日本の大手メディアが報じない、中国の「諜報機関」の知られざる実態 弾圧、粛清、攪乱工作のオンパレード

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中国の諜報機関の大物が亡命?

「董経緯」という名前に見覚えがあった。今年6月、中国の諜報機関として名高い国家安全省の次官である董経緯の米国亡命の噂についての記事を読んだ時のことだ。今から2年ほど前、筆者は『諜報・謀略の中国現代史:国家安全省の指導者にみる権力闘争』(朝日新聞出版、10月刊行)を執筆するために、国家安全省大臣・陳文清とともに董経緯の資料も収集していたのである。

念のため断っておくが、この度の著書や当原稿を執筆するために利用した資料の全ては、陳文清や董経緯に関するものも含めて、誰しもアクセス可能なものである。

当時、新型コロナウイルスが武漢ウイルス研究所でつくり出されたという証拠を、董経緯が米国側に提出したと報じられたことから、センセーショナルな反響を世界中に呼び起こした。しかし董経緯の亡命そのものが噂の域を出ていない。中国当局は董経緯の亡命を打ち消すかのように、彼が重要会議に出席していると発表するようになったのである。また米国政府関係者も董経緯の亡命を完全に否定したというのだ。

新型コロナウイルスの起源については、筆者は判断材料をもちあわせていないので、ここでは触れない。一方、中国当局による董経緯の亡命を打ち消す発表については、引っ掛かる点がある。中国当局は、董経緯が重要な会議に出席したと発表した際に、彼の生年や写真についても明らかにしたが、筆者が2年ほど前に把握していたものとは異なっているのである。

2年ほど前、筆者は中国の官製メディアの報道や、『大紀元(法輪功系統の中国語オンライン雑誌)』の2016年7月の署名入り記事(https://www.epochtimes.com/gb/16/7/25/n8134727.htm)などに基づき、董経緯のプロフィールを次のように推定していた。

1951年1月、河北省石家荘市生まれ。石家荘化学肥料工業学校で1年間学んだ後、1969年に同市の工場に就職。石家荘市第二製薬工場党委員会書記や河北省総工会(労働組合)副主席などを歴任し、その間に復旦大学で法学修士号を取得。2002年に同省邢台市党委員会書記に就任(2008年まで)。2006年に河北省国家安全庁長を兼職(2017年まで)。2018年に国家安全省次官に昇格。

2年前の中国語版ウィキペディアの董経緯に関するページもほぼ上記と同様である。また董経緯の写真を見ると、(A)、(B)いずれも眼鏡姿である。

2019年の董経緯に関するウィキペディア
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董経緯の写真(A)[董经纬_百度百科 (baidu.com)]

董経緯の写真(B)[红网记者看河北:见证“邢台新闻网”开通(图)_新闻中心_新浪网 (sina.com.cn)]

明らかに、別人の写真だ…

米国亡命の噂が報じられるようになってから、それまでとは異なり、中国当局は董経緯が1963年11月生まれであると公表するようになる。ただし河北省国家安全庁長を経て、国家安全省次官に昇格したという経歴に関しては同じだ(https://www.chinalaw.org.cn/portal/page/index/id/25143.html)。

中国語版ウィキペディアのページにも同様の記述が見られる(https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A3%E7%BB%8F%E7%BA%AC_(1963%E5%B9%B4))。

『大紀元』の今年6月の署名入り記事も1963年生まれの董経緯が亡命したとしている(https://www.epochtimes.com/gb/21/6/19/n13033380.htm)。なお1951年生まれの董経緯については、現在、中国語版ウィキペディアにもページはあるが、河北省国家安全庁長や国家安全省次官に就任したという具体的な記述は一切ない(https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A3%E7%BB%8F%E7%BA%AC_(1951%E5%B9%B4))。

一方、中国当局が公表した董経緯の写真(1)を見ると、眼鏡をかけておらず、俯いているために、先ほどの2枚の写真と同一人物かどうかは判断できない。しかし中国当局が公表した写真(2)の右から4人目の人物は董経緯にまちがいないが、先ほどの2枚の写真(A)、(B)とは別人にしか見えない。

中国当局が公開した董経緯の写真(1)[【一点资讯】国家安全部副部长近期频繁露面,重点提到两类人 www.yidianzixun.com]

中国当局が公表した董経緯(右から4人目)の写真(2)[6502909.jpg (560×363) (mps.gov.cn)]

ちなみに『大紀元』の今年6月の署名入り記事に貼り付けられた陳塘関なる人物のツイッターの写真(3)も、1963年生まれの董経緯に関する英語版ウィキペディアのページの写真(4)も、明らかに写真(2)と同一人物だ。

