@Hirahara_Chiaki
千秋

ダンテス・ダイジ著『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』p.6-9

 マントラ禅における目覚め(原文のルビは〔〕内に表記した)

 今日〔きょう〕の坐禅冥想は、私に南無阿弥陀仏〔なむあみだぶつ〕の念仏を唱えさせた。夏の昼下がりで、開け放った窓から、沖縄の乾いた風が流れ込んできていた。
 私は余念なく坐禅の姿勢で念仏を唱えることに専念した。念仏は私の全心身の中核から自ずから流れ出るかのように繰り返され、南無阿弥陀仏のヴァイブレーションは、私の意識をグングンと計り知れぬ力で深めていくのを感じた。急に日常的現実感は、どこか遠くへ消え去り、異様な霧のような光の中にいるかのような限りない広がりがすべてを包んだ。私の念仏を唱える音声は、その霊的霧の限りない広がり一面に響き渡っていた。
 私の念仏は、ひたすらに続く。
 ふと気がつくと、私という存在が位置していると思われる斜め右前に、何かがいるという感じを強くもった。その何かは急速に明確なビジョンとなって感じられてきた。そして、そのビジョンは固定されて、或る友人の姿となった。それは半年位前に、沖縄の竹富島の真夜中の便所で首を吊って自殺した友人であった。彼は不治の病――進行性筋ジストロフィーに患〔かか〕っていたのだが、その短い寿命を全〔まっと〕うすることなく、自ら死を選んだのだった。
 彼は全身に、あらゆる非業の死を遂げた個生命達の哀しみの底知れぬ重みを漂わせて、私のすぐ右前にいた。私は彼の亡霊をはっきりと見、感じることができた。彼は、坐禅している私の身体にすがりつくようにして、一緒に死んでくれと言葉でない言葉で言った。一瞬、私の中に得体〔えたい〕の知らぬ恐怖がよぎったようだった。私は尚一層、懸命になって念仏を唱えた。その念仏が私に死へのやさしい覚悟〔かくご〕を与え、得体の死れぬ〔原文ママ〕恐怖感は何ということもなく消散していた。私は「君と一緒に首を吊って死んでもいい」と答えた。すると、薄曇りの中に星のまたたく真夜中の竹富島に私はその友人とともにいた。石でできた家の外にある便所の前に私達は立っていた。その便所の換気用の隙間に棒を通して、その棒にひもを結びつけ、私はその筋ジストロフィーの友人とともに首をくくった。
 その間も、私は南無阿弥陀仏を唱え続けていた。
 私はその友人の人間の果てにある孤独感を理解した。私は彼とともに首を吊って、真夜中の便所の中で死んだ。
 南無阿弥陀仏の声が静かにあらゆるものを包んでいた。死ぬことのない私、肉体でない私、南無阿弥陀仏そのものが、時を忘れて南無阿弥陀仏を唱え続けている。そこには、南無阿弥陀仏の一念のみが響き渡っていた。あらゆる生命の苦悩と死が南無阿弥陀仏の中を流れ来たり、流れ去っている。あらゆる苦悩と死が仮象として現れ、そして消えた。
 不可思議な光がすべてに満ち渡っている。
 必死の念仏の高揚は、やがて静かな透明な落ち着きに変わっていった。気がつくと、私はもとの坐禅冥想中の自分に戻っていた。私は何もかも忘れて念仏を静かに唱え続けていた。友人の亡霊はいつのまにか消え去っていた。
 私は念仏の中で、一切の死と一切の苦悩とが本当は存在していないことを理解した。あるように見えるあらゆる現象は、業〔ごう〕想念が一時的に編み出した仮象にすぎない。
 どの位の時間が経過したのか、私にはわからない。いつしか、私の念仏は終わり、私はただ静かに坐している。
 それから、私は絶対無から与えられた私の人生について思った。私は、絶対無から与えられた、この仮のものである人生を最も私らしく生きようと思った。その願望は、私に現世的な悦びを与えた。

唱うればわれも仏も無かりけり
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
          ――一遍


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