ネット上で話題になっているドキュメンタリー映画『SNS-少女たちの10日間-』がAmazonプライムでレンタルのセールをやっていたので観ました。

 本作はチェコで制作された映画であり、3名の成人女優にSNSで12歳の子供を演じてもらい、その際にどれだけ成人男性から性的な誘いや被害を受けるのかを克明に記録したものとなっています。本作では女子児童が「ネットを使っているだけで」受ける被害を露骨に明らかにしており、その点がかなり注目されていました。

 しかし、私が観たところ、この映画には様々な問題があるように思われます。

映画としての出来

 第一にドキュメンタリー映画としての本作の出来ですが、正直あまりよくないなという印象です。本作での上映時間の100分ほどの大半が、SNSで少女に性暴力を振るう男たちを映したシーンになっていますが、同じようなシーンばかりで展開に乏しいものとなってしまっています。正直、SNSでの男たちの振る舞いはショッキングなものでこそあれ、1つでも観れば言いたいことは十分わかるものなのでそれ以降のシーンは蛇足でしかありません。

 展開の乏しさの問題は、そのまま内容の乏しさにも繋がっています。本作には性暴力問題の専門家や法律家もかかわっていますが、その視点から性暴力の背景を解説するシーンはほとんどありません。雑談程度に語るところが映されているだけです。

 キャッチーな内容で鑑賞者の注意を引くタイプのドキュメンタリーとして著名なのが、1か月間マクドナルドの商品だけで生活するという『スーパーサイズ・ミー』です。しかし、この作品は単にマクドナルドを食べるだけではなく、その合間にアメリカの食品問題を論じる様々なシーンを挿入し、鑑賞者の理解を深める助けをしています。

 性暴力は誤解されることの多いものです。そのことは撮影クルーが女優に接触してきた性暴力犯と対峙する最後のシーンからもわかることです。しかし、じゃあ何が正しい理解なのかという点を本作はフォローできていません。結果として、SNSでの小児性暴力犯の振る舞いという珍しいものを観るだけの映画になってしまっています。

倫理的問題

 本作は重大な倫理的問題も抱えています。そのほとんどは、実際の女優を用いて撮影を行ったことに起因しています。

 本来、本作のテーマであれば、実際の女優を使用して撮影する必要はないはずです。リアルな3Dモデルでも作ってフェイクの写真を撮影し、それをプロフィールに貼り付けてやり取りはTwitterのような文章型のSNSで行うだけでも、小児性暴力犯からのアプローチは無数にあったと思われます。しかし、映画の制作陣は実際の女優を用いてSkypeでやり取りすることを選びました。

 これは、映画としては映像として小児性暴力犯の振る舞いが残るほうが映えるからでしょう。しかしそれは、映画を売るために女性を利用する行為であり、そのような振る舞いは女性を利用して目的を達成しようとするという点において、小児性暴力犯と大差ないのではないかと思われます。チェコがどうかはわかりませんが、一般に映画業界は女性を搾取することが問題視されており、そのような問題が本作にもなかったとは言い切れないでしょう。

 本作ではカウンセラーなどが出演者を支援したとされていますが、この支援が十分だったとは思えません。出演者の中には過去に同様の性暴力被害を受けた人もいるようですし、1人は撮影後3か月経っても悪夢を見ると証言していることから、撮影の侵襲性が高かったことが窺えます。こうした問題が容易に予見される場合、撮影は行うべきではありません。

 本作の問題の中でも特に大きいのは、フェイクとはいえ女優の裸の写真を作成し小児性暴力犯に送信したことです。この写真はモデルの裸に女優の顔を合成する方法で作成されたものですが、しかし、自分の顔がついた裸の写真がネット上にアップロードされるというのはそれ自体が性暴力被害であるはずです。体が自分じゃないからいいとはならないでしょう。特に芸能人のような著名な女性への嫌がらせの方法の1つとして、裸の写真に顔をコラージュした画像を作成するというものが伝統的に存在しています。それでもこうした撮影を行ったこと自体が、制作陣の性暴力への無理解を表しています。

「変わったこと」のマチズモ競争

 本作に登場するSNS利用者の男性のほとんどが、小児性暴力犯です。しかし、唯一の例外としてそうではない男性も登場します。彼は利用者男性の中で唯一モザイクなしで出演しており、その後の調査で全く性的な目的がなかったことが明らかになっています。本作ではこの男性のことを例外的にまともな男性として持ち上げていました。

 しかし、本当にそうなのでしょうか。確かに性的な目的はないとして、では彼は何の目的で12歳の少女に接触してきたのでしょうか。

 私が気になったのは、彼の発言に説教臭い響きのあることです。まぁ、12歳に成人が話すとどうしてもそのような響きが出てくるものかもしれませんが、そこに「マンスプレイニング」という補助線を引くと見えてくるものがある気がします。

 結局のところ、彼にとってSNSで活動する少女―つまり、裸の写真を見知らぬ男に送ることもある
「ふしだらな」少女―と接触し、あえてそうした要求をしないことは、自分の「男らしさ」の確認作業だった
のではないでしょうか。普通の男ならこうするというところであえてそうした行動をとらないというのは、男らしさの要素の1つである独立や自律を表現しているとも解釈できます。

 また、彼が通話の中でかなり強い言葉を使っていたことも、この解釈を支持する傍証になります。SNSで子供に手をかけようとする「情けない男」を否定し、彼らを暴力的に制裁しようとする振る舞いは、ある意味では典型的に「男らしい」行動です。

 我々男性にとって非常に都合の悪いことに、男はありとあらゆるものを自分の男らしさの証明に利用しようとし、そのことでマチズモ的な男社会における自分の順位を上げようとしてしまいます。一般的には女性をいかに手酷く扱えるかでこの目的を達成しようとしますが、社会の変化に応じて男社会の価値観も変わってくれば、目的も変化します。「イクメン」がもてはやされジェンダー平等に配慮する男性に価値があるとなれば、男社会はそれを「男らしさ」の枠に入れ、そうできない男性を「男らしくない」と見下すという自家撞着にも近い振る舞いをするでしょう。

 こうした問題を避けるのは非常に難しいと言えます。それでも、我々男性は自分自身が「男らしさ競争」にはまり込んでいないか、絶えず自分を監視する必要があります。

 本作はこのように問題の多い作品ですが、小児性暴力犯に見せるのはいい利用方法かもしれません。傍から見るとこの手の気持ち悪さは一層わかりやすいですから、自分の行為の意味もよく理解できるようになるでしょう。