英語版ウィキペディアより董経緯の写真(4)

中国当局の攪乱工作ではないか

ところが、第18回党大会(2012年11月開催)の代表にメッセージを送るためのサイトでは、1951年生まれの董経緯の写真が河北省国家安全庁長という肩書で掲載されているのを、今日でも見ることができる。

中国共産党の公式サイトゆえ、何重ものチェックを経ているはずだから、同姓同名だからといって、写真が取り違えられたとは考えにくい。

実はニューズウィーク日本版のオンライン記事に貼り付けられているWION-YouTubeに登場する董経緯の写真も1951年生まれの董にそっくりなのである(もっとも同記事は董経緯が1963年生まれだとしているが、https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/06/post-96566.php)。

一体どちらの董経緯が河北省国家安全庁長を経て国家安全省次官に就任した人物なのだろうか? 筆者はその問いに正しく答えられない。しかし一つだけ確信をもって言うことができる。同じ経歴をたどった2人の董経緯が登場したのは、中国当局の攪乱工作にちがいないということである。

では、中国当局はなぜ攪乱工作を仕掛けるのだろうか? 筆者にも確かなことはわからない。しかし河北省国家安全庁長を経て国家安全省次官に就任した董経緯が、本当に米国に亡命したと考えれば、全てに合点がいくだろう。

国家安全省次官というこれまでで最高位のインテリジェンス関係者の亡命は、我々の想像以上に習近平政権に大きな打撃を与えた。そこで打撃から立ち直る時間を稼ぐために、もう一人の董経緯をつくり出して、本人の亡命をカモフラージュする攪乱工作を仕掛けた、というわけである。おそらく1951年生まれの董経緯が退任間際になって亡命したのだろう。

習近平と敵対する派閥に属していた?

では、董経緯が亡命に踏み切ったと仮定して、その要因について考えることにしよう。

一因として、董経緯が習近平の政敵だった周永康の派閥に属していたからだと考えることはできる。董経緯は2006年(あるいは2013年)から2017年まで河北省国家安全庁長の職責にあったが、確かにその間(2008~2016年)、直属の上司の一人だった同省政法委員会書記の張越は、周永康派の人物と目されていた。

失脚する前の周永康[Photo by gettyimages]

周永康の失脚後、張越も2016年4月に失脚を余儀なくされ、懲役15年と500万元の罰金などの刑を科されている。董経緯も長らく直属の上司だった張越とは密接な関係を築いていたにちがいないことから、『大紀元』の今年6月の署名入り記事が主張するように、董が張越を通して周永康の派閥に属していたと見なすことも可能だろう。

だが筆者は、そのように見なすことをいささか早計だと考えている。董経緯が張越の失脚に連座することを免れ、その後も河北省国家安全庁長の地位を維持し得たのは、張と付かず離れずの関係を保ってきたからではないだろうか?

その点に関しては、拙著でも触れたが、当時のもう一人の直属の上司だった前国家安全省大臣・耿恵昌が、直属の上司に当たる党中央政法委員会書記だった周永康と付かず離れずの関係を保ってきたことにより、周の失脚に巻き込まれることなく、大臣の職位を全うしたのと同様だと言えよう。

ラジオ・フリー・アジアによれば、おそらく張越の失脚を目の当たりにしてからだと思われるが、董経緯は習近平と密接な関係を築くようになり、習に仕える工作員を多数養成したということだ(https://www.rfa.org/mandarin/yataibaodao/junshiwaijiao/rc-06182021095909.html)。おそらくこうした功績が認められて、2018年に国家安全省次官に昇格したにちがいない。

「両面人」と「教育整頓」工作

もっとも董経緯のように、かつて習近平と対立する周永康の派閥に属していたと目されながら、習派に新たに加わった高官は、不安定な境遇にあると言える。習近平は基本的に地方政府在任時期から自らに仕えてきた部下など、首尾一貫して習派に属してきた高官しか信用していない節があるからだ。

習近平の権力掌握後に習派に加わった高官が、どれだけ習に忠誠を尽くそうと、習から「両面人(面従腹背の人物)」ではないかという疑惑の目で見られてきたのである。

拙著でも触れたが、特に目下(2020~2022年)、国家安全省や公安省をはじめとする党中央政法委員会の傘下機関において、「両面人」を粛清する「教育整頓」工作が大々的に発動されている。その背景には、習近平が2期10年という慣例通りに総書記を引退することなく、来年の党大会で3期目続投を確定させるために、国家の暴力装置の一つである国家安全省や公安省などの完全掌握を目指していることがある。

