられた。それは、虚無とでも呼ぶべき死の闇の上に、かろうじて立てられている。
 人間の新しい悲喜劇が、その闇をバックにして演じられていた。私は、人間とか日常的現実のみを見て、背後の闇がないかのように思う。しかし、人間の不条理は突然背後の闇を自覚させる。
 私は、何も信じられなかった。もう二度と私には生きている実感は得られないように感じた。人間性もあらゆる現象的事柄も、決して私を安心させることはないのだ。私は死を決めて、アパートの屋上に登った。
 私の今までの坐禅修行は一体何だったのか。悟りとか神の愛の体験とかも又過ぎ去りゆく不確かな人間経験の一つにすぎなかったのではないか。かつて、あんなに自信に満ちた時を過ごした私も、今はどこにも残っていない。
 私は屋上の端の手すりに足をかけて、飛び降りようとした。だが、何かが私の心の底にささやくように感じた。それはこう言っていた。
 「もう一度坐禅に専念しろ。坐禅しかない……坐禅しかない……坐禅しかない……」
 そのささやきが、決してそれは、私に希望とか勇気とかを感じさせたわけではなかった。ただ無感情に坐禅をまたやるんだなと決めただけであった。それは一抹《まつ》の光明などというものでもなかった。ただ坐禅をやるだけだということが自《おのずか》ら出てきたにすぎない。
 私はそれ以前に、人伝えに万松院《ばんしょういん》という寺に、臨済宗の老師が来て住んでいることを聞いていた。それを思い出した私は、ふらふらと、万松院へ行こうと決めた。
 万松院へは、アパートからバスで三十分位かかる。その途中は、私は歩いている時もバスに乗って揺られている時も、本当に闇そのものといった心理状態にあった。それは絶望感とか苦悩などといったものでもない。とにかく、文字通り真暗闇なのであった。すでに、通りで出会う人も人ではなく、私も私ではなく、ただ闇であるとしか言いようがない。その真暗闇の中を、私は万松院に向っているだけであり、私はその時、何も考えていないし、何も感じていなかったと言っていい。
 老師の名は、木村虎山と言った。後でわかったことだが、非常に純粋な道心を持っている人で、少々型破りな所があった。私は老師以上にもともと型破りな人間だったから、この老師とはいい出会いであったわけである。
 老師は私の顔を見て、何一つ言うこともなく、その日から、その小さな寺で坐らせてくれた。そして、わざわざ私の食事まで作ってくだされた。
 私は一日中、坐禅を組んでいるだけだった。坐禅以外に何もなく、ただ坐っているばかりなのだ。時間がたつのもわからないし、何日間坐り続けたのかも、よく憶《おぼ》えていない。ただ、便所へ行く時と、老師が食事だと私を呼んでくれる時だけ、坐禅をやめた。そして、坐禅また坐禅、坐禅以外に私の脳裡には何も浮かばぬ。苦悩もなければ、歓びもない。まるで映画のフィルムが途中で切れて、空白な映像が映っている画面のようだった。
 やがて、老師は隻手《せきしゅ》の公案をくれた。両手を打ち合わせれば、パチンと音が出るわけだが、隻手(片手)にはどんな音があるか? その隻手の音声《おんじょう》を持って来いというのが、この公案の内容である。
 それから、私は坐禅をしながら、隻手・隻手・隻手……と念じるばかりであり、念じる以外に何もなかった。絶望さえなくなった絶望の中で、私のすることは隻手を念ずること以外にない。私は相変わらず、終日坐りっぱなしで「セキシュ、セキシュ、セキシュ……」とやり続けていた。そのうち、不思議などというヒマもない位に、セキシュだけになっているのだ。隻手しかなかった。隻手だけであるとかないとかいうこともない。私にはこれ以外にないというところにいた。
 私はそれを老師の所に持っていった。入室参禅《にゅうしつさんぜん》である。小さな寺あので、正式な室《へや》があったわけではない。夜の静かな本堂で、老師は私の参禅を聞かれた。私は入室《にっしつ》の礼拝を型通りに済ますと、老師の前に坐った。そして、坐ると同時に、自《おのずか》ら勝手に「セキシュ!」、という大音声が私の中から飛び出してきた。老師は私の見解《けんげ》を確かめるために、引っかけるような問答を私にしかけてくる。私には隻手あるのみ、すべて隻手で切り捨ててしまう。老師は、ただうなずいた。

 私は礼拝して参禅室である本堂から出ようとする。その時、後ろから老師が静かな太い声でつぶやいた。
 「見解はそれでよい。が、爆発じゃ。」
 その時である。その瞬間である。突然、私も老師も、この寺の本堂も何もかもがぶち抜けたのだ。すべてが開かれたのだ。天地いっぱいに広がる歓喜が開かれたのだ。私は隻手の音声そのものであった。すべてが隻手の音声の中にあった。否、隻手の音声でさえない。あたり一面は、存在それ自信の光明に満ち渡っていた。虚空を歩いているような自由が感じられ、歓びは限りなく満ち渡り、こみあげてくるのだった。私は境内《けいだい》に出た。夜で、月明かりの中に庭や記念碑や前の道路が見えた。しかも、それらすべてが大生命の光明そのものなのだ。
 その晩、私はアパートに帰ることにした。老師は寺の玄関まで私を見送ってくれた。「これで、お前の屁理屈《へりくつ》は終ったな」そう老師は言った。私は合掌礼拝して、境内を道路の方へ向って歩いていった。私は光の中を歩いていた。ふり返ると、老師が私に手をふった。それは無心な幼な子のしぐさのようであった。


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