「教育整頓」工作の責任者は、習近平の浙江省在任時期からの部下である党中央政法委員会秘書長の陳一新だ。陳一新は秘書長に過ぎないとはいえ、「教育整頓」工作を通して、幹部の生殺与奪の権限を握るようになり、同委員会書記の郭声琨をしのぐほどの権勢をふるっているものと見られる。

「外様」は失脚に追い込まれる

「教育整頓」工作では、地方政府の国家安全省や公安省の系統の幹部が大々的に粛清されただけではない。いみじくも10月、大臣である陳文清も出席した国家安全省の「教育整頓」工作の会議において、その直前に失脚したばかりの傅政華が名指しされたが、なんと司法省大臣の経験者だったのである。

かつて司法省大臣も経験した傅政華[Photo by gettyimages]

傅政華は1955年に生まれ、北京市公安局長や公安省次官、法輪功弾圧のための専門組織「610弁公室」主任、司法省大臣を歴任した人物だ。傅政華は北京市公安局長だった時分に、党中央政法委員会書記だった周永康に部下として仕えていた。

しかし2013年、傅政華はかつての上司・周永康に弓を引く。警察組織を率いて、中央規律検査委員会と連動しながら、周永康の摘発に大きく貢献したのである。また傅政華は2015年、人権派弁護士や活動家らを一斉拘束した「709」事件にも大きく関与した。こうした論功行賞により傅政華は司法省大臣にまで昇進したにちがいない。

もっとも、傅政華は純粋な習近平派ではなく「外様」だったゆえに、最終的に失脚に追い込まれたと見られている(日経速報ニュースアーカイブ、2021年10月13日付け)。2020年4月に失脚した公安省次官・孫力軍に続く中央政法委員会傘下の大物の失脚だった。

2020年4月に失脚した元公安省次官の孫力軍[Photo by gettyimages]

董経緯は亡命前、傅政華に中央規律検査委員会の内偵が及んでいるのを、職掌柄察知していただろう。習近平の一強支配体制の確立のために、傅政華は董経緯よりもはるかに貢献していただけに、董は自らも「外様」ゆえにいつ失脚を余儀なくされるかという不安にさいなまれるようになったにちがいない。そこで中央規律検査委員会からマークされる前に亡命に踏み切ったのだろう。

次の焦点は「董経緯の上司」の行く末

次の焦点は董経緯の直属の上司に当たる国家安全省大臣・陳文清だ。拙著でも触れたが、陳文清は周永康が四川省党委員会書記だった時分、同省国家安全庁長を務め、周の覚えがめでたかった。

しかし後に習近平の地盤である福建省に異動することにより、習派に属するようになる。すなわち陳文清も董経緯や傅政華と同様に、純粋な習近平派ではなく「外様」なのである。周永康の摘発に当たって、陳文清は中央規律検査委員会副書記として大きく貢献したことにより、国家安全省大臣に昇格している。そうした点でも傅政華と同様だ。

陳文清は「外様」ゆえに、習近平に対してまごうかたない忠誠心を示す必要に駆られてきたためだろうか、国家安全省の諸工作を暴走させてきた。もとより国家安全省は1983年の創設時に、訒小平から幹部の粛清に関与することなく、国益のための外国絡みの工作に専心するように指示されていた。

しかし陳文清の下で、国家安全省は反腐敗闘争という名において、幹部の粛清工作に大々的に関与してきた。さらに外国絡みの工作に際しても、習近平の意向を忖度して、外交問題を次々に引き起こすまでになったのである。

一例として、これまで十数名に及ぶ日本人をスパイ容疑で拘束してきたことが挙げられるだろう。また中国国籍か外国国籍かを問わず、外国在住のウイグル族や法輪功の信徒などに対して、当該国の法律を無視してまで、脅迫などの人権侵害を行なってきた。

董経緯の亡命を機に、今後、陳文清はどうなるのだろうか? 部下の亡命という一大不祥事の責任を何らかの形でとらされ(最悪のケースは傅政華と同様に失脚だ)、習近平の地方政府在任時期の部下、すなわち純粋な習派の人物にとって代わられるのだろうか? それとも大臣の職位を全うし、さらに昇格していくのだろうか?

仮に後者の場合でも、習近平の陳文清を見る目は、董経緯の亡命によって厳しくなっているものと思われる。そのため、陳文清は習近平に対してまごうかたない忠誠心を過剰なまでに示そうとして、国家安全省の諸工作をさらなる暴走へと駆り立てるにちがいない。そうなれば、習近平の権力基盤はさらに盤石になるかもしれないが、その代償として深刻な外交問題を頻発させるに至るだろう。